厳冬の悪い夢

紫鳥コウ

厳冬の悪い夢

 書棚に囲まれた部屋で書見に耽っていた結花は、メモ帳を新しいページに改めると、いま読んでいる研究書の重要なポイントを記して、関連する頁数を書き留めた。ついでに、机の横にある本棚から二冊の本を取り出して、伏せたパソコンの横に寝かせた。そしてココアを一口飲んで、もう一度、研究書に目を落とした。


 彼女の知らない間に、時刻はもう日暮れになっていた。しかし瓦屋根から雪の塊が落ちる音にさえ勉強を煩わされない結花が、時計を一瞥いちべつすることはない。父親の洋二郎が晩飯の報せを階下から三度呼びかけるまで、彼女の集中が破られることはなかった。


 洋二郎は先ほどまで、妻の加奈子と裏道の除雪に係わる問題で意見を交わしていた。一月になり大雪が降るようになってからというもの、雪かきなしで生活を営むことなど不可能になっていた。が、中野家のガレージに面した横道は、人力だけでは雪かきはかなわず、四方家よもけの除雪機の世話にならなければならなかった。


 その関係上、横道をライフラインとしている家々は、四方家へお礼の金と品を持っていくことが、一応の礼儀となっていた。が、こうも除雪が連続してくると、その礼儀を貫くことが甚だ難しくなってきた。これは例年より大雪が降る今年の厳冬が浮上させた、中野家にとって煩雑な問題であった。


「一回5千円でビール6缶。これがもう4回も続いているのだから、たまったもんじゃないよ。車を玄関の方に出してしまおう」

「でも、そんなあからさまなことをしたら、ご近所さんがどう思うか……」

「しかしな、こんなに散財していたら、俺たちの生活が成り立たなくなるだろう。じゃあ、中畑さんから、あんなはけしからんって言ってもらおうか」

「そんなことをしたら、四方さんになにを言われるか分からないし、それに、どちらかに肩入れするというわけにはいかないから……区長さんだって困るわよ」


 解決の糸口をつかめぬまま、日は暮れてしまった。外では風がびゅうびゅうと音を立てはじめた。しんしんと降っていた雪は斜めに走り、次第に地肌を覆い隠していった。この分だと、明日には脛くらいまで積りそうである。四方家の除雪機の出番は、そう遠からずありそうだった。


     *     *     *


 その夜も結花は、いくつもの本棚に囲まれて書見に耽っていた。院進を視野に入れていた結花は、優秀の印を捺される卒業論文を書くことを第一の目標としていた。それは、入試において必要な条件というだけではなく、この数年で肥大化した彼女の自尊心を満足させるためでもあった。


 先ほどパソコンの横に寝かせた二冊の本に目を通しているうちも、彼女の思索は止まなかった。しかしふとんに入った後は、しんと静まり返った部屋の外で、静寂を破る吹雪を耳にしながら、不安に駆られるのが常だった。むろん、その不安というのは、自然の猛威への怯懦きょうだというより他になかった。つまり彼女の自信を欠損させるものは、人工物の中には存在しなかった。


 が、洋二郎は眠れぬ夜を過ごしていた。朝から雪かきをして仕事へと行かなければならないのに、何度も寝返りを打っていた。彼の頭の上には、四方家との間にある金銭にまつわる問題とともに、もう定年退職が迫る彼自身の身の上の不安や、愛娘の将来に対する憂悶が澎湃ほうはいとしていた。それらは互いに聯関れんかんしあい、一体となって洋二郎を懊悩させていた。


「起きてるの?」

 気だるそうな加奈子の声が、横から聞こえてきた。が、洋二郎はそれには答えず、寝返りを打つだけだった。しかしそれに罪悪感を抱いたのであろう。しばらくして自分に言い聞かせるように、「もう寝るよ」と呟いた。


 日が変わりしばらく経ち、洋二郎は眠りにつくことができた。そして、夢を見た。それはどこかのホテルの高層階らしかった。窓から幾粒もの灯りが見えた。宇宙の中を漂っているような気さえした。


 ベッドの上には、背骨を浮き上がらせた加奈子ではない女性の後ろ姿があった。その背中に一滴の汗もないことに、洋二郎は安堵の表情を浮かべたらしかった。それは、致命的な不義を犯していないことの証拠に思えたからだ。しかし夢とは言い条、加奈子ではない女性と一夜のなかにいるということは、不穏に違いなかった。


 その女性は洋二郎に、「ねえ」と呼びかけたらしかった。が、彼はどうにもこたえることはできなかった。するともう一度、「ねえ」という声が耳に入ってきた気がした。そしてゆっくりと、女性はこちらへと振り返ってきた。そのかおを見ることが洋二郎には恐ろしかった。例えば、もし未婚なら声をかけていたかもしれない、職場の同僚であったりしたら?


 洋二郎は目を覚ました。アラームが鳴るほんの手前だった。悪夢とは言い条、不思議と汗はかいていなかった。それに、多少の動悸を感じるとはいえ、むしろ晴れ晴れしい気持ちにも違いなかった。雪曇りのなかに陽の光が見えるあなを探し当てたような心地であった。


     *     *     *


 まだ明けきらぬなかに除雪機が唸っている。ガレージの中で煙草を吸いながら、夢の中で見た彼女に想いを馳せた。一体あれが誰だったのかは分からない。が、ありえぬことを、ありえたかもしれぬことへと変貌させた夢のことを思うと、ありえぬ現実に付置された身が一瞬の解放を感じたということは、想像に難くない。


 鞭うつような風の響きはまだ聞こえてこない。が、雪の止む気配はしない。きっとまたすぐに積もることであろう。しかしもし、今夜もあの夢を見て、また瀬戸際のところで目覚めるならば、どれだけ幸せであろうか。悪い夢を愛しいほどに抱きしめたくなる妙な心持ちにいる彼の頭には、いまだ目覚めぬ家族の姿などひとつも浮かんでいなかった。

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