8-4
「ねぇ、わたしのワンピース汚さないでくれないかしら」
廊下に出てすぐ、憎まれ口が飛んでくる。
「はいはい、悪かったな」
「そうじゃないわ。あなたはわたしではなくあの子に謝るべきよ」
アリスの放った言葉は、いやにはっきりと頭に残る。
それは心の中では神木のように彼女を追ったほうがよかったという意識があるからだろう。しかし、そんな気持ちとは裏腹に仙崎の足取りは一向に進まない。
「リンカに撃ってほしかったの?」
仙崎は、返事をしなかったがそれでは答えを言ってるようなものだ。
「ひどい人ね」
何の感慨もなくアリスは言う。
「それなら、早くお前が代わって止めればよかったじゃないか」
仙崎が、彼女を追いかけられない理由はそこにあった。
「それに、あいつだって初めは、それを望んでいただろ……」
だからこそなのだろう。
後悔している、この言葉が正しいかどうかは分からないが、──自分は、彼女の意思を果たさせるべきだったのではないか? そんな疑問が、体を縛っていた。
「わたしだったら、すぐにでも会いに行けるわ」
それは、体を返せと言っているのだろう。
「行ってどうするんだよ。神木もたいがいだが、お前よりはましな慰めができていると思うぞ」
「そうね」
「それは認めるのかよ……」
「でも、リンカを泣かせたのは謝りたい」
「そんなの知らねーよ。お前の私情だけじゃねーか!」
「? これはわたしの体よ。わたしが嫌なことを嫌と言って、わたしがしたいことをして、なにがいけないの?」
仙崎は、のどに何か詰め込まれたように、言葉が出なくなる。遠のく意識は、体の支配が変わっていくのを意味していた。
アリスは取り戻した体をスライドさせパタパタと廊下を走りだす。
が、この学校の構造を知らないアリスは、やみくもに走り、体はすぐに限界を迎える。
「……神木に電話ぐらいしたらどうだ?」
彼女の必死さに、仙崎は、先ほど言い争いしたことも忘れ思わず口にしてしまう。
「し、知ってたわ」
体温が少し上がるのを感じる。
「そうか。ならよかった。ちなみに、それはメールだ」
彼女はおぼつかない手つきで電話をし、居場所を聞き出すと再び駆け出した。
×××
神木と凜香は、屋上にいた。
アリスは、彼女を見つけると駆け出し、抱きかかえる。それは、恋人へ向けるというよりは、母親が子にするものに近かった。
「んっ。いたい。もう、痛いよアリス……っ」
口ではそういうが、顔をくしゃくしゃにした凜香は決して彼女を振りほどこうとはせず、その手はワンピースに皺ができるほど力強く握っていた。
「ごめん。ごめんねぇ」
アリスは繰り返し、彼女の胸で唱え続けていた。
抱擁は、だれも止める者がいなかったためアリスが満足するまで行われた。
しばらく経つと、凜香は眼をつぶり、うつらうつらし始めていた。そしてそれは、アリスが膝枕をすることで、完全に閉じてしまう。
こう見ると、まだ幼い子供に見える。膝の上に乗る頬は、つぶれるように沈み込み、すぴーすぴーとかわいい鼻息を立てる。いやきっとまだ、彼女は子供なのだろう。あの時と同じだ。しかし、もう彼女の周りが、彼女を子供にはしないだろう。
さらに時間がたち、灰色のコンクリートに沈んでいく夕日を眺める。
膝の上で猫のように丸まる少女の上には白衣がかけられ、未だに安心しきった顔で呑気に寝ている。
仙崎といえば、アリスに足がしびれたからと交代させられ、数十分おきに襲う痛みに耐えていた。隣を見ると神木は、体をアリスが支配していると思っているのだろう、話しかけようとすらしないが、帰らず隣で携帯を操作していた。
「……疲れたな」
あくまで、心の中でつぶやく。別に話したくないわけではないが、この子を起こしたくなかった。
「そうね」
誰かの同意に、安心したのか久しく感じていなかった睡魔が襲ってきた。しかし彼女が生んだ悪魔──仙崎に迫る悪魔はこんなものではなかった。
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