第46話:羊に逃げられた男達


 アルマ王国軍――本陣、司令官エベルバの幕の中。

 

 一人の兵士が頭を下げたまま、顔を真っ青にしつつ口を開いた。


「げ、猊下! ご報告です! エリオン王国の王子及びコボルトの残党は緑王国の領土内へと逃走! それを追撃していた我が軍の騎馬隊は……

「……どういうことですか」


 それを聞いていたエベルバは涼しい顔のまま、そう問い返した。


「も、と、生き残った兵が証言しております」


 森が襲ってきた。その言葉が意味することをエベルバは一つしか知らない。


「なぜ森の中まで追撃したのですか。国境線を跨ぐな、と厳命していたはずです」

「それが、森の方からやってきたとか……。国境線を越えたのはかの王子達だけで、我が軍は一定の距離は取っておりました」

「まさか……〝エルフの種子達エルヴィン〟が動いたのか」


 信じられないとばかりに、エベルバが眉間にシワを寄せる。

 

 それは本来ありえないことだった。

 ここ数百年、あのバケモノ達が自ら国境線を越えたことなど一度もない。だからこそ、こちらも刺激しないように兵士達には国境線を越えないようにと厳命していた。


 なのに、なぜ。


「〝星降りメテオール〟は何をしていますか。間違って森に砲弾を落としていないでしょうね」


 それならば激怒した樹王が国境線を越えて攻めてきた理由になり得るだろう。そう思っての発言だったが、幕の入口から入ってきた男が兵士の代わりにそれに答えた。


「そんなことしてねえよ」


 無精ヒゲとがっしりとした体つきが目立つ、戦闘服に身を包んだその男の、まるで同僚とばかりの砕けた口調。


「……なぜ貴方がここにいるのですか、ライナスさん」


 エベルバが批判するような目を、その男――〝星降り〟の隊長であるライナスへと向けた。

 

 アルマ王国軍の兵士なら誰もが恐れる視線を受けてなお、ライナスは平然としている。


「逃げてきたんだよ」

「退却の許可は出していませんが」

「じゃあ、あのバケモノ共に撃ち返して良かったのか?」


 その返しに、エベルバが顔を歪めた。そんなことをしていれば、ここも無事では済まないだろう。


「そもそもあんなもんを俺達で止められるか。砲も砲弾も全部捨てて逃げてきたんだよ。観測隊もクソ蛮族のせいで潰されたしな」

「砲も、ですが」

「どうせ俺以外には使えないさ。重さも戻してあるのは俺がこうして立っている時点で分かるだろ?」

「……そうですね。それで正解です」


 本来なら退却するにしても砲や砲弾を破壊しておくべきだが、そもそもこの男の呪いがないとまともに運用すらできない代物なので、最善ではないとはいえ残してきたのも致し方ないことだろう。


「しかし、なんでいきなり襲ってきたのかねえ。いくら国境線ギリギリで戦闘をしていたとはいえ、あの程度で向こうが国境線を越えてくるなんて、これまでになかったことだろうが」


 ライナスがそう問うも、それに対する答えをエベルバもまた持ちあわせていない。


「……かの王子とコボルト達はどうなりましたか。同じように襲われたのでしょうか」

「分からん。まあ十中八九、死んでいるだろうさ。あの森にハーフエルフの案内なしで入って、生きていられるわけがない」


 それはエベルバも同意するところだった。

 だがもし、あの王子やコボルト達が生きているとすれば。


 それは大変厄介なことを意味する。


「まさか、エリオンと緑王国が手を組んだ……?」


 思い付いたその可能性をエベルバが思わず口にする。


「ありえんだろ。仮にハーフエルフ共と手を組んでいたとしても、〝エルフの種子達エルヴィン〟を動かせるはずがない」

「でしょうね。それに緑王国とエリオン王国が接触したという話は聞いてません。ですが……」


 もし。

 もし、何らかの方法でエリオン王国が……古より生き続ける、自分達の主と勝るとも劣らない怪物――樹王と手を組んだとしたのならば。


 この状況も簡単に説明できる。


「まさか緑王国へと逃げ込んだのはわざと? 王子がいるとわざと漏らすことで、こちらに追撃させ、それを交渉の手札にした?」

「あのバケモノとそもそも交渉なんて無理だろうが」

「ええ、もちろんそうです。ですが、万が一そうであったとすれば……」


 それが誰の手によるものかは不明だ。だが、もしあの王子自らがそれを考案し、実行したのなら。


「そういえば、主様が次の目標に掲げていたのは……エリオン王国のヴァーゼアル領でしたね」


 エベルバそしてライナスが主と発言した時、それはアルマ王国国王……ではなく悪魔レグナのことを意味する。


「ああ。珍しく俺にも直接それを指示してきたな」

「そのヴァーゼアル領の領主が誰か知っていますか」

「知らん」

「――エリオン王国のウル王子ですよ。ふふふ……レグナ様がかの王子に執着している意味がようやく理解できました」


 エベルバがなぜか嬉しそうに顔を歪ませた。


「これは決して偶然ではありません。おそらくかの王子はこちらの狙いを分かった上で動いているのでしょう。まさかコボルトのみならず、樹王まで味方につけるとは……」

「買いかぶりすぎだ……などと思わない方が良さそうだな」


 ライナスがそう言葉を吐くと、南の方へと目を向けた。


 もしあの森の中で生きているとすれば。かの王子は間違いなく脅威として再び戻ってくるだろう。


「はん、ヴァーゼアル攻めが俄然楽しみになってきたな。で、どうする気だ? 素直にエリオン王国へと返す気か?」

「もちろん、させません――と言いたいところですが……〝エルフの種子達エルヴィン〟がいる以上、国境線に部隊を展開するのは悪手。向こうの手に嵌まってしまいます。素直に行かせるしかないでしょう」


 そう言って、エベルバが深いため息をついた。


「コボルトを全滅できず、しかも厄介な〝叡竜派ファルセン〟を抱え込まれ、かつ樹王と手を組まれたせいで、我が国の貴重な騎兵隊に多大な損害が出て、さらに特注品である〝乞う者ベッグマン〟を三門全て失った」

「つまり?」


 その答えを分かっていながらも問うてくるライナスに、エベルバは淡々とこう答えたのだった。


「――、今回はね。さて、どれだけのお叱りを受けるやら」

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