8-5
その日の夜。一日はそう簡単には終わってくれない。
さすがに無警戒過ぎたと反省してしまうくらいには、熟睡していた。
仙崎は、半分ほどしか開かない目で夜の校舎を眺めていた。この学校は、校庭を囲むように校舎が建てられているため、隣の校舎の教室でも見ることが出来た。
昼のことを思い出していた。それは、あの小学生のことではなく。どちらかというと回顧に近い。昼の校舎への侵入も、あの時歩いた廊下、窓からのぞく教室の授業風景。あの頃の忌むべき後悔の記憶が既視感(デジャブ)として甦った。
もう、今夜は眠れないだろうな。寝すぎたのもあるが、校舎で過ごす夜は、帆風のことを思い出さずにはいられない。
「ん……?」
その光景が目に入った瞬間、仙崎は肩にかかる重さを忘れ、立ち上がっていた。
「おい、起きろ!」
視線は外さず、くたばるデブを揺らすが反応はない。
「何寝てんだ! さっさと目を覚ませ!」
「なんだよぉ……」
そこでようやく、神木は、目をつむったまま口だけで応えた。
二度寝の態勢に入ろうとしていた神木の顔をはたく。
「な、なんだよ……!」
突然の攻撃に驚き完全に目を覚ます。しかし、仙崎が言わないので、
「だからなんだよ!」
と、声を上げようとするが、その前に分かったのだろう。いや、目に入ってしまう。目立つように一つだけ明かりの灯る教室。カーテンの隙間から、中で二人の動く 人間が映る。一人は大人のように見える。
「凜香ちゃんはっ!」
「だから早くって言ってるだろ」
神木は、瞬発で飛び起き屋上の扉に向かって走り出す。
「お、おい、神木!」
遅れて仙崎も後を追う。
身体能力的に途中仙崎は神木を抜かし先に教室に到着する。
「っ! なにしてんだ……?」
灯りのつく教室の扉前に立ちつくす凜香の姿を見つける。
仙崎はてっきり、こいつが再び復讐に目覚めたのかと思っていた。たしか、教師も彼女の標的の一人に入っていたはずだ。
「あいつらあああ、おれにいい、銃なんか向けやがってッ!」
疑問を口にしようとした時、中から怒号が聞こえてくる。
「くそ野郎どもが、私を、だれだと、思ってんだ!」
いらだちをぶつけるように何か蹴ったのだろう、机やいすがぶつかり合う派手な音が聞こえてくる。
「きゃあああぁぁ」
続けて、ひび割れるような悲鳴が上がる。
「うっせえええなあぁ! 私は今気が立ってるんだ。次声出したら、その口犯すぞ。
あああ、殺してやりたいいいい」
──一体何事だ。あの教師は、凜香の担任をしていたやつだろ?
「ああっ! 駄目だ駄目だ落ち着かないと──」
仙崎は扉から中の様子を確認すると、昼間の従順な公僕──教師が、おそらく、ここの生徒なのだろう、教師は、その小学生の腹に顔をうずめていた。
「スーフー、スーフー、はは。そうだ、そうだ。ここは、私の世界だった。
まったく、誰の、おかげで、君たちは、生きてられていると思ってるんだ!
しかも、私は、先導者である教師なんだ。
あぁ、明日は誰にしようかな! 君だけでは満足できないよう。私が手塩をかけて育てた子供たち。いつ収穫しようかなぁ!
でもなぁ、困った困った。減らしすぎたらまた何か言われそうだ。
ぐああああぁぁ──あいつもこいつも私に命令しやがってえええッ うざいんだよ!」
仙崎はしばらくその豹変ぶりに息をのみ、ただ茫然としていた。
「…………助けなきゃ」
凜香はぽそりと呟く。
──そうか、助けないといけないのか。
仙崎は、なぜだか、こんな状況で〝助ける〟なんて考えは一つも浮かんでいなかった。
まるで、自分にその能力を身に着けていないと初めから決めつけているみたいだ。
帆風を見殺しにしていた頃に戻ったようで気分が悪い。
仙崎は、ぐるぐる回りだす頭を、目の前の男の排除に切り替えることで平静を取り戻す。生徒へ被害を出さず、なるべくなら、教師も殺さない程度に叩きのめすにはどうするか。
瞬時にいくつかの案が浮かぶ。そこから最善の選択肢を選ぶ。
幸いにも、自分たちに気づいてない今、奇襲でやってしまえればいい。
手足に力を籠め、体の感覚を頭に叩き込む。そして、拳銃を抜き出すと、安全装置を外す。いつもと違いグリップが、手に収まりきっていないが、まあ、人を殺すわけではないので、正確な射撃は必要ないだろう。
仙崎は、動けないでいる凜香を遠ざけると、教室の後ろ側にある扉に標準を合わせる。
フッと息を吐き、トリガーを引く。
耳を劈くような衝撃音と共に、懐かしい硝煙の匂いが鼻腔をくすぐる。
刹那の音のなくなった世界──仙崎は、その隙間に教室に突入すると男の横っ腹に蹴りを食らわせた。
男は、何か呻き声にも似た悲鳴を上げながら、床に倒れこむ。
「ったく、教師が何やってんだよ」
仙崎は、机の上に押し付けられていた生徒の手をつかみ起き上がらせると、扉に向かわせる。
教室に二人になる。
「で、お前だ」
床に未だ倒れたままでいる男は、何かぼそぼそとしゃべっていた。
「私は私は私は私は私は私は私はわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはワタシはワタシはワタシは────────」
「ちっ、こいつラリってんのか? 脳みそ溶かすほど、薬をやってるようには見えなかったんだがな」
一瞬、ほんの一瞬男から目を離した。
「なっ‼」
肌に、風を感じ全身がピクッと跳ねる。そのまま、耳をなでるように、息遣いが伝わる。
仙崎は、背後に感じる気配に全身が、血抜きをされた魚のように固まっていくのを感じていた。
「私に命令するんじゃないよ」
だが、体だけはその恐怖にかろうじて反応する。飛ぶようにして、背後の気配から距離を取る。振り返ると、確かにさっきまでそこで倒れていた、教師の姿があった。
しかし、様子がおかしい。恐怖で顔面蒼白になっていたはずだが。
「何者だお前?」
男の顔は、白く、さらに白く変わっていく。化粧をした道化師のように、真っ白に変わっていく。
こんな場所でなく、そして男の蛮行を見ていなければ、一瞬に別人に入れ替わったトリックショーでも行われているようだった。
「ああ、よく見たら君は昼間の。はは、感動の再会ってやつかい? もういいよ。死ねば?」
仙崎の前を、鋭い何かがかすめる。
【別人になった男】が外したわけではない。仙崎が寸前のところで反応したのだ。
視界に映らない攻撃に何故反応できたかは分からないが、まだ命が無事なことだけはわかる。
仙崎は咄嗟に牽制するための銃弾を足元に二発撃ちこむ。
「うわああぁぁ! しぬしぬ、しんじゃうって!」
男は情けない奇声を上げながら、窓際まで逃げていく。それもありえない速さで。
「ああ、そうだ。さっきの子をショクジにしよう。犯してあげる予定だったんだがなぁ。仕方ない。ああ、せっかくなのになぁ。おぉ! でもそう思ったら、やる気が出てきたぞ」
男は頭を掻きむしりながら、そんなことを言う。
仙崎はその男の変わりように混乱していた。
それでも、これは少しおかしいのかもしれないが、死なないために動かなければならない。
問題はあの不可視の攻撃か。一度目は奇跡的に避けることが出来たが、つぎはもうない。仙崎の頭は、戦闘に集中していく。
「なに、睨んでんだよ。女のくせに生意気だなあッ!
うん? 女? ふひひ、女だ。女。ちょうどいいところにいたじゃねえか女が。こっちを喰えば、あっちは喰わなくていい」
男は、仙崎ともう一人の子とを指差し確認して見せると、その指を自分の口にくわえた。
「ああ、そんな怯えた顔をしないでくれたまえ。私だって、快楽でこんなことをしたいんじゃないだ。夜遅くまで、働いて、朝には笑顔でこの子たちを迎える。こんなにも丹精込めて育てているのに、それを途中で、摘んでしまうのはあまりにも苦しい……。ああ、それでも、私も生きなければいけないからねえ。……でも、安心してほしい。この子は、頭が悪いわ、素行不良ときた。次回は、あの、凶器を持ち込んだ不良生徒にしようかねえ」
「その子から離れろ……っ」振り絞るような悲痛な声だった。
「いいですか。みなさん。私が今から授業しますからね。しずかにしてください」
瞬間、至近距離に風が吹く。
──射撃、間に合わないッ!
仙崎はひざを曲げ最低限の動きで、倒れるように回避────
「うぐ────ッ」
胸元に、鋭い痛みを感じる。見ると、服が裂け、赤い血が流れていた。
──大丈夫。傷は浅いか
そう判断すると、今度は、こちらから反撃に出る。
一度目の射撃は、男の右頬をかすめ、連続するように放たれた二発目は、男の胴体をとらえる……はずだった。男は、大きく横に回避したことで、仙崎の標準は外れてしまった。
速い!
視認できない、が牽制により誘導は出来る!
男が動き出すより先に第三射を撃ち放つ。
全てが掌握された攻撃だった。誘導された男は、超反応で避けようとするも、腕から赤い血飛沫が上がる。
「いぎゃあああああっ!」
悲鳴を上げながら床にのたうち回る。血を床に塗りたくりながら、転がる様は人とは言えず、羽をもがれた虫のようだった。
仙崎もわずかであるが、このような、人でないモノを見てきた。時に参考資料として、時に実地訓練として。
その多くのモノは、目の前で躊躇いなく他人の血を流させたが、自身の血となれば、別だった。態度は急変し、戦意を失ってしまうものが殆どだった。ひどいものは、気絶、死に追いやられるものさえいた。
しかし目の前の男はどれにも当てはまらない。戦意など失ってなどいない。
──そのような男の異常性は、恐怖として仙崎の体に異変をきたす。逆立った毛は収まろうとせず、背中には、水をかぶったようなほどの大量の汗を感じていた。
仙崎の心は、知らず知らずのうちに追い詰められていたのだ。今まで気にならなかった胸の鼓動がやけに大きく聞こえる。それはまるで早く逃げろと体が急かしているようだ。
事実、動物的警鐘は正しかった。
だがそんなこと仙崎は知らない。冷たくなった手の甲を額に押し付けると、垂れる汗をぬぐい、理性を取り戻そうとする。
この恐怖から逸早く逃れるためには──
「死んでくれ。これは俺のためになんて言う勝手なものだが、お前の罪にはちょうどいいだろ」
凍っていた唇は重く皮は張り付き言葉を発するたびに、ぱりぱりと音を立てる。
「そうか。それは良かった」
男がそう言終わる瞬間、仙崎の視界に映ったのは無機質な床だった。
「?」
頭をつかまれ、そのまま叩きつけられた。──事実だけ言えばそうなのだろう。
次に泣き叫ぶのは仙崎の番だった。口の中には、どろりとした液体が流れ込んでくる。
自分の声とは思えない、甲高い泣き声が聞こえてくる。──そうか、これ俺の体じゃなかったな。
その間も仙崎は起き上がろうともがいていたが、圧倒的な力によって押さえつけられていた。
「君は私をだれかと言っていたね。答えてあげよう。子供の疑問に答えてあげるのが教師の役目だからね! ああ、やっぱりこれは私の天職だなあ」
男は、二、三度咳払いすると、押さえつける手には変わらない力を籠め言う。
「私は吸血鬼だ」
「んな、まさか、そんなこと……」
「ほほう。私の存在を知っているとは君も勤勉だねえ」
「この街で生きるやつが知らねぇはずないだろ」
「まったく、もう少し女の子らしい言葉を使いなよ。せっかく、かわいらしい顔してるんだからさ」
男は、自身の腕から流れる血で真っ赤に染まった指先でアリスの顔の輪郭をなぞった。
「吸血鬼。世界の英雄様がどうして……こんなところにいるんだ」
「私は、生きるために食事をする。しかし、それだけではよくない。そんな一方的な、搾取は、文明的ではない。私も頂くのだから何か返してあげたいと思ってね。だからこその教師さ」
押さえつける手に力が加わるのを感じる。
「最悪な気分だ。どうして、俺は、こんな奴に殺されようとしているんだ」「痛い! 私の顔を無茶苦茶にしないでよ」
「おお、これはすまないね」
──どちらかの心の声が漏れていたらしい。
「いひひひひひひ」
男は高笑いしながら、仙崎の顔面をもう一度床にたたきつけた。
しかし、仙崎は無言のままだった。悲鳴一つ上げなかった。そう、彼にとってその手の攻撃は、もう意味のないものになっていた。
いや正しくは、男が振るう暴力から痛みというものを感じていなかった。
すでに仙崎の心は、自身の体というものを認識していない。
無意識のうちに男を睨みつけていた。それは、明確に倒すべき敵と認識するためもあったが、ある種の宣戦布告の意味も成していた。
仙崎が頭をつかむ手を握り返すと、男は目を見開き驚愕した表情を見せる。まさか、こんな状態で抵抗する人間がいるとは思わなかったのだろう。
「……なに……私の許可なく立ち上がってんだ!」
「もう黙れよ」
まともであれば、ここで考えるべきはどう生き残るかであろう。
しかし、仙崎にはそんな心は一つもなく、どう殺すかばかり考えていた。それは、静かな闘志となり体全体を包む。──熱い。胸の鼓動が早くなり、身体を駆け巡る血液が脈打っているのを感じる。
もう一度殺すべき目標を視界にとらえると、仙崎はその熱を開放するように、男に突っ込んだ。
「ひぎいいぃいぃいいぃいいいいい」
金属をこすり合わせたような悲鳴を上げる男だが。
──俺は今何に怒っているのだろう。
爆発的な加速を見せる身体は、誰かに操られているような感覚に思える──もしそれができるとしたら、自称天使の力なのかもしれない。
仙崎は、男の顔面に拳をめり込ませながら、そんなことを考えていた。
何度も、何度も、この白い手が泥赤く染まるまで。
自身の拳が変形してしまうほど殴っても、この灼熱感は消えてはくれない。気づいた時には男は、一ミリも動かなくなってしまった。試しに足でもけってみると、身体の反射として、ピクピクと痙攣を起こすだけだった。──これでは本当に死んでしまった虫ではないか。
「はぁ、はぁ──」
仙崎は口から洩れる艶めかしい熱い吐息がどうしても自分のものとは思えなく、いやでも、傷つけていた人間が思い浮かぶ。
「そうか。お前が、俺の代わりになっていたのか……」
自分の取る行為として正しいものが見つからなく、横たわる男──たぶんこのまま死に絶えるのであろう吸血鬼の隣に、膝を折り座る。
この殺しは誰のせいになるのだろう。
そんなことばかりが気になって、手につく血肉や、すぐそばを流れる男の血潮になど、何ら興味が湧かなかった。
それは罪に問われる怖さなどではなく、一つの命を奪えるほどの人間か自分がそれにふさわしいかを気にしていたのだ。
吸血鬼──この街を、この世界を守る英雄。自分はその一人を一時の感情なんかで、殺してしまったのだ。
もしかすると、システムの一部を破壊するような行為を取ってしまったのではないかという恐怖がさっきまで熱気を佩びていた身体を冷たく、氷漬けにしていく。
たしかに、治安機関は、吸血鬼を嫌っていた。しかし、それは感情だけのもので、才能ある者は理解していた。自分たちは、彼らの支援や補助でしかないことに。
「あーあ。やっちゃったねぇー。きたねえ。きたねえ」
「⁉」
音も、気配もなく。気づいた時には座り込む仙崎の隣にいた。
いつから? そんな疑問が沸き上がるほど、存在がなかった。むしろ自然的に発生したと言われ方がまだ頷ける。
これが二回目でなければ、悲鳴を上げていただろう。
コートを着、頭にはシルクハットと思われるものをかぶっている。そのすべてが黒色で統一され、それがまた不気味さを増幅させる。
黒い男は仙崎と同様、横たわる死体をのぞき込んでいた。
「これ生きてんのかい? ヒヒ、ひでぇ、ひでぇ。
まぁ、確かにこいつは、くそ野郎だから死んでくれてもいいんだがな。ったく、何人ヤッたんだ? やるなら、適齢期のやつでやれよ。かわいそ。かわいそ。まだ未来ある子供を、ヤッちまうなんて。そんな意味ねえことしてんじゃねぇーよ」
すると、謎の男は、倒れる男のちょうど胸のあたりを踏み抜く。血飛沫が噴水のように、吹き出す。これは、男が先ほどまで生きていた証でもある。
「なぁ、なぁ、ほのちゃん。これ、生きてると思う?」
仙崎は再び驚かされる。一人ではないのか……。
「今あなたが殺したんじゃない。ちなみにだけど、その前までは生きていたわよ」
「やべえ、やべえ。俺が殺しちまったてことか? ま、いいべ」
ぱちん。
男は合掌し、形だけの祈りを見せた。
「さぁて。こいつをどうしようか?」
ぎろっと、こちらをのぞき込む。見開かれた眼球の端々には充血した赤い糸が現れている。
「黙っちゃても無駄だからね。僕の尋問を耐えられる人間は、そうはいない。だから酷くなる前に正直に全部話したほうが良い。それで。それで、全部しまい。はい、それじゃあ、まず一つ目の質問。君はこの男に恨みでもあったのかい?」
男は、話している間中瞬きを一度もしていなかった。
「……いえ」
「まさか、まさか。なんでもない人に殺意がわくわけでもあるまい。だとしたら誰が殺したんだ?」
誰が……。あの小学生──凜香。浮かんだ名前は、単純で確かなものだった。頭のピースがかっちりはまったような感覚。
(あれは自分の意志ではなかった。あの時感じていた操られるような感覚というのはそういうことだったのだ)
「ああ、ああ。やっぱりいるのだな。ほのちゃん、ほのちゃん誰だと思う? こいつにこんな悲惨なことをさせたやつは。あの太ったやつか? えっと。女児も二人いたっけか? そのどれかなんだろ?」
男は、穏やかな口調で訊いてくる。
「そいつらをどうする気だ……」
「どうするって……、そら、仲間がやられてたら敵を取るのが普通だろ。違うのかい?」
仲間ということは、こいつも吸血鬼なのか……。まあ、予想はしてたけど。
「さぁ、さぁ、働くとしよおぅ。ほのちゃんあいつら適当に殺しといてくれ。僕は、とりあえずこいつの処理しておくからさ」
「はいはい」
暗闇の廊下から教室に一人の女の子が入ってくる。
「ハハ……そうだよな。……もしかしたらって、思ったんだ。吸血鬼の仲間でほのちゃんなんて呼ばれたらさぁ……意識するだろ……」
吸血鬼の男は、そんな再会には目もくれないで、死体をずるずると引きずり教室の後ろまでもっていく。
それを見送って少女は口を開く。
「ふふん。そう? それはうれしいわね」
帆風の手は見ると赤く染まっていた。彼女が何をしてきたか容易に想像できた。しかし、仙崎はそれに何か悲しみや、憎しみなんて感情は抱けなかった。
なぜ? それより優先する感情があったからだ。
「で、会えてうれしい?」
仙崎は、子犬のように頷いた。──当たり前だ。それがすべてなのだ。
「そりゃそうでしょ。また会えてうれしい」
「⁉」
遅れて口からとんでもない言葉が飛び出す。
帆風も少し驚いた表情を見せる。
「うるさいから、ちょっと黙ってて。今私は、仙崎君と話しているの」
(あぅ……)
声にならないが、心の中でアリスは哀愁を漂わせる。
「……そんな言い方するなよ」
気まずい沈黙。
「ヘイ。ヘイ。なにグズグズしてんだい?」
そういう男は、口の周りにケチャップのように血を付け、〝処理〟を続けていた。
「そうね。さっさと終わらしましょう」
仙崎は引きずられてできた処刑場までの血の道筋を見る。──俺も同じようになるのか。
先ほどまで目の前に死があったからか、より正確な想像が体を冷たくする。
帆風は、一歩また一歩と距離を詰めて来る。
ふわりと、この凄惨な場にはふさわしくない甘い香りが漂ったかと思うと、ぶつかりそうなほど近くに彼女の顔面があった。
──抱きしめてしまいたかった。それだけの価値が自分にあると思えればよかった。
「ほら、もっと集中しなよ。君は私と差があるんだからさ。一瞬で終わっちゃうよ。……なら、まだ足りないな……」
言葉途中で、意識が切れかけ仙崎は急に自分の体が重くなるのを感じる。足から力が消え、帆風にもたれかかる様に膝をつく。
恐る恐る自身の体を見ると、腹に彼女の手が突き刺さっていた。
ぽたっ、ぽたっ、と落ちる雫は鮮やかな緋色で、命のかけらにも思える美しさだった。
見上げる視線は、彼女と重なる。帆風はフッと、口を緩ませるとさらに溶け合うように突き刺さる手をさらに深くまで侵入させる。
一刻も早くこの傷に対処しなければならなかった、──けれど、おかしいかもしれないが、同時にこの密着する彼女から離れるのを拒む思いもあった。
仙崎は今、幸福に包まれていた。
「夢の中の私は綺麗だった? 君の理想の私は優しかった? 私を放って見た夢はさぞよかったでしょうね」
帆風は、まるで、それを見てきたかのように言った。
「帆風。君を救うには俺はどうすればいい?」
彼女の瞳が大きく開く。しかし、続く言葉はすぐには出て来ない。
「……ダメ。ダメなの。君は私をすぐに迎えに来なければならなかった。こんな形で出会ったしまった以上、私にはもう、どうすることもできない……」
漏れる息の方が大きいのではないかと思うほどか細い声で呟く。
しかし、そうか、
──逆に言えば、俺次第ではどうにかなるかもしれない段階にまだいるのか。
「あいつがお前を縛っているのか?」
仙崎は、吸血鬼の男に目をやる。帆風は首を横に振りながら答える。
「無理だよ。仙崎君、あなたには無理なの……」
「な、……んでだよっ‼」
「私たちへ攻撃したってことはそう言うことなのよ。もうあなたは、──」
「そういうことだ。こいつはな────」
「うっ……⁉」
すぐそばに男が近づいていた。口には眼球が咥えられ、それを見せつけるように仙崎の目の前にもってくると一気に砕く。
くしゃ、くしゃと、音を立てて咀嚼する。
「残念、残念。僕だってよぉ、こんないい女、殺したくないのだよ。
しかしね、こいつはやっちまったら駄目だろお。僕たち吸血鬼は、ボーイが極端に少ないんだ」
ぼーい? なんのことだ?
「生まれないし、成人まで生きるやつも少ねぇ。だから、本当なら、こうして外に出てること自体あり得ねえんだけど、こいつはちょっと、血統が良いばかりにこうして自由が許されてるんだ。繁殖個体を探すとかいう理由でな」
仙崎の視界は、チカチカと点滅し、二人の輪郭も曖昧なものに見え始めていた。それは二人の存在が薄くなったとかではなく、今まさに自分の命が薄れてきているのだと悟っていたのだろう。
もし、これが【物語】なら帆風と一緒に逃げることを選ぶのだろうが。目の前にいる吸血鬼の男を殺し、さらには追ってくる敵さえも排除しながら、彼女と街の外を目指すのだ。
もしそれが叶わないのであれば、せめて、帆風の手の中で死にたい。
仙崎はそれに向かい突き進む。二人のずれた意識は偶然にも同じ行動をとらせる。
お互いの距離が縮み、薄れる意識の中、仙崎は彼女の腰に手を回す。
「良かった……」
帆風は何も言わず、ほっておいても、崩れ落ちるであろう哀れな体を腕の中で包むと、ゆっくりと寝かすように地面におろす。
仙崎は最後に白い無機質な天井なんか見て死にたくないと思い、目を閉じる。
先ほどまで目の前にいた『帆風』の顔を思い浮かべ、消え去る、命を待っていた。
「ああ。悲しい、悲しい。きっと君はまだ、この先長い人生を謳歌できるはずだったのに、こんな、価値のない種族に出会ってしまったばかりに、ちょっとした正義感を働かしたばかりに、殺されるのだ。僕たちを恨め。僕たちは、君の命を刈り取る、絶対悪だ」
しかし、高らかに謡う声は、すでに仙崎には届いていなかった。
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