12-2

 そう言った翌日、彼女に、昨日の言葉が衝動的なものではないと見せつけるように午前中から外出する。

 いったいこの行動が、彼女に何と思われたいがためなのか仙崎自身もわかっていなかった。彼女からしたら、「退屈だった生活が少しでも変わるからいいわ」と納得してくれるだろうかと、ぐちぐち言い訳しながら出かけた。

 さっぱりと晴れた空の下、額には汗がうかぶ。動いていなかったうちに季節は移り変わり、街の模様はすっかり変わってしまった。

 それは別に悲観することではなく、むしろ仙崎には都合がよかった。帆風と過ごした思い出の場所を通ってもこれでは気づかない。

動けなくなった原因の一つでもある、彼女の匂いを感じて街中で発狂しなくてすんだ。(これは自身能力が鈍化してしまったのかもしれないけど)

 仙崎はチャリチャリと金属のこすれる音をさせながら歩き始めた。電車はお金がかかるという理由だけで徒歩を選んだ。

 これから、どこに行こうか。

「どこか行きたいところがあるの?」

「いや、何も思いつかないな」

「私だって、この街を全然知らないわ……」

「そうか……。だったら、」

 仙崎が目的地の候補をあげる前に彼女は、紙切れを見せてきた。そこには、やけに大きな字で、いや、それは見慣れた文字の形ではなかった。

「わかんない?」

そう訊く彼女は、腹に力を籠めるようなこわばった表情を見せていた。

 自分も、そこでうまくごまかせばいいものを、小学生にも満たない子供が描いたような文字が書かれた紙をくしゃくしゃにして目に入らないようにした。

「あ、いや。どうだろう。あいつに電話して調べてもらったら行けると思う……」

「そう……」

 彼に、このような行動を伝えるのは嫌だった。それでも、やめよとこうと言わなかったのは、仙崎が悩んでいる間、アリスは指と指とを重ね合わせたり、こちらをちらちらと伺っているような姿が見えていたからだ。

「俺のあやふやな記憶でよかったら、このままで向かってもいいけど」 

 追跡される可能性のある携帯は持ち歩いていないので、そのような不効率な真似をする必要があった。

「大丈夫なの?」

「さあ……。まあ、時間だけは有り余っているし。それに、いざとなったら、なまってしまっている体を動かすよ」

 彼女は、わかったと頷いて見せた。


 結局、朝に家を出たはずなのに、着いた頃には夕方になっていた。立てかけられた看板を見ると閉館時間まで、一時間ほどしかない。

 仙崎は、「閉館時間まであと一時間ですよ」と優しい注釈を同じ年頃のお姉さんに言われながら一人分のチケットを買うと、先にうろうろしていたアリスの後を追う。

「どうして、ここは、こんなに暗いの?」

「海の中は光が届かないから、それを再現してるんじゃないか?」

「ふうん」

 この街には人工の海しかないので実際のものを見たことはないけれど、資料で写真やらを見たことはあった。

 同じ体で二つの意識。

 彼女はよほど浮かれているのか、水槽の前でしゃがみこんでみたり、泳ぐ魚に合わせて顔を横にしたりしながら楽しんでいた。

 それを待つ間、仙崎は彼女のそばを離れなかった。いや、彼女が魚を見て飛び出して行ったりすると、怖くなってすぐ彼女の側に向かう有様だった。

 アリスはそれについて、笑いも悲しみもしなかった。関心は目をぱちくりさせる魚にあるようだった。

 順路の半ばほど、大群になった小魚の水槽の前につくと、館内アナウンスが鳴り、閉館を伝える。

「あんま見れなかったな」

 水族館を出ると、すっかり日が暮れ、街頭の光が帰りの順路を照らしていた。

「まだ見たかったの? 楽しんでたんだ。うけるね」

 どうやら、彼女のそばに寄って行ったのを俺が、水族館を堪能していたと勘違いしていたらしい。

「どうだろう。お前ほどじゃないけど、悪くはなかったな。もし、デートだとしたら、お前の愛想がなさすぎでマイナスだけど。まあ、なんだ……見足りないならまた来ればいいさ」

「そうね」

 その声がいつもより弾んでいたのは、気のせいではないだろう。


 生暖かい風が、肌に当たる夜。仙崎とアリスは、元来た道を歩いていた。

 あの日以来、一日外出しては、二日休みを繰り返すような毎日を送っていた。そして今日もまた、すっかりアリスのお気に入りとなった水族館に足を運ぶ帰りだった。

 アリスと街を散策するのは、思いのほか心を晴れやかにした。これには、自分でもあきれるが、ただ外にいるだけで満足できたのだ。

 それに、アリスが持ち出す話題も彼女の箱入り娘な過去から、ごくごく常識的なことで、それに答えることで僅かながら自尊心を保てていた。

 それでいい。

 衰弱を待つ身にしては、最近の生活は健康的すぎやしないかと言われるかもしれないが、批判大いに結構。シトシトと死を待つのは、自分には耐えられない。

 いっそ死の宣告でもされていたら、残りの日数を指で折るようなこともできただろうに、一日、また一日と生きる日数を伸ばす生活は、苦行のようだ。

「アリス」

「なに」

「いや、なんでもない」

 彼女が三度(みたび)現れたことは、まさに幸運の出来事だった。そこで、ある壮大な妄想が浮かんできた。

 彼女と出会った日は、予知夢を見たのではないか。あの日突如現れ、連れ出した彼女はまさしく……そうだ、思い出した! 彼女は自分のことを天使と自称していたが、今となってようやくその言葉を認める羽目になったじゃないか。もはや自分に敵と言える存在はいなくなった。 

 これまでだって、自分は何と戦っていたのか。突然、彼らと戦える力を与えられ、出来心で突飛な行動に出ただけだったように思えてきた。

 それでは、この逃走さえも、まだその一部の中にいる。

「困ったなぁ。俺はいつ死ぬんだろう」

 つい、口に出た。

 だけど自分は、これでも気分はいいのだ。この活動中、天使とともに歩く時間は、なんと生きやすかったことか。

 だから、仙崎は両手をポケットに突っ込んだまま、立ち止まろうともしていなかった。

 まもなくして、腰のあたりに重みを感じる。アリスが、歩くの早いと伝えるように服の裾をつかんでいた。

「あのさ。これから、どこかに行かないか?」

「あんまり派手な行動すると、目を付けられるんじゃないの?」

「ああいや、そんな、何かを起こそうって言ってるわけじゃなくて、ただどこかで時間をつぶしてから帰らないかっていう提案なんだけど」

「そう。それなら別にいいけど」

 彼女の慎ましやかな同意に仙崎は安堵した。本当に、どうしてこんな真似をし始めたのか。まさか死期を悟った体が、本能的に種を残そうとしてこのような熱を持たせようとしているわけではないだろうな。

 しかし、再び熱を燃やすものが訪れたとしても、それは、灯らぬ火なのだ。燭台には、灰だけで、もう何も残っていない。

 何もなくなったらどうなる。何もない杯を眺める日々に代わっただけだった。そうまでして生きたいか。ならせめて懺悔でもして過ごそう。ああ、苦しい。

 最近の春の訪れを知らせるような風は僥倖なのかもしれない。その灰をきっとどこかにやってしまう。そしたら、終わり。やっと終わる。

「……やっぱり時間つぶしはやめだ。今日はあの家には帰らない」

 仙崎は、低い声でそう言うと、アリスの寄せてきた方とは反対の方を掴み自分の方へ押し付けた。

 彼女は抗いもせず、ただ、驚いたように身体を固くしていた。

「金なら要らない……。ここまでしてきた俺の奉仕を思えば、お釣りをもらってもいいくらいなんだ。好き勝手にしたっていいだろ」

 そう。まるでこの瞬間のために自分は国に身を注いできたのではないか。

「だったら、せめて景色くらいいいところにしなさいよ……。

あと、私風呂に入らないの嫌だから」

 熱帯夜に帯びる生暖かい風に、もう一つも考えられなくなった頭で、彼女もとい女性の喜びそうなところを検索してみるが、裏路地、逃走用の地下道、放水路、強固な建物その高さ、平野の起伏にさえ知識はあったが、そこからの景色なんて一つも、知らなかった。

 仙崎は、これは時間がかかると道路の端にある縁石ブロックの上に腰を下ろした。

「自分で言っておきながらあれだけど……何も思いつかないから、ちょっと座って考えてもいいか」

 彼女も今日の疲れからだろうか、隣に座った。

「いいよ、別に……。期待してないから」そういうと、彼女は自分の膝に頭をうずめ、そのまま黙ってしまった。

 こういう時にどこに行けばいいかすぐ計画できるよう帆風と経験しとけばよかったと思った。

 しかし、その姿を想像しようとしても以前のようにはいかなかった。ぼんやりと靄がかかるような、それ以上を考えさせないリミットでもかかっているようだった。

 一度座ってしまうと、朝から動き続け疲れ切った体を、夜のやみがつつみこんだ。  

 もう、立ち上がることが出来なくなった。

「あそこのでいいか?」

 仙崎の指さした先には、使われていないバス停。

 アリスの返答を聞く間もなく意識が遠のいていく感覚に溶け込むように、仙崎は足を引きずりながら向かうと、古びたベンチの上に寝っ転がった。足の裏は針を刺されたように痛み、肩から手先までしびれ、力が入らなかった。

 アリスのあきれたため息が後ろから聞こえてくる。

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