第34話 キスと契約


「なんだ、こいつ」


 スーツのおじさんが、ジンくんを見て怪訝な顔をする。


 声をかけられても私の手を離そうとしないおじさんを見て、ジンくんは響くような声で告げる。


『今、助けてあげるからね』


「ジンくん?」


 すると、おじさんの足元で花火のようなものが弾けて、おじさんは慌てふためき始めた。


「なんなんだ!」


 突然の爆発に顔色を変えたおじさんは、私の手を離して逃げていったのだった。


「ジンくん、無事だったんだね」

 

 おじさんがいなくなって、ホッとした私は、ジンくんに向き直るけど——。

 

『アキ』


「どうしたの?」


 大人のジンくんは私の名前だけ呼ぶと、そのまま私の唇にキスを落とした。


「ちょっと、何するの!?」


『これが最後だから。ごめんね、恋人でもないのに口を合わせて』


「ジンくん?」


『アキとの契約は破棄したから。これでもうアキは自由だ』


「もう、ジンくん! ——あれ? ジンくんがいない」


 気づくとジンくんはどこにもいなかった。




 ***




 甚外がアキを変質者から助けた直後。

 

 長老の屋敷で意識を取り戻した甚外は、息も絶え絶えだった。


 うずくまる小さな甚外に、長老は苦々しい顔で告げる。


「おい、甚外じんと。いったい何をしたんだ?」


「アキが大変なことになってたから……ちょっと意識だけ飛ばして、アキを助けてきたんだ」


「弱っているくせに何を……」


「もう、本当にダメみたいだ」


「無茶をするからだ」


 甚外がかろうじて生きている状態の中——そんな時、ガラガラと玄関の引き戸が開く音が聞こえた。


 その後、軽やかな足音とともにやってきたのは、アキだった。


「ジンくん……?」


「ようやく来たか、アキ殿」


「ジンくんがピンチだって聞いて……いったい、何があったの? さっき、こっちに来る途中、ジンくんが現れたと思ったのに……」


 混乱するアキだったが——部屋で佇む白髪の甚外を見て、アキは口元を押さえる。


 誰が見ても甚外の様子は、普通ではなかった。


 アキは掘りごたつに近づくと、甚外の痩せた背中にそっと触れる。


 すると、甚外は消え入りそうな声で告げた。


「ごめんね、アキ……そろそろお別れみたいだ」


「え?」


「アキの心を動かすことができなかったから、俺はもう……」


「ジンくん? どうして? ジンくんの身に何が起きたの?」


 それから甚外は、無言のまま時間だけが過ぎた。


 次の言葉が見つからず、アキが困惑する中、長老が代わりに口を開く。


「甚外はもう、喋ることもできないようだな。なら、わしが説明してやろう」


「長老、教えて。何があったの?」


「お前さんは小学生の頃、ひと月ほど秋田に行ったことは覚えているか?」


「うん。薄っすらとなら」


「ならばその時、甚外と契約したことは覚えているか?」


「契約?」


「甚外と口を合わせただろう」


「そうだっけ? たくさん遊んだことは覚えてるけど……あの頃はまだ小さかったし、記憶が曖昧なんだよね」


「お前さんは秋田で甚外と契約したんだ。互いが持つものを交換してな」


「お互いが持つもの?」


「ああ、甚外は座敷わらしの力をお前に与え、お前さんは人間として成長する力を甚外に渡したのだ」


「成長する力? よくわからないけど」


「つまり、お前さんは甚外の力を持ち、甚外は成長する体を手にいれたんだ」


「待ってよ、ジンくんの力って何?」


「言葉の通りじゃ、お前さんは結界を破るのが得意だろう」


「結界を破る……?」


「そうだ。互いの結納品みたいなものだ。座敷わらしと婚姻の契約をして、お互いの力を持ち得た。しかし、婚姻の契約は持ち物の交換だけでは済まない。婚姻というからには、心を通わせる必要もあるんだ」


「心を通わせる?」


「口を合わせて、お互いが夫婦という自覚があれば、契約成立だ。だが、契約が不完全なお前さんたちは、ただ力を交換したことだけになる」


「力を交換? ジンくんは成長する体になっただけってこと?」


「左様。だが心を通わせなければ、契約は不履行になる」


「それって……どうなるの?」


「結納品として与えた力が、偽りの夫婦を喰らい尽くす」


「力が私たちを食べるの?」


「簡単に言えば、暴走するってことだ」


「でも私はなんともないよ?」


「おそらく、甚外がお前さんから力を回収したのだろう。婚約破棄という形で」


 そこまでの話を聞き、アキはついさきほどの甚外の言葉を思い出す。


 ——これでアキは自由だ。 


 確かに甚外は、アキのことを自由だと言った。

  

 その時は意味がわからなかったもの、今になって理解する。


「あれは、私を契約から解放するって意味だったんだね……それで、私はどうすればいいの?」


 アキは長老に訊ねるもの、長老はゆっくりとかぶりを振った。


「もうどうすることもできない」


「どうして? このままじゃ、ジンくん……」


「そうだな。このままであれば、二人分の力に食われて甚外は死ぬかもしれん」


「そんな……」


「破棄したと言っても……座敷わらしの秘術は、そう簡単になかったことにはできないからな」


 その言葉を拾ったのは、たもるだった。


「座敷わらしの秘術か」


「お兄ちゃん? いつからそこに」


 いつの間にか部屋の隅にいる賜を見て、アキは目を瞬かせる。


 賜は厳しい口調で告げる。


「俺はさっきからここにいる。それよりも——ジンくんがこのまま死ぬのを黙って見てろと言うのか?」


「……」


「そんなのあんまりだよ」


 賜に続いて、アキもそう告げると、長老はため息を吐く。


「仕方ない。心ばかりは、どうすることもできないからな」


「私が口を合わせてもダメなの?」


「言っただろう。お互いに夫婦の自覚がなければ無理だと」


「そんなの……ジンくん……」


 その時、うずくまっていた甚外が、ふいに小さな声でアキを呼んだ。


「あ……き……」


「ジンくん!」


「泰弦……くんと、幸せになって」


 甚外が伸ばした小さな手を、慌てて掴むアキだが——その氷のように冷い手に、アキはゾッとする。


「ジンくんっ……」


「甚外よ。お前さんはもう少し、自分の幸せを考えるべきだったな。これでアキ殿が幸せになれると思うのか?」


「……長老も……ごめんね」


「何を謝る」


「俺……長老のおかげで、アキに会えたから」


「わしは衣食住を提供したにすぎん。アキ殿に会えたのはお前の運の良さだ」


「なんだか眠いな……」


「おやすみ、甚外」


「ちょっと待ってよ! なんでジンくんを助けることを考えないの? 長老だって人間じゃないんでしょ? だったら、何か方法があるはずだよね」


「すまない。アキ殿。座敷わらしの力は、座敷わらしにしかどうこうできんのだ」


 その言葉に、賜は考えるそぶりを見せる。


「座敷わらし……か」


 目に見えて弱る甚外を見て、アキは耐えられないといった様子で声を上げる。


「でも、ジンくんとこのままお別れなんて嫌だよ!」


「あ……き……」


「なんでみんな、そんな平然としていられるの? ジンくんがいなくなっちゃうんだよ?」


「わしだって甚外には生きていてもらいたい。だがな、世の中にはどうしようもないこともあるんだ」


「だったら、私がもう一度口を合わせます!」


「おい、やめろ。契約を破棄した以上、どうこうすることなんてできない。アキ殿は甚外の気持ちを無駄にする気か!? そもそもアキ殿が接吻などするから——」


「私が?」


「そうだ。甚外に接吻を教えたのはアキ殿だ。だが座敷わらしとの接吻は婚姻の契約を表すものなんだ」


「じゃあ、もう一度婚姻の契約を結べばいいじゃない」


「何をいうか! もはや座敷わらしですらなくなった甚外と再契約なんて——」


 長老が言いかけたところで、


「結べるかもしれないな、もう一度だけなら」


 賜が言葉を拾った。


 アキは瞠目する。

 

「え?」


「アキにも半分座敷わらしの血が流れてるから。結べるかもしれない」


 その言葉に、長老が目を瞬かせる。


「……あ」


「座敷わらしの血? 私が?」


「ああ。本当は言うつもりはなかったんだが……お前は座敷わらしと人間の間から生まれんだよ」


「ええ!?」


「だからもう一度くらいなら、契約を結ぶことができるかもな。アキ自身の力で」


「できるの? ……ていうか、なんで黙ってたの?」


「お前はきちんと成長しながら人間として暮らしているから、今更妖怪とのハーフなんて言えないだろ」


「じゃあ、お兄ちゃんは……」


「血は繋がっていない。お前と南は、事情があって俺が育てているだけだ」


「育てているだけって……」


「それで、どうするんだ? ジンくんと婚姻の契約を結ぶのか? 結ばないのか?」


「婚姻……結べるのなら、結ぶよ」


 アキが即答すると、長老が眉間をきつく寄せて告げる。


「だがまた同じことを繰り返すだけかもしれんぞ」


「それでも、ジンくんの命を延ばすことができるんでしょう?」


 その言葉に、賜は確認するように告げる。

 

「延命措置として契約するつもりか?」


「うん。他に方法がないなら」


 アキが笑って答えると、長老はふっと息を吐いて笑った。

 

「アキ殿はむちゃくちゃだな」


「ジンくんを元に戻すためなら、なんだってするよ。それとあとで、詳しい話も聞かせてよ、お兄ちゃん」


「わかった」





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