9-2
翌日という言い方が正しいかは、二人は日の光すら阻まれる密室で確認しようがないだろうが、仙崎が一度寝て起きた日。仙崎はこの眠っている間に、そのまま死を迎えるかもしれないなと思いながら、眠りについたが、なんのことなく朝を迎えた。
男は、(そういえば名前すら知らない。まあ、昨日の調子だと、教えてくれそうもないが)床に座り、頭だけを垂れるように睡眠をとっていた。
アリスは自分が目を覚ましてから一度も姿を見せていない。これが傷が治ってしまっていることと関係があるのか誰かに尋ねることもできない。
男は、自分が吸血鬼と出会ったことで警戒しているのだろうが、これまでの彼の態度からまだ、核心的なことまでは知らないように思えた。(初恋が人間でないなんて、とてもじゃないが言えたもんではない)
今も、あの日のことについて、記憶喪失でごまかせてはいるが、何か決定定期な証拠が出てくれば、きっともっとひどい尋問にかけられるのだろう。
もちろん自分に、治安機関を裏切る意思があったのかと言われれば、即座に「違う」と言い切ることは出来る。
しかし、それを証明することは難しい。
この場で、治安機関と関係を持つ──自分と大して歳の差のないこの男が、後に報告する一つ一つが、自分のあれこれを決めるのだ。
仙崎は途端に、猛烈に自分自身の体をめちゃくちゃに裂いてしまいたい衝動に駆られる。
しなかったのはちょうど、監視する男が目を覚ましてきたからだ。軽く歩き回り、室内に備え付けのトイレを終えると、再び先ほどまで寝ていた場所に座りポケットからクッキーを取り出した。
袋の中で砂粒大にまですりつぶして、口に流し込む。できるだけ水分を奪われないような食べ方だ。
「俺はいつ死ぬんですか?」
「どうした? やはり君でも死ぬのが怖いのか?」
「俺をどんな人間に仕立てたいかしらないですけど……それは、もう怖くないです。 俺が怖いのは、このまま、約束も果たせず、罪を抱えたまま終わるのが怖いんです」
声を震わせて、『ベッドにうつぶせて泣きたいぐらいなんです』なんて言ってしまえば
この男も満足したのだろうが、仙崎はそうはしなかった。
それが、彼の興味を引いたのか、それとも朝食の足しにでもしようとしているのか、会話は続いた。
「君の周りで死んだ人はいるか?」
仙崎は少し考える。
「両親はどちらも。あと、もう一人。死んだかどうかは分からないですが、行方知れずな人がいます」
「この街にいてか?」
そう言ってから彼はさらにもう一枚砕き始めた。
「すいません……」
「いいさ。君の事情は僕では扱いきれない。僕は、あきらめているんだ。悪い意味でね」
そして、一気に砕いたクッキーを流し込む。
「もう質問が尽きてしまった。今日一日は暇ということだ」
「一日だけですか?」
「一日は暇であることは確かだが、二日かもしれないし、君に三日目が来ないことだってある」
指についた粉を舐めながらだったので、本気にはしない。
「──もし、殺したらこの部屋から出れると言ったら君は、するのか?」
「それは、あなたをってことですか?」
「ふざけないでくれ。この部屋に他に誰がいる?」男の声は静かで、怒りより呆れに近い。
「それはあなたでは。今日の質問はなくなったと言ったじゃないですか」
「鈍い奴だな。僕が、個人的に君のことを知るためにした質問ということだ」
「それにしては過激なことだ。それに俺に不利になるような答えしか用意されてないと来た。どうしてこれを罠だと疑わない」
「僕が衝動的に思いついたものが、これまでに決定が下された君の評価を変えてしまうほどのようなものが出て来るものか。それこそ、無駄なあがきというものだ」
彼から悲しみや嘆きなどではない、蝋燭に灯る火のような、熱を持つように感じられた。それは、彼との個人的な関係を築きたいという思いの証明でもある。
「君の答えを教えてくれ」
仙崎は、天井見上げる。それは、なるべく男と目が合わないようにするためだ。これから言うことは、少なくとも向き合ったままで言うものではない。
「……たぶん。殺します」
「ハハ、わかりやすい答えだな……。まぁ……僕も同じだろうな。君を殺して出れるもんなら、そうするだろう」
「…………」
二人の間に、決闘前夜のような空気が張り詰める。
────くぅ。
その刹那にかわいい音が鳴る。生理的なものなので、どうしようもない。どうしようもない……が、──恥ずい……。
「……あの、お腹がすいたんですが……」
しかし、そんなささやかな恥はこの場ではちょうどよかった。
男は、微笑を浮かべると同じように安心した顔をする。
「わるいわるい、ベッドの下にいろいろ入っているはずだから適当に食べるがいい」
言われた場所には、銀色の箱があり中には保存食が入っていた。仙崎はその中から、缶に入れられた乾パンを選ぶ。
「よく、それをそんなにも、うまそうに食えるな」
男からは、すっかり昨日のような格式ばった官人仕草は消え去り、ほどけた学生と話しているようだった。あんな姿を見せた後で、見栄を張り、取り繕った姿を見せるのは恥ずかしさもあったのだろう。
にしても、自分が男の言うような表情をしているとは思わなかった。ときどき、このようなことが起こる。自分の意思と反する行動。きっと、体の持ち主であるアリスがもともと持つ性質のせいなのだろう。
仙崎は無意識のうちにその手を薄い布の上に這わせていた。
弾力のある胸も、腕や腹を覆う薄い膜のような脂肪も、それらすべて、元の自分にはなかったものだ。今更、自分の体が恋しいとは言わないが、さすがにこうまで違うと、寂しさの気持ちぐらいは湧く。
「そういば。君は、なにも訊きたいことはないのか?」
「それはあなたに関することですか?」
「違うさ! 君のことだよ。
気づいているかい? 見てみなよ」
と、男が指さす先には、一日目に発見した溶接された扉があった。
「あの、外から溶接された扉を見るに、僕はどうやら用済みになったらしいな」
その男の言葉は仙崎に宿るか弱い女の子の体を簡単に貫いてしまった。
カランコロン
仙崎の手から力が抜けたように缶がこぼれる。
それは、部屋を転がると壁に追突し止まる。仙崎はそれを、見つめ──ある一つの自我を保つための支柱とすることにした。
そして、乾き切った、口を開く。
「あの夜、俺は吸血鬼と会っていたんです────」
実をいうと、昨晩もこのことについて、考えていた。つまりある一定の計画性のある犯行ともいえるのだが。
整理された思考を遺書に書く要領で語りだす。
この箱の外で監視する人物に聞かれていようといいやと思った。
他人だからこそ話せることもある。もう遅いのだ。今更後悔したって、言ってやったのだから。遅ればせながら湧きおこる抗う気持ちを、そんな一般論で沈めてやる。
男がはじめに言った、「なんでもない会話」自分も同じことをしようと思う。いやちょっと違うか。──俺のは、宣言とか演説と呼ばれる、『かつて羨んでいたもの』なのだ。
「おい、別に言わなくてもいいんだぞ!」
男が言う。
──ああ、なんて人なのだろう。
自分の信仰を殺してまで、こうして守ってくれようとする男に、思わず笑みがこぼれてしまう。
なのだが、監視されているのはお互い様だ。
こんな、敵に塩を送る真似をしていれば、この男の先に昇進はなくなり、きっと男が望んでいた将来はなくなるだろう。最悪監獄に送られることになってもおかしくないことだ。
それなのに、そんな自己犠牲を喜ばしいことと思っている自分は罪人なのだろうか。
「君も、少しは我々のことを知っているならわかるだろう? たとえこの部屋で真実を喋っていたとしても、それをどう事実として報告するかは、もう決まっている」
「……どうせなら、もっとはやくそんな風に接してほしかったですよ……」
それはこの二日のことだけではない。自分の人生の半分を捧げたあの場所に対して言っているのだ。
「僕がか?」
男は、微笑を湛えながら訊き返す。
「今更、同情されたって遅いですよ。あなたたちは、もっと他人の犠牲について考えるべきだったんだ……。小学生のような道徳を習わせるほうがましな人間になる。それなのに、それなのに……」
仙崎は、ベッドを殴りつける。できるだけ強く、言葉の重みを表すように。
何度も、何度も────
「もう、やめにしないか?」
男がポツリとつぶやく。なんてことない言葉だった。
ここでは嘆きなんてものは無用だ。そして、反省すら、男からするともう遅いのであれば、仙崎の取った行動は、彼の言う通りなのだ。
だったら、聞き返さなければよかった。
しかし、どうやら、自分は頭に血が上っていたようで、「どうして?」と勝手に言葉が漏れてしまう。
「そんなパフォーマンスは無駄だって言ってるんだよ」
男の声はひどく冷たく、それに充てられるように仙崎の指先は一つたりとも動かなくなっていた。
「ほらこれだってそうだろ」
男は、先ほど仙崎が投げ捨てた缶を拾い上げると中にまだ残っていた乾パンを口に放り入れる。
「もし、君が、何かあると期待しているのであれば、それは酷い勘違いだよ。君がどんな実態をつかんだのか知らないけど、組織には戻れないよ」
「組織なんて戻るつもりはないです……」
仙崎は喉の奥から絞り出すように何とか口にする。
「ああ、ちがうんだ。そんな顔をしないでくれよ。
これは、僕のせいでもあるんだからさ」
数秒の沈黙があり、
「見放されたんだ。僕も迂闊だった。まさか、……君と同じ羽目になるとはね」
一瞬見えた表情は、哀しそうで、こちらまで泣いてしまいそうだった。
「……僕は、この街のどこに居場所があるんだろうな」
それでも──それ等に共感して手を握ることが出来る人間ではお互いになかった。
なにしろ、そんなことを考える人間を軽蔑して生きてきたのだ。
それに、今さら、『世界の使命』に代わる、事柄など見つかるはずもなかった。
「俺には、好きな人がいました。
その子が吸血鬼だったんです」
仙崎は、せめて男がこれ以上罪を重ねないよう、遮るように声を張り上げる。
「彼らは──吸血鬼は、この街の『聖職者』なんだ。
同じ場所に住んでいても、吸っている空気、話している言葉、体の細胞一つ一つが違っています」
「しゃべるな。しゃべるな。そんなことが聞きたいわけじゃないんだ。
いいか、あいつらはくそだ! この街を自分たちの箱庭なんてものに! いや、もっと、別の楽園でも築こうとしてるんだッ!」
男は、髪をかき上げる仕草をすると、
「でも、……でも、やつらを狩りたいなら……僕らが……やるしかないんだ。僕らが悪になるしか方法はないんだ……。きっと誰も認めないだろう。違うか?」
男は問いかける視線を向け、仙崎も同時に顔を上げたことで、そこで初めて目が合う。
「君だってそうじゃないのか? 仙崎宗」
仙崎は名前を呼ばれ、はっとし慌てて交錯していた視線を天井に向ける。
が、男はまるで、それを予測していたかのように、それとも誰かの指示か? 仙崎のすぐ隣に座ると、手を握り、数十センチの距離に顔を近づける。
「あの場にいた理由は、吸血鬼に、反逆するためだったんじゃないのか? 結果こんなところに、幽閉されているようじゃ、失敗だったようだけどね。
どうだ? 彼らを倒すなんて気なんてもう湧かなくなっただろ? そんな勇気でも何でもないものに命を使うなんて、他に自分にはできることがあるなんて思えてしまう」
それは、しんと落ち着いた声だった。
仙崎は、だからこそ思う。もし、この、心にあるものをすべて吐き出したら、この男はどんな反応をするのだろうか。
もし、「あの場で、吸血鬼を殺していた!」なんて教えてやったら、この男はどんな反応をするのだろうか。
──そう何度でも言おう! 彼らは、聖職者なのだ!
この街は、それを恨むような、そんな狂信者を許してはくれない。もしそんなことになれば、この街を統べる、二つの正義執行機関に狙われるに決まっている。
仙崎はその時すでに、悟っていた。
──先ほどまでこの男に協力を頼ってでも見ようと考えていたが、もう無理になってしまったのだと。
「俺は、もう彼女のことを邪魔するような考えくらいしか思い浮かばないんです。……そのためなら、どんな犠牲も払ってもいいなんて考えてしまう……びょうき。
ああ、そうだ……っ! 俺はそんな病(やまい)にかかってしまってるんです」
男は、「ふー」と、大きなため息をはくと、一人納得したように頷き、
「そうか……。そいつは、かわいいのか?」
真面目な顔。驚いて彼の方を見ても、顔を赤くして緊張した面持ちではあれど、一つも隠さないで正面を向いて答えを待っているのだ。
しかし誰もそれを哂う者はいなかった。もう、自分たちの存在を貶めるような奴らを知ることはできないのだ。
「当たり前じゃないですか。俺は帆風と、この街を出ていこうと思っているんです」
初めて明かす計画。
「ほのか、ほのか、ほのかねぇ。まあ、名前なんてどうだっていいけど。僕はどうせ、そいつのことを見ることもできないだろうし」
男がさらっと言うので仙崎は何と言えばいいのか分からず、ちらと男の方へ向くと、彼もまた、自分が言ったことを後悔でもしているのか、難しい顔をしていた。
男は仙崎の目線に気づくと、「あ~」とのどを鳴らす。
「あーあ、結局、僕には、そんな人現れなかったなぁ。君が羨ましく思える。恋なんかにうつつを抜かせるような、人間にはなれなかった」
また、仙崎は返答に困ってしまった。
「バギー」
「は?」
「僕のここでのあだ名さ! 荷物運びの意で、バギー。笑えるだろ?」
「別に……」
「笑えるさ。いや、笑えよ……、」
なんて、めんどくさい先輩。男は、またそれを自分で笑った。これではどちらが治安機関を嫌いか分からなくなってしまう。
「君はいいね。羨ましいよ。だからさ」
男は、ため込んでいたものを吐き出すように、深く息を吐く。
「ほらっ。僕の人生が、どうでもいいものだった、無駄だったものだと思わせてくれよ」
「なにを言ってるんですか……」
「だから、君のコイバナを聞かせてくれて言ってんだよ」
あまりに突拍子もない戯言だ。
「……本気で言ってるんですか? それともこれも、組織の命令によるものなんですか?」
「ち、違うにきまってるだろ! そ、そんなにもったいぶるということはよほど、自信のあるものなんだな! そうか、そうか」
仙崎は唖然とする。彼の顔を初めて、注意深く観察する。鋭い目つきの印象を与える細い瞳も眉間に作っているしわも。短く刈り上げた髪を先ほどから、触って、何を緊張しているのかと言いたくなるが。
「いや、あんまりそういうのって、人に聞かせるものじゃないっていうか、そういう自慢は嫌われそうですけど……」
「……知らないよ。知らないにきまってるだろっ!」
──ああ、また地雷を踏んでしまった。
明らかに不機嫌になった男は、ベッドに上半身を投げ出すと、そのまま仰向けになり、寝返りを打ち始めた。
仙崎は演じる男を横目に、呆れを感じ男の言う〝こいばな〟について考えてみることにした。
頭にまず浮かんだのは、いつか見た夢だった。
それを思い浮かべると突如、肺に無理やり空気が詰められたように、呼吸が苦しくなり、後頭部を押されるような痛みに襲われる。仙崎は少しの間、その痛みという名の快楽に溺れてみる。今すぐにでも、このベッドに横になり、女々しく俯せになってしまいたかった。
ふっと、腰に感触がある。
男という生き物は、生まれつき、俗の匂いとでもいうのか、そういうものを感じ取るのに優れているのだろう。
彼が両手を広げ、その細い指先がわずかに腰に触れているのだ。
もう、仙崎は、あきらめざるを得なかった。
「……俺だって、そんな経験ほとんどないですけどね……。
そう。こんなこと言うとあれですけど、彼女はきっと性格はよくなくて、人の嫌なことをするのが得意な奴だったんです」
「違う、違う。下手くそだなぁ」
「…………。なにがだよ」
「そいつの髪色は? 身長は? 特有の癖だったり、そんなものから始めようじゃないか。もっと妄想させてくれよ」
男はそれだけ言うと、再び体をベッドに倒し、目をつむる。
仙崎は、溜息をつく。
「そんなことなら、話すのやめますよ」
「うっ⁉」
あまりに男が素直な反応をするので、仙崎もまるで自分が悪いことをしたかのような気分になった。
「ったく、なんで、そんなこと知りたいのか……」
「いや、違うんだって。逆に君は僕のことをかわいそうだとは思わないのか? 女を知らずなんてさあ。
それとも、君が代わりにでもなってくれるのか? 女神様」
男は、腕で顔を隠しながら話すので、口の動きしかわからなかった。
「言っても僕だってそんなに悪い顔じゃないだろ。頭だって一般的に見たら賢い方だ。それに、」
「それに?」
男の口元は笑っていた。
「あぁ、ドライブデートには自信がある。ふっ、僕のあだ名を知ってるか?」
「……バギーだろ」
──さっき聞いた。
「は、ははは。そういうことだ。いいだろ。君だって、可愛いで生きてきたんじゃないか?」
仙崎は、思わず自分の胸元を見る。──そういえば忘れていたが、この男には、性別のことはまだ明かしてないんだった。
仙崎は、まっすぐ男の方を見つめる。
「な、なに……?」
動揺するように、左右に揺れる瞳から身を話すことなく、男の寝そべるベッドの上に正座になる。
「さっきのは、告白ですか?」
男は戸惑い、そしてなにより、自分がこれまで語っていたことを、白昼の下にさらされている感覚になっているのだろう、顔を破裂せんばかりに赤く染めていた。
「い、いや、なにを⁉ はあ、……うん、たぶんそうだと思う。
僕たちには、愛が必要なんだ。家族、恋人、友人、なんでもよかったのに……」
いつの間にか、向き合うように座っていた。彼は、胡坐の体勢だったが。とにかくここに、二人の男女が、揃ったのだ。
「そ、そんなに悪くない提案だろ……?」
距離が近くなり、お互いの呼吸の音、心臓の音までもが聞こえてきそうなほどで、むしろそれらの体の内部から発せられる音を邪魔しないように、声を小さくし、やり取りするようになった。
「ごめんなさい」「あ、いや、うん? え、僕いま、ふられた?」
……だからこそなのだろう。仙崎は、何の躊躇も無く断りの言葉がするりと出てきた。
もっと、じっくり考えていたらまた別の答えになっていただろう。それほど、この空間は、不安定な歪(ひづみ)の中にいたのだ。逆に言えば、唯一つなぎとめていたのは、二人の間に発生している感情だったりするのかもしれない。
「あー、ちょっとまってくれ、……僕結構マジで言ってたんだけどさぁ……」
男が言う。
「……どんだけ俺は、コミュ障だと思われてるんですか……。さすがに分かってますよ」
たった少しの感情の揺れでも、伝わってしまう。仙崎はそれを初めて、怖いものではなく、喜ばしいものと思えた。
「うえああぁぁぁぁ」
突如。男は体をのけぞらすと、おかしな奇声を上げる。ぎょっとして、彼の方を見ると、
「ああ、ハズイハズイ、つうか、うわっ、うわっ、今までのやつ全部なしにしてぇ! あぁ、しにたい、しにたい」喚きは、嘆きに変わっていた。
「もう、死ぬんじゃなかったですか?」
「僕がそんなことを言ってると思うか。君は全然かわいくないなぁ。ああ、僕の童貞が奪われてしまった……」
「いや、童貞の意味くらいしっかりしてください。大丈夫です、あなたは、まだ童貞ですよ」
しばらくそんな冗談の言い合った後、男は、両手を合わせると、そのまま口元にもっていき、くぐもった声で言うのだ。
「それで、なんでなんだよ……」
そっぽを向くことで、彼が懸命に酸っぱい感情を押さえつけているのが妙におかしく? (愛おしいなんて言ってやらない)仙崎は先ほどのお返しとばかりに笑いながら言う。
「俺、男なんで……」
「え?」
「あなたにも犠牲にした人がいるように、俺にもそういう人がいるってことですよ」
何もかもしまいだ。それでも、淋しい、悲しいなんて、まるで女の子みたいに泣かないように、努めて明るい口調で言う。
「でも。そのお陰で、手に入れたこの体は、街には感知できないみたいなんです」
「それは…………」
仙崎は胸の中で、ぬくもりが目を覚ますのを感じる。
──これでもう一人を犠牲にしてしまう。……無価値な俺は、静かに死ぬことすらできない、人間なのだろう。
「──そうか。そうかぁ……」
男は小さく口の中で、言葉を反芻し、やっと出てきたかと思うと、
「君は可哀そうな奴だな」
「俺が?」
「そうさ」
何を憐れむことがあるのだろう。──いえ、俺は可哀想な子なのかもしれません。しかし、それを教えてくれる、親は仙崎の前には現れてくれなかった。
「君も、もう少し生きればわかる」
「そんなぁ。だって、俺の体には毒が回っているんですよね」
しばらく間があり、
「そりゃ確かに」
笑う男の目元には涙が垂れていた。
仙崎は毒なんてもの、この体には、なんてことないものだと気づいていた。しかし、決してそれを、この男に言うことはない。
──他人の救いなんて、だれが見たいんだッ!
「あーあ。僕の初恋は、こんなにも儚く散ってしまったのか。仙崎くん。君のせいでね。
言っておくけど、傷ついてないわけではないんだからな」
涙はきれいに拭き取られ、すっかり元通りになった男の顔を見上げながら、仙崎は、とうとう、ここからいなくなる時間が迫っているのだと思い始めていた。
それが、どちらから生まれた感情かは判別できないが。
「ちょっとだけでいいからさ、僕の隣に座ってくれないか」
「え?」
「その、ベッドの上があれなら、地べたでもいいからさ」
そういうと、言葉通り男はベッドから降り、壁を背に座り込む。
「ええ……」
こちらの意思なんて関係なしの行動で、仙崎は困り、うなっていたが、このままだと土下座でもしかねない勢いと覚悟の意思に押されるようにして、しぶしぶ隣に膝を抱え座る。
結局、彼から離れる意志などその程度なのだ。
この男が言う好きもその程度の気持ちなのだろう。
だから、「君は、もう行くんだろう?」なんて男が言い出した時には驚いてしまった。
仙崎は、頭だけを動かしてうなずいてその返答とした。
「僕たちは運命の出会いのようだね。それも、きっとこの街を左右するほどのね」
彼のわざとらしいキザな口調のせいで、嘘か本当か判らなかった。
「君は、この街の害虫で、」
「害虫って……」
「ごめんごめん。悪気はないんだ。だったら、特異点とでもしとこうか。僕は、」
「役人」
仙崎が呟くように口を挟む。
「ふん、そうかそうか。それでいい。でもさ、僕はどこかこの時を待っていたような気がするんだ。……カッコつけすぎか?」
「わたしは──、そんなこと全然ないと思いますけどね」
──自分は、どんな表情でそれを言えただろうか。鏡がないので確認できないがでも、きっと可愛いはずだ。
仙崎は男が、ガサゴソと小さく動くだけで、心臓が飛びだしそうだった。肉体が熱くなり、溶けてどろどろとした液体に体が変わってしまいそうな感覚。
しかし、その熱は、つらくも苦しくもないもの。──ああ、呼吸だけは、苦しいか。
「あぁ、好きだなぁ」
彼は大きく、息を吐きだしてそういった。
「そうですか?」
仙崎は、悪戯っぽく笑って見せる。
これくらいの、女の子のずるがしこさを自分は持ち合わせているようだ。脳裏に、ふわりとしたかすかな、香水の香りがする。仙崎の知る少女の中で、そんな背伸びをするような真似をする少女は一人しかいないが、その少女の、女の子らしさは、この男にはちょうど良かった。
「……なんだよ。絶対僕のこと好きでしょこれ。でもちがうんだよなー。分からないもんだ。僕は、それすら判断できなくなっているのか? 恋は盲目とは言うが、これほどまでとはね、……正直参ったよ」
誰に言うでもなく、空に向かって男は、「困った、困った」とつぶやいていた。
その間、仙崎は、男の顔なんて恥ずかしさで見れるわけもなく、あと数ミリで触れてしまいそうな、男と自分の指先の間を、おはじきの線でも引くように、見つめていた。
人の温もりが欲しくなった。
男に、無理矢理に(きっとそんなことないとわかっているが)、掴まれればそのまま、自分は男の肩に頭なんて倒し、寄りかかってしまうことだろう。
──そんなこと起きるわけないだろうが。
「僕は、ここにきて、捨てた家族や友人なんてどうでもよくなって、組織を裏切ろうとしている。しかもその原因が、こんなオトコオンナなんてさぁ」
「うれしい?」
「ああ、とっても。僕が、君を連れて行こう。僕が君を、この街の外に連れて行こう。
僕は、この街が大っ嫌いなんだ。
嘘じゃない。信じてくれ。本当に嫌いなんだ」
決して、自分は治安機関のことを軽蔑しようとも名指しで批判しようともする気はない。
「この部屋には何もない。暇だな……」
「?」
「こんな昼間にこうもすることないと、眠くなるだろ?」
「……えっと、あなたは眠くなるんですか?」
「おいおい。ちゃんとしてくれよ。こんな昼間なんだからさ、まどろみたくなるだろう?普通はさ。いいんだよ? 僕の腕で寝ても」
──これだからこの男は、と仙崎は思う。
こっちを見ずに赤く染まった頬を向けて、さらりと言ってるとでも思っているのだろうか。それを気づかれていないと思っていているあたり、可愛らしく思える。仙崎は、心を探るように肩をなでる自身の髪を払うと。
「もし……。もし、あなたが、馬鹿にしてきた男らしさや、軽蔑する強引さがあれば、私の心も動いたのに……」
「そんな猿真似、今更できるか! それともこれが僕の過ちとでもいいたいのか?
……そうかそうか。ようし! なら、これでおしまいだ」
「⁉」
男は、そういうと、一ミリの壁なんて超えて、肩を掴むと引き寄せる。仙崎は、とっさで踏ん張りが利かず彼の胸の中に飛び込んでしまった。
「あの…………」
数秒、プロレスでもしてるかのような体勢のままだった。
それが妙におかしくて、男も少し笑うと彼の腕は緩み、仙崎は、そのすきに彼の腕の中に柔の技でもくらわすかのように飛び込むと、腕の中にすっぽりと収まる。
すると、彼も彼で、逃がさないようにと自分の腕を結んでしまう。
「嫌え! 嫌うがいいさ。僕は、本当はこんなことしたくないんだ……。君がそんな甘い匂いなんかさせるのが悪いんだ。蜜を摂る蜂と同じさ」
「それはちょっとカッコ悪い……。それより、感想は?」
「やわらかい」
「え?」
「あ、いや、それだけじゃなくて、さらさらしてるし、なんかフィット感あっていいな」
「なんすかその感想」
「ここで、戻るのはやめてくれよ……」
「冗談です」と、仙崎は、上目遣いで振り返る。
お互いに知っていた。
これが決して冗談やあざけりの類のものではないと理解していた。
男の言う通り、これでおしまいなのだ。
「もう、行かないと……」仙崎が言う。
「それから?」
その先なんて──仙崎は黙ってしまう。
「……ああそうか。行け。行くがいいさ。
僕は今すぐにでも、この手を取り街の外に連れて行ってやれるのに。……それなのに、君は、街を出る寸前。あの壁の前できっと僕の手を放すんだろう。
ちっ、とうに僕のことなんて、裏切っているんだ!」
男が言う。
仙崎は、ぶわっと、涙がこぼれそうになる。今この時、薄い鎖骨や、枯れ枝のような骨ばった腕が、薄布のように全身を覆う脂肪が、うなじに触れる髪がなければ、……自分の持つ性質が、ここに来て邪魔をするのだ。
肉体を引きはがし、心だけの精神生命体になれば、きっと彼の言う、夢に見るうなされるような道を歩けるのだ。
仙崎は、流れる涙を隠すように深くうなずき、扉だった場所に近づくと、片手で押す。
扉は意識を失った人間のように重力に従い地面に音を立てて倒れる。
「それでは」
仙崎のあいさつに、男は応えなかった。
しかし、仙崎の病気は、振り返ることを許してくれない。
──ここはどこだろう?
どこかビルの中のようだが、耳を壊してしまいそうな警報が鳴り響く中、仙崎は確かに感じる、においを辿り、脱出を始めた。
「ママ、僕は何のために生きてきたのだろうか。駄目だ、こうして最後にして、希望が生まれて来るなんてさぁ。
ママ、僕は────ないです」
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