届かないもの

 今日の天気は雨。あの日、彼女を初めて目にした日以来、二日ぶりの雨。一段と癖っ毛の調子が悪く、機嫌も自ずと悪くなる。やっぱり雨はろくなものではない。でも一つ、いい発見をした。彼女は雨の日に現れるらしい。正確に言うなら、雨の日にだけ登校時間が僕と被るようだ。

 いつも通り雨に対する文句を頭の中でぶつぶつ呟きながら歩いていると、傘を差す彼女がそこにいた。


 二日ぶりの姿。雨の日にしか会えない誰か。傘で姿を隠す女の子。


 そんな事を思うと、何やら神聖なものに対峙している気がしてくる。軽々しく正体を明らかにしていいわけがないと思えてくる。

 学年も、髪型も、首の長さも、アクセサリーの有無も、性格も、何も分からない。分かるのは傘が水色であることと、スカートと靴下を着崩していないこと。

 分かることが分かるほど、分からないことが浮き彫りになっていく。

 分からないことの多さがその存在の特別さを大きくしていく。

 僕の中で、彼女は数メートル先にいるだけではない、言い表せない距離を感じるようになった。


 その日以降、僕は傘を差す彼女の正体を知ろうとすることをやめた。


 正体を知ろうとすることをやめた反面、雨の日が来ることを待つようになった。そんな僕に対して、お天道様があざ笑うかのように晴れの日が何日も何日も続いた。

 その間、僕は天気という巨大な存在に苛立ち続け、そんなちっぽけな自分に焦り続けた。

 停滞することが得意なはずの秋雨前線は、どこかへ気まぐれに流れていってしまったのだろうか。

 雨がよく降る時期もあればあまり降らない時期もある。浮ついた気持ちの中にいた僕は、そんな当たり前のことを忘れていた。

 もう当分、彼女には会えないのだろうか。


 僕はどうしようもなく、彼女に恋をしていた。傘を差した後ろ姿以外、何も知らない彼女に。大嫌いな雨の日に、たった一つの楽しみをくれた人に――。


 朝、目を覚ますと雨の日特有の空気を肌に感じた。寝起きの悪いはずの僕が、その感覚に一気に眠気を覚まされた。

 カーテンを開け、勢い余って窓まで開ける。

 雨、雨、雨。

 間違いなく、一週間ぶりの雨が降っていた。

 一通り、朝の身支度を済ます。

 溢れる高揚感を抑えられない僕は、いつもと違う機嫌の良さを隠すことも出来ず、「行ってきます!」と大きな声でお母さんに言うと、寸分違わず普段通りの時間に扉を開けた。

 歩くペースが速くなりそうなのを必死に抑え、いつも通りいつも通りと心で唱える。

 長く感じる時間を耐え、ようやく田んぼ、一軒家、アスファルトのいつもの景色にたどり着く。

 その景色の中に違和感を生む存在、傘を差す彼女はやはりそこにいた。

 僕は決めていた。雨が降らない日々の中で、いつ会えるか分からない姿を思い出しながら。彼女の姿が僕の景色の中で特別であるうちに、風化してしまう前に。くだらない拘りを捨てて、次の雨の日に声を掛ける、と。

 僕の中にあるありったけの覚悟と勇気を振り絞る。

「あ、あの……!」

 僕が声を出すと同時、大きなエンジン音が、車道を駆け抜ける。それは緊張で掠れたちっぽけな声をかき消すには、十分過ぎる音量だった。

 僕の声は傘を差す彼女には届かなかった。

 それなりに寒い秋の、それも雨の日に僕の顔は、茹でだこみたいに真っ赤に染まっていた。

 僕の世界から色が、匂いが、雨の音が消えてなくなる。感じられるのは異常に早い心臓の鼓動だけ。

 僕の勇気はそこまでだった。もう一度、声を出すことは出来なかった。


 その後、再び雨の降らない日々が続いた。

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