黒い扉

熊猫ルフォン

黒い扉

 物語は不動産の内見に似ている。


 想像してみてほしい。貴方はいま一冊の「本」を手にしている。ハードカバーでもソフトカバーでも四六判でも文庫本でも構わないが、その「本」の表紙は黒く塗りつぶされ、オーク材の扉じみた重厚な趣を湛えている。その黒い扉を開くと目次がある。章区分がある。玄関に入ったとき、ちょうど屋内の構造がざっくりと見て取れるように。廊下を行く。リビングに入る。視界がひらけて明るくなる。導入が終わり、物語の概観が把握できた頃合いである。リビングの細部に目を向けていく。キャラクタアの性格を、人間関係を、世界観を掴むために。キッチンを確認する。便所を探す。浴室を覗く。そしてときに立ち止まり、生活を想像してみる。将来を、この先の展開をイメージする……。


 原稿の手隙に、そんなくだらない想像を書き連ねている最中だった。事務所の黒い扉──まさにいま手元の用紙に書き出したようなオーク材の扉だ──からくぐもったノックの音が一回、こんと響いてきて私は顔を上げた。夜だった。音はそれきり鳴らなかった。


 私はじっと扉を見つめた。上部にはめ込まれたすりガラス越しに何者かの影が見える。和紙に落とした墨汁の如く、訪問者の輪郭が滲んでいた。それがじわじわと広がっていくようで、私は再びドアがノックされるのを待ったが、しばらくその影を睨み続けた末、根負けして「はい」と応えた。


 ぎっ、と軋んだ音を立ててドアが開く。鬼が出るか蛇が出るか、腰を浮かせて凝視していたものの、黒い扉の向こうから表れたのはそのどちらでもなかった。表れたのは青年だった。ウールのコオトに身を包んだ、一見したところ目立った特徴のない、印象の希薄な男である。私は拍子抜けする思いで、しかし多少の警戒を保ちながら青年に声をかけた。


「どうしました? うちに何か御用でしょうか」


 青年は顔を斜めに逸らして、目だけで私を値踏みしたようだった。嘗め回すように視線を上下させると、彼は何か胸中で飲み込んだらしく、顔を正面に戻して小刻みに頷いた。自分を納得させるような仕草だった。


「H先生でよろしいでしょうか」


 いくらか安らいだ様子で、青年が訊いた。


「ええ。貴方は?」

「私はAと申しまして、隣町の大学で経済の研究をやっております。どうもこんな夜分に失礼を」

「それは構いませんが……。本日はどういった御用件で?」

「……実は先日とある体験をいたしまして、その体験について誰かに打ち明けたく、いえ打ち明けねばと思っていたのですが、同僚に話そうにも躊躇われ、しかし一人で抱え込むのも耐え難く、ここはいっそ令名高いH先生に告白し、お話の種にでもしていただければと計算しお伺いした次第です」

「はあ、なるほど。とりあえずそちらにおかけください」


 応接間のソファセットに、我々は向かい合って腰かけた。初めこそ冴えない印象だったが、あらためて青年を観察してみると、なるほどその風貌には大学の人間らしい知性の発露が見受けられる。理知の光が瞳の表面を濡らし、目尻や口元の若皺は柔らかく、学生を相手する苦労と研究への慎ましい喜びが肌に染み付いていた。遅くに訪ねてきたのは気になったが、私は何となく青年に好感を覚えた。


「……それで、とある体験というのは」

「ええ、お話します。しかし断っておかなければならないのは、私自身この出来事について整理がついていないということです。要領を得ない箇所も多々あると思いますが、どうかお終いまで聞いていただきたい」


 私は首肯うなずいた。彼はテーブルに身を乗り出すようにして口を切った。


「ありがとうございます。そうですね……まずは日時から明らかにしておくと、先ほどは先日と言いましたが、それは一週間前とか一箇月前とかそんな遠い過去の話ではなく、つい二日前、二十日の夜の話なのです。私はその日、大学で開かれたあるシンポジウムに参加し、──いえそのシンポジウムの議題は私の研究領域からは離れていたのですが、学内で行われる会とあって一応出席を……ええ、義理と言えば正しいかもしれません。その討論会の帰り、そう、ちょうどいまぐらいの時間です。同僚と駅で分かれて、私は一人帰路を歩いていました。ここ最近では一段と冷え込んだ夜でしたので、コオトだけでは襟元から寒さが染み込んできて、さらには退屈な討論会の最中しきりに御茶を飲んでいたものですから、自然尿意を催して近場の公衆トイレに立ち寄りました。駅を西に行った、はい、T公園です。御存じかもしれませんが、あそこの公衆トイレは二三年前にできたばかりで、並の家の便所よりも一際綺麗に造られているのです。男性用のトイレは、入り口の真正面に手洗い場が、その右手に小便器が並び、小便器の向かい側に個室が二部屋設けられています。私は、入り口から一番距離の近い小便器で用を足し、それで帰路に戻るつもりでした。まさか背にした個室に人がいて、しかもその人物が扉を開けたまま便器に座っているなどとは夢にも思わなかったのです。ええ、私以外にも人がいたのです。それだけなら、公衆トイレですから、夜中といえども先客がいることくらいあるでしょう。しかし個室で扉を開け放したまま用を足す人間がいるとは──仮にも公共の場で──予期しておりませんでした。私は吃驚びっくりして、あっと声を上げました。不思議なことに男の方は、その声を聞いて初めて私の存在に気づいたという様子で、ぬっと首を持ち上げると、ああすみませんと呟きました。ズボン? おろしていました。いえ冗談を申しているのではありません。どうか先生、お笑いにならないでください。


 話を戻しましょう。男は、ああすみませんと呟いた後、扉を閉めるでもなく真っ先に弁明を始めました。これは失礼しました。私は昔から閉所が苦手でして……、という具合です。何故だか私の脳味噌には、このときの彼の弁明の台詞が一言一句刻まれてしまったようで、あの薄暗い公衆トイレで語られた内容物をまったくそのまま諳んじることさえできます。……そうですか、ええ、先生がそう仰るなら私に固辞する理由はありません」


 私は、青年の語りに釣り込まれて、男の弁明についてありのまま聞かせてほしいと伝えたのである。青年は居住まいを正し、神妙な顔つきになった。


「では改めて……、男は次のように語りました。


『ああすみません。これは失礼しました。私は昔から閉所が苦手でして、本当にお見苦しいところを……。しかし先生(男は私のことを先生と呼びました。大学の人間か、あるいはシンポジウムに同席していたのかしらといろいろ考えましたが、後で振り返っても男とは初対面であったように思われます)私には仕様がないことなのです。私の身の上を聞けば、きっと先生も同情して下さることでしょう。きっかけは、そう、きっかけ……やはりそれが私の人生を決定づけたのだと思います──私がまだ小さい時分、寝食を共にしていた叔父が亡くなりました。運命が我々を支配するならば、しかし叔父が死ぬまで私は運命から自由でした。私が支配されたのは叔父の死がきっかけだったのです。叔父は一人で亡くなりました。私たち家族が住んでいたその家で亡くなりました。家の風呂場で、心臓を停めて、後で病院に運ばれましたが、最早手遅れでした。私たち家族は、同じ屋根の下にいながら、叔父が倒れた音を、心臓が停止し、運命が彼を見限ったその瞬間の鐘の音を、誰一人聞きませんでした。ラジオでも聞いていたのか、勝手仕事に気を取られていたのか、本当のところはシャワーの水音が、叔父の頽れる音を、いくらか相殺したのでしょうが……私たちは叔父の死に、長いこと気がつかなかったのです。病院の医師は、発見するのがもう少し早かったら、手の施しようがあったかもしれないと言いました。しかし叔父はいつも長風呂でしたし、私たちは、シャワーが出ているのは体を洗っているせいだと無意識に思い込んでいたので、医師が言うのは土台無理な話でした。


 私はその日から、浴室が恐ろしくなりました。叔父の霊を恐れたのではありません。シャワーを浴びる間、湯船に浸かる間、もしもいま自分の心臓が動きを停め、叔父のように倒れ伏したら──そう考える癖が身についてしまったのです。妄想は、やがて押し広がり、絶えず私の魂を脅かしました。叔父の死から一年が経つ頃には、たとえ浴室でなくとも、仮に心臓が停止した場合、誰にも見つけてもらえないような場所は、どこであろうと恐怖の対象に変わりました。用を足すにも、その時期から、扉を開け放しておかないと死ぬ思いでした。決して誇張を言っているのではないと、先生ならすでにお分かりでしょう。私はもう四十年近くもの間、この恐怖と付き合ってきたのです』


 彼は以上のことを淀みなく説明し、あまりに唐突な成り行きにその場を動けずにいた私でしたが、そこで金縛りが解けたように、はっとして、しかし何を答えたらいいやら、悩んでいる内に『はあ』と、返事とも溜息ともつかない声が漏れ出て、その余勢を駆るようにしていくつか同情の言葉をかけました。男は特に反応を示さなかったのですが、いざ私が逃げ出そうと決心した途端、まだ話は終わっていませんと暗い声で囁き、私は心臓を鷲掴みにされた心地で、再び彼の話に耳を傾けざるをえませんでした。


『まだ話は終わっていません。先生、どうか最後までお聞きください。私はいま申し上げた通り密室恐怖の性格を持っていますが、過去には何度となくこの性格を矯正しようと試みたのです。医者にかかり、薬を用い、ある時には霊媒師を名乗る男に降霊をお願いして、叔父の霊に助言を乞うてみたりと、そんな茶番すら演じました。そのどれもが徒労に終わったことは言うまでもありませんが、私自身、治したい治したいと口にしながらも、時が経つにつれどこか慣れが出てきて、──恐怖への慣れではなく、生活に慣れ始めたという意味ですが──学校や職場では、成る丈閉所を避けることで、発狂だけは免れてきました。不慮のことから、先生のように、私の性格を知る者もありましたが、友人に恵まれたのです、大概は事情を説明すると納得して下さって、彼らもまた時間とともに慣れていくのでした。


 ええ、私の生活は、狂気と隣合せに、辛うじて平穏を保っておりました。昨秋の暮れごろまで、これといった不便もなく、また大過なく、無事に暮らすことができていたのです。しかしこの冬、新しく職場に迎えた同僚のために、仮にも安寧の内側にあった私の生活は、一瞬間に奈落へと突き落とされてしまいました。


 その同僚というのは、Mといって、前職で何か人事の問題を起こしたらしく、私のところの社長が、やむなく、姉妹会社から引き取ってきたのだそうです。そうした事情を聞き及んでいたので、私や私の同僚は、最初、随分用心して彼と接していたのですが、噂に違い、彼はなかなか立派な人で、仕事も素早く、気配りができて、あっという間に皆と打ち解けてしまいました。私も、当時はすっかり気安い心持ちで、君は大人物だと、いまからでは考えられないようなことを、本人相手に言ってみたりするのでした。Mは決まって謙遜していましたが、その後も持ち前の大胆さで、上長すら遣り込めるものですから、一層仲間に歓迎されて、職場での位置を確固たるものにしていくのでした。


 私は油断していたのです。私の所有する性格が、傍目にはどのように映るのか、まるで麻痺していたのです。Mがやってきて二週間、私の密室恐怖は、愈々いよいよ彼にも露見しました。いえ、私の方からMに打ち明けたのです。遅番の際に、彼と二人きりだったのですが、倉庫に行く用事があって、仕方なく打ち明けたのです。そのときは、彼の方も事情を汲んでくれて、二人で倉庫に赴いたのですが、後で同僚から私の病癖について仔細に聞いたらしく、次の遅番のときに、私の恐怖を取り除く方法があるなどと言って、私は少し疑わしかったものの、このときは彼を信用していましたし、また僅かな期待も手伝って、その方法について訊ねました。するとMは、工具類を収納した物置に私を伴って、○○の道具が必要なのです、と、平気な顔して嘯き、私がその道具を探しに物置へ踏み入れた瞬間、いきなり表のドアを閉めて、一転私は真っ暗闇に一人取り残されたのでした。突然の彼の裏切りに、ほとんど反射で、かっと怒りが湧き上がりましたが、外から鍵をかけられ、自分の置かれた状況を頭が理解すると、怒りはすぐに萎れて、私は泣きべそかいた子供のように情けなく、扉一枚隔てた先にいるMに、ここから出してくれと懇願するしかありませんでした。しかしMは、扉の向こうから、これは密室恐怖の治療ですよ、××さん、きっとよくなりますなんて言って、私の訴えには耳をかさず、時間が経てば私が大人しくなるとでも思ったのか、挙句の果てにはその場を去ってしまった様子なのです。おそらく彼は、私の性格は、異常で、矯正されて然るべきものだと考えていたのでしょう。先ほどは裏切りといいましたが、そこには私への悪意などなく、むしろ善意すらあったかもしれません。しかしそのやり方は、潔癖症の人間に、虫や汚物を塗りたくるのと同じ種類の荒療治で、私は絶望に打ちひしがれ、暗闇の奥から、じわじわにじり寄ってくる狂気に、絶えず声を枯らしながら、外へ助けを求めるのですが、時間が遅く、職場にはMしかいない上に、物置も奥まった場所に位置していたので、誰も私に気づくはずないのでした。そのことを悟ると、もう叫ぶのもやめて、恐怖に気が違いそうでしたが、それでも遅番の終わりには、Mが戻ってくるだろうと、寒さに身を縮こめて、恐ろしい想像を頭の中から追い出し、ひたすらその時を待ちました。


 しかしいつまで経ってもMはやってきませんでした。私の性格は、先生にもお話しした通り、密室それ自体に対する恐怖というよりは──もちろんその恐怖も相当ですが──自分が死にかけた場合に、誰にも見つけてもらえないことへの恐怖という側面が強かったため、Mが戻ってくると思えばこそ、どうにか正気を保つことができていたのでした。そしてMは、一度は私を騙したものの、前にも述べたような、使命感の強い人物でしたので、彼が戻ってきて、最後には解放してくれるという点に関して、私が疑いを持つ理由は何もなかったのです。ところが、物置に打ち捨てられていた、蛍光の置時計が、遅番の終わる時刻を示しても、一向にMは現れませんでした。捨てられていた時計だから、どこか壊れているのかしらとも思いましたが、私の記憶と照らし合わせても、大きなズレがあるとは思えません。私の不在によって、業務に遅れが出たのかもしれない、あるいは何か、機械の操作に関して、手間取っているのかもしれない、まさか彼に限って、私の存在を忘れるはずはないだろうと、そんなふうに高を括って、しばらく待ってみましたが、やはりMは戻ってきません。高まっていた期待の気持ちが、閉塞の恐怖に、刻一刻と摩耗していく中で、私はとある可能性を想像して、これ以上ないほど恐ろしくなりました。それは、元来私が恐れていたのと同様の恐怖──心臓が停止する恐怖でしたが、しかしこのとき私が想像したのは、私の心臓についてではなく、Mの心臓についてでした。Mは、この物置に私を閉じ込めた後、何かの理由で心臓を停めて、叔父のときと同じように、誰にも知られることなく、どこかで倒れ伏しているのではないか、かような突拍子もない想像が、恐ろしさで痺れた頭に、すうっと、隙間を見つけて忍び込んでくるのです。私は居ても立ってもいられず、物置の扉に縋って、Mの名前を叫んでみましたが、返る声はありませんでした。さらに運の悪いことには、その日は連休の前日で、仮にMが倒れていたなら、彼の家族が捜しにでもこない限り──独り暮らしだと聞いていたので、それも難しいことでしょうが──Mの死体が発見されるのは、早くても連休明けになり、よって、連休の間、私は物置に閉じ込められたまま、発狂に堪えねばならないというわけでした。先生なら、きっと、私がその後どうなったか、すでにご存じだと思います』


 こうして男の話は、始まったときと同じ唐突さで、途端に打ち切られてしまいました。てっきり私は、男の話の着地点は、彼が物置を脱出するところだろうと当たりを付けていたので、尻切れトンボのような幕引きに、いささか拍子抜けしました。恐る恐る続きを促してみると、男はがっくりと首を垂れたまま、何やらぶつぶつ呟き始めたので、私はその呟きに耳をすませたのですが、ここで私が受けたショックについて、知恵を絞って説明するよりも、彼の呟きを聞いてもらった方が早いでしょうから、またも暗誦させていただきますが、彼はこんなふうに言っていました。


『しかし先生、私には仕様がないことなのです。私の身の上を聞けば、きっと先生も同情して下さることでしょう。きっかけは、そう、きっかけ……やはりそれが私の人生を決定づけたのだと思います──私がまだ小さい時分、寝食を共にしていた叔父が亡くなりました──』


 ええ、男は最初私に話して聞かせた内容を、ぜんまい仕掛けのように、そっくりそのまま繰り返していたのです。私はさあっと、顔中から血の気が引いて、彼はとっくに発狂しているのだ、とっくに狂気の側にいるのだ、と戦慄し、そこで男がおもむろに立ち上がったものですから、もう耐えきれず、とっさに彼の個室の扉を、がたんと、勢いよく閉め切ってしまいました。ええ、彼が密室恐怖であることを失念していたのです。たちまち男の呟きが止み、男の性格を思い出した私は、いまに呻き出すぞと身構えたのですが、しかし扉の向こうは物音一つせず、静寂が張り詰めるばかりで、最早男の気配すら感じられないほどでした。私は、扉の前に立ち尽くしたまま、本当にいまの男は存在したのだろうか、一連の出来事は夢ではなかったかと、何故か猛烈に自分の記憶が疑わしく思えてきて、しかし眼前の扉に目をやると、そこから狂気が染み出してくるような気分に襲われ、ついに男の無事を確かめることなく、その場を逃げ出してしまいました。


 男が最後に言った──最後というのは、一度目の話の最後という意味ですが──あの、『先生なら、きっと、私がその後どうなったか、すでにご存じだと思います』という台詞について、後になって思い出したのですが、彼の言葉通り、私は男の最後を知っていました。いえ、正確には、男ではなく、Mの最後についてです。最前の連休明け、T公園近くの工場で、□□□□(Mの本名)さんの遺体が見つかった、死因は心停止だった、というようなニュースを、研究室のテレビで見かけたのを思い出したのです。そのニュースでは、□□□□さんと同じ時間に勤務していた××さんが行方不明だということも言っていました。結局、男が見つかったという話は聞いていませんが、しかしニュースにならないだけで、とっくに発見されていることだろうと思います。それこそ新聞など確かめてみたら、ベタ記事にでも出ているかもしれません。


 随分長くなりましたが、いま話したような事情を、一度誰かに聞いてもらいたく、また第三者の意見をお聞きしたく、先生をお訪ねした次第です。至らないところばかりですみませんが、どうも最後まで聞いて下さってありがとうございます」


 青年はそう話を締めくくると、長広舌に疲れたのだろう、ソファにぐったりと身体を預けた。


 私もソファにもたれたまま、簡単に話を振り返ってみる。青年が最初に提案した通り、大筋だけ抜き出せば、確かに「お話」の種になりそうな出来事ではあった。一人の物書きとして、興味をそそられたのも真実である。しかし現段階では、オチの部分──男の生き死にが曖昧で、ノンフィクションとして書くには、そこがネックになりそうな予感がした。


「いくつか確認したいんですが……」


 他にも細かいところを詰めておこうと、紙とペンを手繰り寄せ、青年に向き直った瞬間である。私はぞっと、背中に氷塊を差し込まれたような、嫌な悪寒に襲われた。


 ソファに身体を預けたまま、しかし青年の口元が、もごもごと何か呟いている。私の場合、夜の静けさも手伝ってか、耳をすまさずとも自然に内容が聞こえてきた。


「私はその日、大学で開かれたあるシンポジウムに参加し──」


 テーブルに身を乗り出し、青年の腕を取る。その腕が人形のように硬く、私は一瞬ぎょっとしたが、腕をぐいっと引っ張って青年を立ち上がらせると──彼は先ほどの話を繰り返すばかりで、抵抗すらしなかった──されるがままの背中を押して、事務所の入り口まで引きずっていった。彼の身に、あるいは頭に、何か良くないことが起こっているのは明らかだったが、私は本能の忌避感に従い、オーク材の扉を開けて、彼を事務所から締め出すことを優先した。救急(あるいは警察)に連絡するのは、それからでも遅くないと考えていた。しかし扉を閉めてしまうと、途端に青年の呟きがぴたりと止み、扉の向こうは一切物音がしなくなった。


 私は扉の前に立ち尽くしたが、青年のように自分の記憶を疑ったりはしなかった。何故といって、オーク材にはめ込まれたすりガラスから、彼の黒い──どういうわけか、ちょうど顔の高さであるはずなのに、肌色の部分が存在しない──シルエットが覗いていたからである。私は恐ろしくなり、百十番に連絡を試みたが、これもどういうわけか、まったく繋がらないのであった。


 私は、もう一度すりガラスのシルエットに目をやって、とっさの選択を後悔せずにはいられなかった。青年を締め出すのではなく、自分が外に逃げ出してしまえばそれで済む話だったのに、私は、私の手で、私自身を密室に閉じ込めてしまったのである。


 青年は──黒い影は微動だにしない。あの扉を開け、再び彼と向かい合うだけの勇気は、私には備わっていなかった。何度試しても百十番は繋がらず、他の番号も試してみたが、私の退路は完全に絶たれているようだった。






 そういうわけで、恐怖と無聊のあまり、手近にあった原稿用紙に、この状況に置かれるまでの経過を書き連ねてみた。というよりは、扉越しの狂気に長いことあてられて、書き出さずにはいられなかったのである。青年の語った内容物について、ここまで事細かに書き切れたのは、彼の言葉が、一言一句、脳味噌に刻まれていたせいだろうか。


 あれから何時間経ったのだろう。一向に夜の明ける気配はなく、青年のシルエットは、和紙に落とした墨汁のように、じわりじわりと広がって、すりガラスを黒く染め抜いてしまった。少なくとも私の目には、そのように見えている。いまの私は、すでに、狂気の側にいるのかもしれない。

 何はともあれ、この散文が、私の遺書にならないことを祈るばかりだ。


                       H

















 物語は不動産の内見に似ている──

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