12-4

 別れの空は、快晴だった。

 アリスは自分の頭より二回りも大きい帽子をかぶっていた。これがおしゃれなのか。そんな感想しかないが、今日のような日差しの強い日には実用的なのかもしれない。とにかく、歩きださなければ、憂鬱は晴れない。

「あのさ、昨日のこと……」

「いいよ。歩けないなら」

「あ、いや違うくて……。手、……手だけ握っててもいいか……」

 あーあつい、あつい。夏だから仕方ないさ。

「……好きにすれば。」

 アリスはすっと右手を差し出し仙崎はそれを、陶器でも触るように両手で慎重に触り、指先を絡めた。

 最終的に恥なんて今さらだと、もっと他に自分には恥じるところがあると言い訳を終わらせる。

 仙崎は、なるべく一度も通ったことのない道を歩くことを心掛けた。デジャブ、デジャブ。

 ここら辺は、似たような規格で建てられた家が多く、一本道を外れた程度ではほとんど景観は変わらない。なので、大きく迂回しながら歩き回る。こんな時に、頭にこびりついた地図が役に立った。ときどき立ち止まっては、息を吐き、そしてまた、歩みを進める。


                 ×××


「私を連れてきたかったの?」

 特に目的地を決めていたわけではない。

「いや、そういうわけじゃないけど……」

 目の前には、一面空と同じ青色が広がっていた。海。いや正しくは湖だとは思うのだが、ここではもっと正確に、海水が入った水槽と言い換えるほうがいいだろう。

 アリスがしゃいだ姿も、喜ぶそぶりも見せなかったのは、想定外だった。

「嘘。お前が海を見たいって言ってたからなんだ……。

 これからはなるべくお前のしたいことをさせたい。

 その、……罪の償いとか、誰かのためとかじゃなくて……。俺の生きる目的も、もうそれくらいのことに頼らないと、どうでもよくなってしまいそうだから。多分俺が死んでしまいたいって言ったらお前は逆らえないんだろ?」

「そう。これが海なのね。これが海の匂い」

「どうしよう。もっと近くまで行こうか?」

 道路を横切り堤防に上ると、一面砂浜が広がっていた。人もそこそこいた。

「前より、青じゃない」

「ああ、たしかに。」

 ──水族館は照明があったからな。海事態は透明な水でしかない。光の反射で、色がついてるだけなんだ。

 そんなリアルは、今は苦しくなるだけだったので言わない。最後くらい、楽しもう。

 仙崎がぼやぼやと考えているうちに、アリスは先に砂浜にジャンプして降りる。

「あ、ちょっ!」

 下を見ると結構な高さがあった。さすがにこれを軽々と飛ぶのはためらわれて、岩壁と向かい合わせになって慎重にずるずると滑り降りた。

 砂浜に足を付けたとたん、足の裏に焼けるような痛みが襲う。

 足元を見ると、いつの間にか裸足になっていた。──彼女のせいだ。恨めしく、砂浜に立つアリスに目を向けると、彼女は意外にもこの痛みを一方的な感覚ではなく、 

 彼女自身も片方の足をのせて一本足でできるだけ砂との接地面を少なくしようとしていた。

「どうして、お前が熱がってんだよ」

 いつもなら、こっちに痛覚を渡してくるところなのに。

「悪い?」

 アリスが首をかしげて言う。

「それなら、お前だけにしてくれ。なんで俺まで熱さを感じなきゃならないんだよ」

「だって、あなた痛いの好きでしょう?」

「そんなことっ!」

 アリスが手のひらを広げ血管の透ける腕を見せびらかしてきたので、それ以上の言葉は続かなかった。

「跡が残らなくてよかったわ」

「はぁー。ごめんて。お前が正しいよ。俺は、お前の痛みがなきゃ、現実から遠ざかって逃げてしまうようなやつだよ」

 アリスは微笑んだ。

「素直は大事ね」

 仙崎は、心臓が跳ね上がるのを隠すように彼女から距離を取ろうとした。幸いにも、話している間に熱さに体が慣れたのか、痛みは感じなくなって、それなりに歩けるようになっていた。

 早速波打ち際に向かう。

「見てあれ、こんな晴れた日に傘さしてるわ」

「バカ。あれは傘じゃねーよ。パラソルって言って、お前のかぶってる帽子みたいなもんだよ」

「そ」

 丁寧に説明したつもりだが、なぜか納得しない表情をしてすたすたと行ってしまった。

 水際につくとアリスは海水に足をつけながら、まるで行進でもするように水しぶきを立てながら歩いた。隣を歩けばいやでもその水しぶきで自分の足までも濡れてしまう。

「お前、本当に知らなかったんだな」

 きっと聞こえてない。

「……俺も知らなかった」

「なんだか楽しそうね」

「……いや。聞こえないふりをしてくれよ。恥ずいわ。

 あ、そうだ。アリスその水飲んでみろよ」

「?」

 彼女は、素直に手ですくい口に運ぶ。

「うぇっ」

 彼女の口が歪む。仕返しだ。

「これが海の水だよ」

「ふん。やっぱり、あなただって来たかったんじゃない」

「……」

 現在進行形で頬の筋肉の力が緩んでいるのを感じ、今まで自分の口角が上がっていたのだと知る。そして今度はその口がへの字に曲がっていく。

「へんね。見に来たくて来たのに、楽しむのが嫌なんて」

 そういうと、おもむろにアリスは仙崎の手を取りそのまま引っ張った。

「ちょっ、なっ──⁉」

 彼女が男一人分の体重を耐えられるわけもなく、そのまま二人して海水に倒れこんだ。

「ぶはッ、ごはっ、ごはッ‼

 何して、……って、大丈夫か⁉」

 仙崎が倒れたのは彼女の上で、アリスはそのまま下敷きになり、波に飲み込まれていた。

「おいっ‼」

 急いで腕を引っ張り、起こす。

「あぶねぇな⁉ お前、下手したら死んでたぞ!」

ぷはぁっと勢いよく顔を上げるアリスの顔がすぐ目の前。 

「シュウのいった通り! 海の中は真っ暗。何も見えないわ!」

 突然のことに驚いてしまった。──その声の大きさではなく彼女が、名前で呼んだことに。

「お前な、それは目をつむ……はぁ。もういいや。ほら、そんなに目をこするんじゃない」

 そんな無邪気な少女の顔をされたら何も言えないじゃないか。

 仙崎も瞬きする度にピリピリと痛む目を意地だけでこするのを我慢すると、

「こんなところ来るんじゃなかった」

 半ば強引なやり方ではあったが、重くなった体で砂浜に引き返した。たった数メートルしか歩いてないのに、くたくただ。

「お前は遊んでいたらいいのに」

 後ろをついてきたアリスにいう。

「もういいわ。からだびしょびしょで気持ち悪いし」

 そういうことじゃないんだけどな。

 二人はどこかで乾かしも着替えもせず、海岸をたどって歩いていた。

「……海は楽しかったか?」

「ええ。それなりには」

 わざわざこんなことを確認するのは、自分がそうではないと彼女に思わせたいからなのか。それとも。

 仙崎は、アリスの頬にかかる髪に触れた。彼女はほとんど無表情。

「海はどこから来たのかしら?」

 アリスはふと立ち止まると、海岸を見つめて言う。この海は、人工的に作られ、外の奴らに毒を混ぜられていようが分からない曰くものだったが、眺めるだけなら、光りかがやいた海面は目を奪われる。

「帆風もそう訊いてきたことがあったな。あいつは、外とつながっているのだとしたら、潜って脱出できるんじゃないかと言っていたけど、まさか、そんなことを真剣に考えないといない日が来るとはね」

 それも、海がどこにもつながっていないと知りながら。──ただ、計画案の一つでしかないが。

「まだ死にたい?」

「え?」動揺に自制がきかず声が出てしまう。

「…………あんま、そういうのは外で口にしないほうが良い……」

「こんな毎日でもまだ死にたいって思ってるのって訊いてるの」

 あまりにも真っ直ぐな質問。

「それなら、今さっき、死にかけたけどな」

「あなたは毎日、そんなことを妄想しているじゃない」

 何も言えなくなった。背の筋が凍り付いたように、振り返れば死神に殺されてしまうような気配。

「あのさ。──もう、そういうのやめたら?」

 ──どうして?

 訊こうとして、背中に衝撃がありそのまま堤防から落ちた。

 暗闇から目を覚ます。目を開くと、そこは先ほどより深く足のつかない海の中だった。慌てて、手足をばたつかせて頭を水上に出すことができた。

「────死ななくてよかったわね」

 耳の奥にかすかに、彼女の息遣いが聞こえてきたが、口元に押し寄せる水のせいで、否定の言葉を叫ぼうとしても、おぼれそうになり喘ぐ声しか出せなかった。

「あなたは、わたしの命。ううん。実質的にはあなたの命ね。私から人質をとって、逃げていくの」

 アリスは、堤防の上からしゃがんで語りかける。

「違う……俺はいつ殺されてもいい! 吸血鬼どもの復讐だろうと、治安機関の執行だろうと、いずれ、訪ねて来るのを待っていたんだ。もう覚悟はできている!」

「ねえ──!」

 彼女は笑った。それも、声を上げる高笑い。

「そんなことどうでもいいじゃない」

 ひときわ大きな波が仙崎を飲み込んだ。そして、海は、彼を右に左にと揺さぶった。

 はじめは、仙崎も心臓を激しく響かせ、血液を駆け巡らせて抗っていたが、時間がたつにつれ力が入らなくなり、水の上に出している頭を支える首が、重りでも吊り下げられたような鈍痛を起こし始めた。そこでようやく、自分が限界に近づきつつあることを悟った。

「死にたくない」と言ってしまえれば。

 しかし、それだけは、頭では、それだけしかなくても口にはできなかった。

 では、このまま沈んでいくか。

 体を大の字に広げた。仙崎からしたら、せめて、堂々と表舞台で太陽の灼熱を浴びながら、青空を眺めておこうという気概だったのだが、風は思わぬ方へ吹き始める。

 一度は完全に海面に飲み込まれた体だったが、どうしたことか波は落ち着きを見せ始めたのだった。


「……俺は、お前の方が好きだな」

 減らず口が。しゃべれるようになったとたんこれだ。

 自分を好きな帆風を振る。彼女の近しい人間を好きなんて言ってみる。こんなことになって真っ先に出て来る考えこんなものとは、心底自分が嫌になる。

 そして次には自己弁護に走る。

「俺は負けたんだよ。……ヒト科の動物として本能的に負けたんだ。だからもう、歩き回るのすら大変で、食事もまともに取れなくなってしまう……」

「それが怖いの?」

 耳まで、海水につかっていたので、アリスの声は聞こえないはずなのだが。おそらく、この波が、鼓膜を揺らして彼女の声を届けているのだろう。

「ついさっきまでは。このまま生きたってどうになるっていうんだ。俺は負けたんだ。この街に。反逆者も恋人も何になるっていうんだ!」

「そう。──なのに私とは手をつなぎたがるんだ。おかしな人ね」

「んぐっ⁉ こんな時にからかうなよ!」

 危うくバランスを崩して溺れかける。あまり動かないようにしよう。

 帆風との過ごした時間は非現実的だった。あの治安機関や吸血鬼どもを相手に闘っていたのだ。

 しかしそのような闘争の中でも、敵を討ち滅ぼし街から出るなんて心構えなど生まれてこなかった。それでも、帆風といるにはそれくらいのホラが必要だった。

 ホラは神の囁きのごとく自己暗示をかけてくれた。

 その結果、無事誇大妄想を築き上げ彼女のもとを去ったのだが、この数か月の自分を見るに彼女のそばにいるほうがましだったのだろう。

 己の本質を知る。

 歩く、歩かないを選べと言われたら平気で歩かないと言ってしまえる。生きるのだって同じだ。簡単に生きないを選べる人間なのだ。

 しかし、それは思わぬ弊害もあった。死ぬと死なないでは、死なないを選んでしまう。あくまで受動的。

 だから、思想が独り歩きしているように見られてしまうのだ。彼女の言ったように自分好きのナルシストであれば、不死身と名乗っただろう。

「もし、『わたしが一緒に死んでしまいたい』って言ったらどうする?」 

「それは困る」

「そうよね。あなたはそういう人。結局私が何と言ったって聞かないの……」

 海が凪ぐ  

 目を開けると、青空と、彼女の顔があった。

 いつの間にか岸まで流れ着いたようだった。アリスの表情は、ここからは逆光で読み取ることは出来ない。

 強く鼓動する心臓は、水に溶けだしていた体は、熱せられ元の体に戻った。

「なあ、アリス。さっきの一緒にって。……お前は、俺のことが好きなのか?」

「……バカじゃないの」

 その声だけ、やたらとはっきりと耳に届いた。

「あぁ、気づいていなかったのね。私は、あなたのおかげでずっと苦しかったのに、鈍感な人ね」

「……」 

せっかくの海がつまらなくなった。これ以上ここで、漂っていても意味ないように思われた。

「とりあえず上がってもいいか?」

「好きにすれば。あなたの勝手なイメージでしょ」

 仙崎は、テトラポッドの上を慎重に登り、それから、堤防に上がれる階段を見つけて、地上に戻ってくる。

「……夏でも水の中は冷たいんだな」

 思わず口に出た場違いな言葉だったが、ちょうど後ろを通った、家族ずれの子どもの笑い声とも叫び声ともとれる、違うな、そう家族団らんの声というやつが、かき消してくれた。

 アリスは、陸に戻った仙崎を一瞥もしないで海を見て座っていた。彼女がここを動かないのであれば自分もここから離れられない(どうにも不便な体だ)。かといって、彼女の先の言葉が棘のように囲いを作り、隣に座ることを許さない。

 仙崎は、彼女の斜め後ろで伸びとも欠伸ともつかない態勢で様子をうかがっていた。

「ホノカはあなたのことばかりだったわ」

 なんて言ったらいいのだろうか。体がむず痒い。

「あなたは自分ばかり」

 咎めるような鋭い口調。

「……もうそれは聞いたよ」

「わたしは……。」

 いくら待ってもアリスがその先を言わなかった。耐えかねて──何に? もちろん自分が原因だと知っているから、口を出す。

「お前は、アイツだろ」

「アイツ?」

「……帆風だよ」

 口の中に血の味がする。きっとどこか切れたのだろう。

「どうだろう。……いまは海の方が好きも知れないわ」

 アリスが真面目な顔してそんなことを言うから、仙崎は思わず吹き出してしまう。

 しかし、それを茶化すような言葉は出てこなかった。

 仙崎はこの時怯えていたのだ。──彼女が、いつまた、生き死にの話をしだすか分からなかったからだ。

 しょうがないから海面に映る、稚魚の群れを目で追っていた。

もう、いつもの時間ではない。審判が下るのを待つような苦しい時間だった。


 しばらくの間、そうしていたが、突然、彼女は立ち上がると走り出した。うーん。 まぁ、走るというよりかは、躓いて、よろよろと歩き出したようなかわいいものだった。

 仙崎は、離れられない以上その後ろを追うが、そんな走り方だったので、アリスはすぐよろけて、転んでしまう。

「おい、おい。大丈夫か?」

「わ、わ、わたしは、……死にたくない……。生きていたい。生きたいの! 死ぬのは怖いよう……っ」

 起き上がるより先に、そんなことを叫びだした。他人に訴えるような力強さはなく、泣いていた。顔いっぱいに涙を流す。彼女の涙を見たのは初めてだった。

「お願い、殺さないで……、死にたくない……死にたくないの」

 はっきりした。彼女が誰から逃げようとしているのか。そして、なぜ彼女が逃げるという手段しか取れないのか。

 気づくと膝をついていた。──這いつくばる人に、両膝をつく人、この世の終焉でも迎えたかのような惨憺たる光景。


 その後、どんな会話をしてどのようにしたか記憶にない。

 一度だけ、神木の家に戻り吸血鬼の力を使って、気配を消して、生きていけるようなものを持ち出した(盗むつもりであったが、使っていた部屋には、生前使っていた通帳が置かれていた)

 数日のホテル暮らしの後、新たにアパートを借りて暮らし始めた。

 こうして生きている以上は彼女の命を懸けた仕返しは、成功したと言えるのだろう。もともと仙崎に、その気があったかと言われれば──今答えるなら、苦笑いしながら、「その機会が訪れていたら。まあ。」と答えるだろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る