第10章 夜明け

 十章 

 

 久しぶりの街は、すっかり夜の空気に変わっていた。頬に当たる風が、体温をぐんぐん奪っていく。

 先ほどまで体を包んでいた、道化への恥ずかしさや、僅かな間ではあったが、確かにそこにあった情愛は、体から絹のようにすり落ち、風に乗って消えていった。

 仙崎は、ここが現実であるかを確かめるように、こつこつと、足を鳴らしながら歩いた。

 病衣のような服装は、この時期に合った赤い一張羅のワンピースに変わっていた。途中店から盗んだに過ぎないので、きっと明日になれば、器物破損での、捜査が行われることだろう。

 あの人が、それを担当しその中から、自分の痕跡を発見し、あの時間が現実であったと思えば、──なんて、脳裏に片思いの中学生女子のような妄想が浮かび上がる。

 このような妄想をするほどに、仙崎は心の喪失感を感じていた。しかし、同時に、その穴は、自分の血の中に存在する、別の人格によって補修しようとしているように思えた。

 仙崎は思い当たる人物の一人に話しかける。

「なぁ、今までどこにいたんだ?」

 いつの間にか隣を歩く少女。

 どのくらい振りか正確にはわからないが、感覚的にはずいぶん久しぶりに思えた。

「うーん?」

 ずいぶん長いこと唸って、

「あ。妄想の世界で、楽しんでたの!」

「うっ、……あ、あっそ、」

 仙崎は、突然黒歴史をえぐられ、情けない反応をしてしまう。

「それで、あなたは、どこに向かってるの?」

 今度は仙崎が唸る番だった。

 いや、何となく、辿り着く先は見当がついているのだが、彼女に、なんて説明すればいいか考えていた。

 仙崎は一歩彼女の前に出ると、街の空気を肺に取り込んでから口を開いた。

「俺はやっと決心がついた」

「うん」

 なにか盛大な発表でもするかのように言ったつもりだったのだが、アリスの反応は寂しく頷いただけだった。

 肩透かしに思いながらも、仙崎は、思いついた理由を言う。

「俺は、今から帆風を迎えにいくよ」

「そうね。それがいいわ」

「? やけにあっさりなんだな。もっと喜ぶのかと思ってたんだけど……」

「さっきまで、お姉ちゃんと会ってたからかな? なんか、興奮が収まらないのよね」

 仙崎は、その言葉に思わず彼女の下腹部に視線が向かってしまう。

「…………。えっち」

 仙崎は、自分の性をはっきりと自覚する。

 つい先ほどまで、自分がそれを利用して騙していたこともあり、嫌悪にも似た悲しさを感じる。

「うっせぇ。俺の帆風で変な妄想してんじゃねえ」

 隣を歩くアリスの肩を軽く小突く。

「ふぅん? 『俺の』、ね。」

 つい変なことを口走ってしまった。

「なんだよ……」

「いーや、随分生意気なことを言うようになったのね。それにしても、あなたの? ふっ。それはないわね」

「……なんでだよ」

「だって、時間がかかり過ぎよ……。お姉ちゃんも呆れて、愛想をつかしているでしょ」

「そんなこと言うなよ。……まぁ、でも。

本当に、長い長い遠回りだったよ」

 その言葉を最後に心地のいい沈黙が支配する。

 仙崎は少しだけ歩みを速めた。

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