12章 逃亡犯
「……帆風。どこか行ってしまいたいよ俺は……」
そろそろ枕代わりにしていた腕の感覚がなくなってきた。そこで、上半身だけ起こし、胡坐で座る。そこからの時間は、まるで夜空でも眺めるように天井の木目にできたシミと目を合わせ過ごす。
帆風のもとを去ってからは、明けない長い夜のようだった。
彼女の元を離れれば、少なくとも裁断者は現れるかと思っていたが当てが外れた。どうやら、追っていたものは皆彼女に惹きつけられたようだ。なんだ、ずいぶん平和ではないか。この家に来てからというもの一度の襲撃もない。この街でも平穏な日々を過ごせるのだ。
時間が経つうちにこれまで起こったことが、死後の世界の幻想なのではないかとも思うようになった。がそれを確かめるために行動する勇気などもうとっくに失われていた。
だから、このように薄い布団の上で寝っ転がっているのだ。目を覚ましても、何をしようかなんて考えはわかず、再び眠りにつく。寝れなくても、目をつむり、動かないのだ。人の波、世の中の動きなんかにのまれないように、じっと身をひそめる。
自分のような存在に前例があれば、どうにかなったのかもしれないが、仙崎は、ついに独りになってしまったのだと自分を縛り付けてしまった。
さらに言えば、孤独の時間に思い出す帆風との思い出はどれもつらく、彼女のことを自身の苦痛の一つと錯覚し、彼の人生で唯一と言ってもいい、幸福な記憶にすがることもできなくなっていた。
「宗。今日もまだ何も食べてないんでしょ?」
密室だった部屋が解放される。気を使ってか電気は点けないでいてくれた。
「ああ、今日は外で食べて来るよ」
仙崎は、呟くように言う。自分はお金も、住居も、忘れかけていた今更親友なんて呼べない男に施しを受けることで生活しているのだ。思想や、恋心を考えて気を紛らわしておかないと、身体の痒みは収まりそうになかった。こんな生活を続けていれば、いつか衰弱し、そのまま終わりを迎えるのだろうと考えるだけで、一日を終える日もあった。これでは、一度目の人生で死んだ自分にも納得できる。
少しでも気を抜けば、自分の手で首をつねっては、真似事などをしていた。恥ずかしい。それなのに、きっと世間では自分のことを恩知らずの恥知らずと罵られるのだろう。これだから少しでも、波風を立てないよう動かないようにしたのだ。
じっと扉を見つめ、外の物音が過ぎ去ると、いそいそと起き上がり、床に置かれた紙幣を拾い上げ、短パンのポケットに突っ込んだ。
それから扉を開けると──すぐ目の前に彼女は現れた。
もうずっと会っていないこの体の所有者が、仙崎の前に立ちはだかったのだ。
仙崎は、ひどく驚いて、すぐに部屋に引き返そうとするが、もう一度扉を開くためには、彼女を押しのける必要があった(それだけ彼女は接近していた)そのため、逃避は諦めるしかなかった。
とはいえ、このまま対面していては体が持ちそうもない。呼吸も、心臓ですら、不安で止まっていった。頭で、早くどっかへ行ってくれと願っていると、こちらのそんな状態を彼女は知ってか知らずか先に口に開いたのは、アリスだった。
「風呂ぐらいはいりなよ」
「はっ、今さら出てきて、俺を呪い殺しにでもするか?」
第一声が嘲りだったことに自分でも驚く。そんな強気な態度を自分がまだとれるのかという驚きだ。しかし、「殺す」という言葉は、どうやら今の自分には耐えられなかったみたいで、爪の下から出血するような鋭い痛みが襲う。
暗闇の中で、痛みを気にしてカチカチと指の爪どうしを当てる音だけが響く。
次の言葉はなく、彼女は暗闇の中でじっとしていた。身動き一つしなかった。
仙崎は、はじめこそは、何を言って彼女を怒らそうか、それとも自身の哀れさを語ろうかなんてものをこねくり回して思案していたが、そのあまりにも長い沈黙の中で、この邂逅が大したものではないように思われてきた。
蛇にでも締め上げられていたような苦痛も、動悸も収まってきた。
そして、今度はどう彼女とコミュニケーションをとるかなんて思うようになってきた。では、なんて声を掛ければいいのだろう。「ひさしぶり」というには、あまりにも時間が長過ぎで、「ごめん」というには、やってきた罪が重すぎた。自分は、アリスにさえ、罪の意識のせいで、ただ黙るという方法しか取れなくなっていたのだ。
仙崎は、おもむろに布団の中でしていたような自分の首を手でつかむと丁寧に両腕で圧力を加え始めた。
死の音を伝えるように、脈拍が早くなっていく。その間ふたりは目を離さなかった。
朝までは続かない、数分で終わってしまう。そのたった数分で、これが、今の自分だと彼女に表現する。
喉に流れ込む感触が手に伝わってくる。言うまでもなく、アリスの大きな目からは涙がこぼれていた。
それで、仙崎は両手を首から離すと、彼女の横を通り浴室に向かった。
道中も伸びた爪が、床をひっかき、かりかりと虫の足音を立てていることに、仙崎は神経質になった。どうしてこのような音を発しているのか、親友にばれるのが嫌だった。
浴室では、電気をつけない代わりにわざと扉を全開にし、自分の存在をここの家主にもわかるようにしていた。
風呂はそう時間がかからずに済んだ。もう、仙崎は女の体を洗うのに慣れ切ってしまっていた。そして、爪を切った。女の子だから伸ばしたままでもよかったのかもしれないが、自分の皮膚や血が染みついたままでは駄目だ。新しく生え変わる必要があるように思えた。着替えもした。とはいっても制服くらいしか女の子らしいものはなかった。
「で。これでいいか」
ずっと後ろをついてきていた、アリスに振り向きもせず言う。
「ん?」
「お前が、ふろに入れって言ったんだろ」
「……シュウがしたいことをすればいいんじゃない。ずっと、そうだった……」
彼女はそっけなく言った。
ふたりは、もう一度繋がったのだ。
「はは……。嫌味か……。もう、俺には、なにもない。これから数時間先のことすら何も思いつかない空っぽになったんだ」
「明日はどこに行くの?」
「っ……。だからッ」
──やっぱりやめだ。堕落してみないと想像すらもできないのだろう。まるで聞いてないかのように言ってきやがる。
「寝る寝る。明日も明後日だって横たわって目を閉じ過ごすのだ。それで衰弱していくのを待つんだ」
「宗……?」
闇の奥から声がかかった。
せめて部屋の中で話していればよかったと、即座に後悔の念が沸き上がるが、時すでに遅し。ここは、彼の城。どうして、自分はこうも、無警戒にしゃべっていたのだ。
彼も意図せぬ遭遇だったのだろう、思わず声が出た後は、何も言ってはこなかった。
仙崎も、逃げ出そうとしたが、ポケットに入る紙や、体に被ったものまで彼のモノだということが、全身にコンクリートでも塗りたくられたかのように体を動かなくしていた。
神木という男の脅威は、しゃべるだけのアリスとは違った。こちらを見上げながらゆっくりと前進してくる。床のきしむ音が怖い。仙崎は目をつぶり手を後ろで組んで立ちつくす。
「い、いいね。……その制服似合ってる」目の前まで来ると彼はそう言った。
「あ……ああ、そうか」
嵐の前の静けさ、肌をなでるような小さな電流を感じる。
「あのさ、えっと、……このまま、どこかへ消えるなんてことはないよね……?」
仙崎は、感じていた恐怖「それは脅しか!」という言葉が出かかったが、唇を噛み押しとどめた。
「制服、褒めてくれてありがとう」
──今しゃべったのは俺か?
「あ、う、うん。本当にかわいい」
男の表情が緩んだ。その隙をついて動く。転げるように逃げる自分を思い浮かべながら家をとび出した。
はっ、はっ。急げ急げ。呼吸を求めて、痙攣し始めていた足を動かした。
家から離れて、通行量の多い通りに出てやっと歩調を緩める。
「お前がやってくれた、でいいのか?」
隣をちらと見て探るように、そんなことを言ってみる。
「いいえ、あの人私のことかわいいって言ってたから本心を言っただけよ」
鏡の前で見なれたはずの姿なのに、血の通う少女になると、こうも心を乱れさすのだろう。彼女がこちらを見ないことをいいことに横顔を眺めていた。
その顔を通う人が誰も振り返らず通り過ぎていくことが、彼女を浮きたたせ、白昼夢の中に立たされているように思われた。青い空、囲むように立ち並ぶ灰色のコンクリートビル、たったそれだけの色で構成された街の淡白さや、その間を、自動化された車と人が流れすぎていく光景が余計にそれを助長させた。
夢見心地でいた仙崎だったが、数十秒後には肩に衝撃を受け(どうやら、この路は静止を許してはくれないらしく)現実に引き戻される。
よろよろと酔っぱらいのように、路の端にはねのけられた。仙崎は自分の貧弱ぶりに笑ってしまう。なにしろ、まともに外に出たのは、何か月ぶりだろうかという具合なのだ。まるで登山者のように膝に手をつき深く息をする。
そういえば、自分は人前に出れるような格好していただろうか。風呂には入っていたっけな、それから着替えも終わらせていたはずだ。
「俺は、仮にも逃亡の身だったのだ」
突如として恐怖が込み上げてきた。
通りすがりざまに発砲されるかもしれない、それともぶつかると同時に刺されるかもしれない。自分はそれに対する防御策を持ち合わせていない。自害。自害。死を味方にして、せめて精神だけでも健全でいなければ。
仙崎は身を守ろうとして、とっさに握っていたのはアリスの手だった。
彼女は、無言にその手をとると、握り変えさせ、自分の手と絡まるようにつかんだ。二人で、一緒に心中か。それなら、このまま、流れに身を落としましょう。
「これで少しは、安心して街を歩ける?」
「……まあ、」言葉のそっけなさとは裏腹にその手は彼女の手を強く握りしめていた。──一人だけ、助かるなんてことにはなりませんように。
それからは人の波に乗っかり、どこか異邦の地にいざなわれていくのに身を任せることにした。先ほどのような発作は起きなかった。
「これで私がホノカのところに向かっていたらどうする?」
「え。まじ? だったら逃げるけど」
隣を見ると、彼女は明日の方を向いて、そんな気ないからかいだとわかり胸をなでおろす。そして次には、慌ててそれを確認した自分が恥ずかしくなった。
「お姉ちゃんのこと嫌いになったの? そりゃ、いっぱいあなたに無理をしたかもしれないけど、全部あなたと一緒に過ごすためだったのでしょう。お姉ちゃんの好きは、嫌なこと?」
「好き嫌いだけの話じゃないんだよ。……俺が弱虫だから、帆風のことがこわくて、そんな自分が嫌になって、……もっと、俺にはすべきことがあったのに、全部すっ飛ばして再会してしまった」
「ふうん、……どうでもいいや」
「はぁ。それなら、はなから訊かないでくれよ……」
「だって、私は好きだし」
以降アリスは、帆風のほの字も言わなかった。それが気を使ってか、単純に俺に名前を出されたくないだけかは分からないが。でも、もう今更だとも思う。帆風と二人で過ごしていた時のことも、彼女は、そこにいてすべてを知っているのだ。
仙崎は途中歩き疲れてしまい、公園のベンチに座りこんだ。どのくらいぶりにこんなにも歩いただろうか。途中で買ったペットボトルの残りを流し込むと、
「もう帰るか」自然と出た言葉だった。
「そうね──」アリスも一言優しく同意した。
しかし、そう言ってからしばらく仙崎は、腰を抜かしたように立ち上がることができなくなった。
「帰らないの?」アリスは、不審そうに、ちらとこちらを一瞥する。
──何をしている、自分だって真っ先に思い付いたのは、神木の家だったではないか。
それでも、自分が誰から見てもあそこに帰ることしかできないと思われているのは、骨にしみるほど悲しかった。
「俺の味方は誰もいないじゃないか」
誰のせいだ。
「ああ、復讐劇はこれで終わってしまうのか?」
「ばかみたい。誰に復讐をするつもりだったのかしら。一人勝手に、駆け出して、そして今度は、逃げ出しただけじゃない」
「そうか? あの化け物を見てなお、姉と慕えるお前にはわからないんだろうな。まあ、もう関係ないか……。
それも今日で終わり。俺は、ちょうど今何もかもから逃げて逃げて、明日の夜明けを迎える心構えができた」
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