第32話 コンサートと異変

 

 


 ……苦しい……痛い、痛いよう……。


 ……お兄ちゃん……誰かたすけて!



 夢を見た。とても辛い夢だった。


 私は七歳くらいで、どこか高い場所から落ちたらしい。


 起き上がることもできなくて、唯一動く手で懸命に空を掴んでいた。


 けど、そんな時——。


「大丈夫、俺が助けてあげる」


 空に掲げた私の手を、誰かが掴んだ。


「……あなたは誰?」


 名前を訊ねても、逆光で顔が見えない彼の言葉は、それ以上聞き取れなかった。




「アキ! 起きて、アキ!」


 気づくと、私は自宅のベッドにいた。


 どこも痛くない自分の体を見て、なんだかほっとしてしまう。


 ……さっきのは夢だったんだね。


 私を起こしたジンくんも、なぜか安堵した様子だった。 


「ずっとうなされてたけど、大丈夫?」

「うん。もう大丈夫だよ」

「ねぇ、アキ」

「なあに?」

「体、平気?」

「体? なんのこと?」

「どこか痛いとか、苦しいとかない?」

「そんなのないよ。急にどうしたの?」

「……よかった。まだ大丈夫みたいだ」

「? 朝から変なジンくん」


 ジンくんは再び安心したように胸を撫で下ろすと、私にぎゅっと抱きついたのだった。


 それから私服に着替えた私は、ジンくんに連れられて書店に来ていた。


 次々と本を手に取るジンくんの顔は、真剣そのものだった。


「ジンくん……何を探してるの?」

泰弦たいげんくんの本」

「そんなのあるの?」

「泰弦くんのこと、もっと知りたいんだ」

とおるくんのことが知りたいなら、ファンブックがこの辺に……」

「違うよ、韓国の妖狐メグについて知りたいんだ」

妖狐メグの本? そんなのがあるの?」

「日本なら、妖怪図鑑とかたくさんあるんだけどな」

「妖怪図鑑……」

「仕方ない、長老に聞いてみよう」

「ジンくんは、泰くんのことを知ってどうするの?」

「アキがもし俺じゃなくて泰弦くんを選んだ時のことを考えておかないといけないから」

「私が泰くんを選ぶ? どういうこと?」

「アキはこれからも泰弦くんを推すんでしょ?」

「もちろん」

「俺はもう、泰弦くんと戦えるだけの力がないから……」

「ジンくん、泰くんと戦うの? 喧嘩はダメだよ」

「……」






 ***






「それで、うちに何しに来たんだ、甚外じんとよ」


 書店で妖狐メグについての収穫がなかったため、長老の屋敷にやってきた甚外だったが——長老に煙たげに言われ、甚外は仕方なく説明する。


「そろそろ俺の存在が薄くなってきたから……アキを泰弦くんに託そうと思って」

「お前はそれでいいのか? 甚外」


 掘りごたつに足を入れた甚外を、長老はため息混じりに見下ろす。


 すると甚外はテーブルのあられを勝手につまみながら頷いた。


「うん」

「あれだけアキ殿のそばにいたいと言っていたお前さんが、こんなところで諦めるとはな」

「……」

「アキ殿にはいつ言うんだ?  お前との約束のこと」

「言わないよ」

「どうしてだ?」

「アキ、きっと怒ると思うから」

「そうか?」

「それに、アキの泣き顔は見たくない」

「お前さん……すっかり人間らしくなったな。感情のない人形だったお前が」

「アキのおかげだよ」

「……言ったほうがいいと思うがな」

「ううん。言わない。アキが思い出さないなら、それでもいいと思うんだ」

「なんだかわしの方が、胸が痛いぞ」

「長老こそ、人間らしくなったね」

「トッケビも人間みたいなものだ」

「どこが?」







 ***






「おかえり、ジンくん。長老に図鑑は借りられたの?」


 帰宅したジンくんは、いつになく穏やかな顔をしていた。


 その何かを諦めたような顔を見てると、不思議と悲しい気持ちになって——私はそれを振り払うようにかぶりを振った。


 ジンくんは口角を少しだけ上げる。


「ううん。図鑑はなかったけど、色々教えてもらったよ」

「そっか」

「もうすぐ泰弦くんのコンサートだね」

「そうなの! 来週の土曜日だよ。楽しみだなぁ」

「俺も行きたい」

「じゃあ、一緒に行く? ちょうど由宇が来られなくなって、チケットが余ってるんだ」


 私がチケットを見せると、それを賜お兄ちゃんが横から覗き込む。


「SJの関係者チケットだなんて、贅沢だな」

「お兄ちゃんには関係ないでしょ」

「泰くんに迷惑かけるんじゃないぞ」

「SJファンの民度を下げるような行為はしないよ」

「お前は夢中になると前が見えなくなるからな」

「そんなことないもん」


 チケットをさっと隠す私を見て、なぜかジンくんは微笑ましそうな顔をしていた。 


 いつからだろう。ジンくんがこんな風に笑うようになったのは。


 姿は子供なのに、大人びた顔をするんだよね。


 そんなことを思う私だけど、その時の私は、ジンくんの些細な変化にしか気づいていなかった。

 

 




 ***






「わあ、SJのコンサート会場にきちゃった。どうしよう、グッズを買うお金はないけど」


 今日は待ちに待ったSJのコンサートの日。


 いつもよりハイテンションな私は、人で埋め尽くされたスタジアム会場のエントランスでうろうろしていた。


「泰弦くんのグッズがほしいの?」

「どうせならSJのタオルがほしいよ。コンサートで掲げたい」


 私がグッズ列を探していたその時——。


「う……」

「どうしたの? ジンくん」


 ジンくんが胸を押さえて屈み込んだ。


 けど、私がジンくんの顔を覗き込むと、ジンくんは痩せ我慢バレバレの顔で「なんでもない」と言った。


「顔、真っ青じゃない? 大丈夫じゃないでしょ」

「ちょっと人混みに酔っただけだから」

「そっか。お茶でも買う?」

「ううん、いい。少し休めば元に戻るから」

「そう? じゃあ、グッズはやめて席に行こう」

「俺一人で席に行くから、アキはグッズ買ってくればいいよ」

「でも」

「アキが後悔したら、俺も後悔するから」

「……わかった」


 それから私はジンくんを先に席に行かせて、グッズ列に並んだ。


 グッズを買うだけで一時間くらいかかったけど、その甲斐あってタオルは無事にゲットすることができた。


 そして席に戻った時、ジンくんは落ち着いた様子で私を見て微笑んだ。


 ……最近のジンくん、本当によく笑うようになったなぁ。

 

「グッズ買えたの?」

「うん、タオル以外も買っちゃった。そろそろ開演だよね。ドキドキする——あ、始まった!」


 それからステージに現れた泰くん——泰弦くんは、普段の姿からは想像がつかないくらいキラキラしていて、見ている私の胸が熱くなった。


 國柊くんや琉戯さんも歌やラップが上手くて凄いけど、やっぱり私は泰弦くん推しだって確信する。


 すごいよ! 泰弦くん。


 こんな風に誰かをドキドキさせることができるなんて——やっぱり推してて良かったな。


 私がタオルのことも忘れて興奮していると、ジンくんの呟く声が聞こえた。 


「泰弦くん、すごい。キラキラしてる」

「でしょ? さすがSJだよね」

「アキの横顔もキラキラしてる……そっか。アキは泰弦くんが大好きなんだ……うっ……」

「ジンくん?」

「なんでもないよ。アキは前を向きなよ。ほら、泰弦くんが歌ってるよ」

「……うん」


 ジンくんはなんでもない風に笑うと、私にタオルを手渡した。


 それから私はしばらくタオルを振りながら応援していたけど——ふと、ジンくんが隣にいないことに気づく。


「あれ? ジンくん? 気分が悪くなったのかな? 人混みに酔ったって言ってたし」

 

 せっかくのコンサートだけど、一度気になり始めたら確かめずにはいられない性格の私は、席を離れてジンくんを探した。


「ジンくん! どこ?」


 けど、店舗のある通路にはいなくて、仕方なく出口に向かったら、黄色いTシャツの背中を発見する。


「ジンくん!」


 一度出たら再入場は出来ないけど、どうしてもいてもたってもいられず。


 私は出口の向こう側にいるジンくんに駆け寄った。


「え? アキ。コンサート中なのにどうして?」

「やっぱり調子が悪かったんだね。なんで言ってくれないの?」

「泰弦くんのコンサートの邪魔、したくなかったから」


 俯いたジンくんは泣きそうな顔をしているように見えた。


「ジンくん……?」

「さよなら、アキ」

「え!」


 それだけ告げて、ジンくんは走り去ったのだった。






 ***






たもるお兄ちゃん!」


 帰宅して、バタバタとリビングに入ると、夕食の仕込みをしていた賜お兄ちゃんが、きょとんとした顔で私を見る。


「どうしたんだ?」

「どうしよう! ジンくんがいなくなっちゃった」

「ジンくんが?」

「うん。コンサートを抜け出して、どこか行っちゃったの」

「……どこかに行った?」

「うん……最初から調子悪そうだったんだ。きっと苦しくても言えなかったんだよ。コンサートに連れて行かなきゃ良かった……でもジンくん、どこに行ったんだろう」

「もしかしたら、長老のところにいるかもな」

「じゃあ、長老のところに行ってくる!」

「こんな時間に行くんじゃない」

「どうして?」

「もう遅い。明日の朝、一緒に行ってやるから」

「でも」

「ジンくんのことだから、もしかしたらひょっこり帰ってくるかもしれないぞ」

「わかんないよ……だって、ジンくん……私に『さよなら』って言ったんだよ」




 ————翌朝。


 私はさっそくお兄ちゃんと一緒に長老の屋敷に来ていた。


 慣れたように数寄屋門すきやもんをくぐった私は、屋敷の引き戸をガラガラと開く。


「長老!」


 すると、長老が何事かと玄関に現れた。


「どうしたんだ? アキ殿、それに賜まで」

「ジンくんがいなくなったの!」

「……そうか」

「ジンくん、ここに来てるよね?」

「いや、来てない」

「うそ! だって、他に行くところなんて……」 

「ないだろうな」

「じゃあ、ジンくんはどこへ」

「誰もいない場所に行ったんだろう」

「誰もいない場所? どうして?」

「……もう、甚外のことは忘れろ」

「長老、なんてことを言うの!?」

「それとも、記憶を消してやろうか?」

「……ひどい。なんでジンくんを忘れなきゃいけないの? 何を知ってるの? 長老」

「それは教えられない。甚外との約束だからな」

「なんでよ……突然忘れろだなんて、ひどすぎるよ」


 突然現れて、求婚までしてきたくせに、こんな風に消えるなんて——心配するに決まってるのに。どうして長老はそんなひどいことが言えるのだろう。


 いきなりいなくなって、忘れろだなんて……。


 そんな風に動揺していると、賜お兄ちゃんも後ろからやってくる。


「そうだな。ジンくんのことが心配だ」

「賜がそんなことを言うとはな」

「長老、教えてくれ。甚外はなぜいなくなったんだ?」


 長老を睨む勢いで言うお兄ちゃんに、長老はやれやれと息を吐く。


「……まさか死神が妖怪の心配をするとは思わなかった」

「ジンくんは俺たちの大事な家族だからですよ」



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