第16話:獣、来たりて


 困惑するザガリアへと、リッカが微笑む。


「ハイコボルトね……聞いた話だと、先祖返りしているらしいな」

『猿が何を喚いている』


 通じるはずもないのに、リッカがザガリアへと話しかけていた。


「でも覚えておけ――しているのは……お前らだけじゃない」


 そんな言葉と共にリッカが右手で掲げた。その全身に見たことのない咒印ルフスが浮かび上がる。


 ぞわり。


 悪寒が全身を襲う。まるで、世界が悲鳴を上げているかのように聞こえる軋み音が響く。


 なんだ……何が起こっている。


 気付けば体がガタガタと震えていた。あんなに天気が良かったはずなのに、いつの間にか空は暗くなり、冷たい空気が雪と共に上から降ってきている。


 急変した世界の中に――朗々とした詠唱が響き渡った。


「〝降ろせ降ろせ降ろせ、我は冬を告げる獣なり。被れ被れ被れ、それは雪嵐の証となりや。謳えよ、我が名は――〟」


 リッカの足下が凍り付いていく。霜がまるで純白の毛皮のように彼女の体を覆い尽くす。臀部でんぶから伸びるは白い雪華の尾。


 そうして彼女は掲げた右手で、自身の顔を引っ掻くように振り下ろした。


 あるいはそれは……仮面を被る仕草にも似ていた。


「――〝冬降ろしボレアスカ〟」


 リッカの顔を氷の仮面が覆う。それは狼を模したもので、さらに彼女の頭部に氷と霜で覆われた狼のような耳が生える。


 そこに立っていたのはまさに――と呼ぶに相応しい存在だった。


 前世でも今世でも……これほどに圧倒的で、美しいものは見たことがない。


『……! 貴様は獣人ベスティアンの血脈か! 面白い!』


 ザガリアがそれを見て、不敵に笑い、ハルバードを振り下ろす。

 だがその動きは先ほどまでのものと比べ、どこか精彩に欠け、緩慢に見えた。


 それを見て、ゆらりと前傾姿勢となったリッカが地面を蹴って一気に加速。


 その速度は、騎狼兵よりも遥かに上だ。

 

 地面に氷華が咲いたような跡を残し、ザガリアの懐へと飛び込んだ彼女が右手を一閃。


『ぬぅ……!』


 咄嗟にザガリアが腕で防御する。リッカの右手に生えていた氷爪はその硬い鱗に阻まれ、あっけなく砕けてしまう。


 すぐにまた爪は生えてくるけども、何度ザガリアに当てようと、傷一つすら付けられない。


 もはや僕の目で追えないほどのスピードで、二人の獣による攻防が繰り広げられていた。


「確かに動きは速くなったけども……あれじゃあ、結局変わらないんじゃ……」


 寒さでガチガチと歯が鳴りながらも、僕は無理矢理そう疑問を口にした。


「ん、大丈夫。持久戦になった時点で――団長の勝ち」

「へ?」

「見てて。多分、もうあいつは限界」


 ツァラの確信めいた言葉の後に――まるで氷が割れるような音が響く。


『……これはマズい』


 見れば、あんなに硬かったはずのザガリアの右腕が――リッカの切り裂きによってあっけなく切断されていた。


 その切断面はまるで急速冷凍されたかのように凍り付いていて、血の一滴も出ていない。


 そして地面に落ちた衝撃で、ザガリアの腕がガラスのように砕け散る。


「団長の攻撃はただ爪で切り裂くだけじゃないよ。本当の攻撃は……目に見えない」

「ああ……そういうことか……みたいなものか」


 過冷却とは、本来なら0℃で凍るはずの水が、ゆっくりと冷やされることで0℃以下になっても液体のままである状態を示す。


 しかしそこに衝撃を加えると、水はすぐさま凍結してしまう。


 おそらくだけども、リッカは本来なら時間が掛かるはずの過冷却のような状態を無理矢理発生させる領域を周囲に作っているのだろう。


 さらにあの氷爪に触れるたびに過冷却状態へと至る速度が加速し、一定時間経過すると――ああやって衝撃を加えられるだけで凍り付いてしまう。


 そうなればあとは斬るなり砕くなり、ご自由にだ。


 さらに超低温状態の空間は、生物が十全に動ける環境では決してない。


 つまり――竜に先祖返りしているせいで竜と同じ変温動物となっているハイコボルトは、リッカが発生させている超低温空間とは致命的に相性が悪い。


「……すごい」


 もはや体を動かすとその衝撃だけで凍り付いてしまうことに気付いたザガリアが、ついに動きを止めた。


『ツいてねえな……』


 そうザガリアが吐き捨て――その舌の動きで、口が凍り付く。


「氷と共に眠れ」


 リッカが、トンっと立ち尽くすザガリアの胸を小突いた。

 たったそれだけでザガリアが氷像と化し――バラバラに砕け散る。


 あれだけ強かったはずのザガリアが……あっけなく死んでしまった。


「すごすぎる」


 それ以外の言葉が見付からない。


 僕はただただ、リッカを見つめることしか出来なかった。リッカが顔を覆う仮面を外した途端――空を覆う雲が消え、世界に春が訪れる。


 暖かい陽光が、これほど嬉しいものだとは思わなかった。


「……リッカ!」


 足がようやく動くことを確認して、僕はリッカへと駆け寄る。

 言いたいことがいっぱいあった。


 彼女を覆っていた霜の毛皮は溶けて消えていく。


「どうだ、私は……強いだろ……」


 青ざめた顔に無理矢理笑みを浮かべるリッカを見て――僕は衝動的に彼女を抱き締めてしまう。

 

 その体は恐ろしく冷たい。そりゃあそうだ。過冷却が起こるような空間にいて、何ともないわけないんだ。


「リッカ……ありがとう」

「お、おい……!こら、くっつくな、ウル!」


 照れて暴れるリッカをそれでも僕は離さない。

 彼女がいなければ、最悪僕らは全滅していた。


 国を守るなんて大口叩いておいて、敵の増援も見抜けない愚かな僕を、彼女は救ってくれた。


 感謝しても、し足りない。


「ありがとう。本当に助かった」

「う、うん……」


 リッカの体から力が抜けていくのを感じる。


「リッカは強いな。それに綺麗だった。あんなに綺麗で美しいものを見たのははじめてだ」

「……うん」


 リッカがやけに素直だ。いつもなら、なんか叫ぶか怒るか手か足が出るのに。

 そうして少し経って、僕はようやく周囲の者達の注目を浴びていることに気付く。


 生暖かい視線である。


 〝おーおー、戦闘が終わったばかりだと言うのに、イチャついてるねえ〟という幻聴が聞こえるほどだ。


「えっと……あー」

「あ、ああ。うん」


 僕達はぎこちなくお互いから離れた。

 リッカの頬が少しだけ紅潮している。


 そうして僕はようやくとある事に気付いた。


「……あれ、リッカ。、生えたままなの?」


 リッカの頭にはまだあの霜と氷でできた耳が生えていて、モフモフでフワフワな雪華の尻尾が背後で揺れている。


 だからそう指摘すると――リッカが顔を真っ赤にして怒鳴った。


「っ! み、見るな! バカ!」


 そんな言葉と共に、なぜか僕はグーパンチを食らったのでした。


 なんでだよ。 

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