第8章 少女の覚悟
八章
「わんっ!」
「ど、どうした急に……」
奇声を上げたのは、今まで、椅子を二つつなげて寝ていた、自称天使様アリスだ。吠えた後とは思えないほどすました顔で上体だけ起こす。
「ねえ、忘れてないかしら?」
「何をだよ?」
仙崎は、一足遅く鳴き出した孤独なセミの鳴き声を聞きながら、目の前に置かれた紙資料と格闘していた。
題は「人類の進化と既存の人類の役割」となっていた。神木が、国立図書館から盗んできたものをコピーしたものだが、これが吸血鬼を知るうえで、最も楽なのだそうだ。
「ほら、これなら、絵本みたいだから。宗でもイメージしやすいだろ」
確かにここに書かれているものは、イラストや図解が多く、分かりやすいのだろう。
しかし困ったことに、殆どが、著者による妄想や、都市伝説のような仮説がほとんどで、自分が持つ浅い知識の方がまともな気さえしてきた。
「なあ、これ本当に禁書に指定されてるやつなのか? まともなところが一つもないぞ」
つまりは吸血鬼の歴史など誰も知らないのだ。ならどうして今さらになって、歴史に現れたのだろうか。
彼女が寝ていると言っても、今まで、紙をめくっていたのは仙崎の意思によるもので、器である、アリスの体も当然椅子に座っている。なので、寝ているというのは、あくまで彼女の意識内によるイメージで、それを共有しているに過ぎない。
──ぐうううぅぅぅ
アリスはその音に自分でも驚いたように、おなかを抑える。──なるほど、それはわかりやすい意思表示だ。
仙崎はこの程度の空腹感は、慣れたものだが彼女は自分の欲に正直な、というより自制心を知らないみたいだ。
「そうだな。なんか飯を買いに行くか。おい、早く着替えてこい」
今のアリスは、神木の私物である、股下まであるTシャツに半ズボンと言う、少年のような服装をしていた。これは、お互いにとってぎりぎり不快感のない妥協点を探り導き出した結果の服装なのだが、さすがに外に出られるような格好ではない。あいつのせいで各所伸び切ったTシャツは、隙間から肌色が見えてしまっている。
アリスはよく着ている、白いワンピースに素早く着替えるとターンして戻ってく────
「いってええぇぇ」
まわる瞬間、柱に思いっきり足をぶつけた……ぶつけたのだが、瞬時に意識を切り替えたのだ。
脳内に、痛みと、骨格の不快感が一気に流れ込んでくる。
「おい! なんつーことすんだお前は!」
仙崎が視線を向けた相手──体の持ち主は何食わぬ顔で、痛がる仙崎を尻目に「さっさとしなさい」と催促さえしてくる。
「こいつ……」
しかし、彼女へ痛みを与えるのは、自分の体を傷つけることと同義になってしまっている今、おとなしく彼女の後ろをついていくしかなかった。
外に出ると、まだ日が高く、薄い彼女の肌を遠慮なく焼き付けてくる。
仙崎が、彼女の体を慣れないでいる理由の一つにあるのが、身体的特徴の差であった。ちりちりと痛む肌もだが、なにより筋力だ。踏ん張りがきかないせいで動きの制御が難しく、全力で走るなどの行為もできない。
彼女は特になのだろう。少し動いただけでも、足の付け根や足首が痛みだすのだ。
それに、この長い髪もだ。汗で頭皮がかゆくなるのも我慢ならなかった。仙崎が、髪を結ぼうと提案しても、彼女は頑なにそれを拒んだ。そのせいで、シャンプーやリンスなどの髪のケアだけは、あの小学生に習いながら時間をかけることになった。
それと、
「なぁ、パンツは、絶対に履いてくれって言ったよな?」
多分、こいつだけの癖なのだろうが、パンツや、ブラといったものを付けないのだ。わざわざ買いにいったのに……。ブラは、まあ好都合? にも着けなくても大丈夫そうだが。
「いやよ。だって、あれ邪魔だもの」
ようやく、落ち着かない二人で一人が、一人で二人に戻る。
「いや、それは邪魔とかそんな扱いしていいもんじゃないだろ。よくそんなスカスカで人前を歩けるな。なんかその、色々心配にならないのか?」
「なに、あなたはパンツを崇めでもしてるの? 欲しいならあげるわよ」
「欲しいって……実質俺が買ったようなものだろ」
「へんたいね」
仙崎は、それ以上何か付け加えても変態性が増すだけで、彼女を動かす理由は、あげれそうもなく、「パンツ履く理由」と後で調べようと、心のメモに書いておいた。
「それで、何か食いたいもんあるか?」
何か食べるにしても、胃袋は一つなので、なるべく交互で、自分の食べたいものを食べるというルールを作った。
昨日は、仙崎が決めた塩ラーメンを食べたから今日は彼女の番だった。
「なんでもいいわ」
「毎回そうだよな。これで、食べるのが嫌いならいいんだけど、なにぶん期待されているってのがつらいところだな」
「いいわよ。ほんとに何でも。わたしに味なんてわからないから」
「まあまあ。俺も普段はそんなの気にしてこなかったから、ちょうどいい機会と思ってるよ。これからおいしいと思えるものを見つければいいさ。どうせ、まずくてもお前が食うんだからな。いって!」
かかとを踏まれる。
「お前じゃなくて、アリス」
「そこかよ……」
仙崎はふと思う。もし、この光景を見た者がいたら何を思うだろうか。美しい少女が、殆ど表情の動かさず、独り言を話しながら歩く頭のおかしい奴に映るのだろうか。
それとも、緩んだ顔に、ぎこちない歩き方が映るのだろうか。
こつこつ、と二人の歩幅の違う足音が街に響く。それは、たしかに生きている人間だった。
しかし、同時にこの街で、システム外の人間を人とは認めない。この街では、むしろ一定のリズムで足音を刻み、街を守る正義を志すもの、逆にそれらを憎み、血の声を上げるプロレタリアの関係があり成り立っていた。そのためなら、殺人も、薬も暴力も許されている。
それがシステムを前提とした、管理された国なのだ。
つまりは、そこに属せないでいる人間は排除されてしかるべきなのだ。
事実その手は、まさに目の前に迫っていた。
仙崎の、携帯が震える。
「宗っ!」
「ん? どうしたそんなに慌てて」
「ないんだよっ! いないんだ凜香ちゃんが」
携帯越しでもわかるほど、神木は息切れをおこし、聞こえてくる騒がしい音から外にいることを察する。
「あいつなら学校だろ」
「違う! 違うんだ。ああ。どうしよう。僕が見ておけば……。ああ、そうだ。まだ子供なのに、ほっておいたから」
自問自答のように、ぶつぶつとつぶやく。こいつの悪い癖だ。
「落ち着けって! さっさと要点だけ話せ」
「僕の家の包丁がなくなっていて、……たぶん君の持っていた銃もとられてる」
──ああ、そういうことか。事の重大さを理解するには神木のそれだけで、十分だった。
もっと言えば、彼女の行動について心当たりが全くないわけでもなかった。
むしろ、いつかこの日が来るかもとは思っていた。いつかが今日だっただけの話だ。
だからといって、今日見かけた彼女にそんな兆候があったわけではない。だから、油断した、とは思いたくはないが、事実彼女の秘めていた狂気に気づかず侵入を許してしまった。だったら、
「わかってる。これは、俺たちの責任か……」
きっと彼女の向ける狂気の矛先は──初めて会った集会で、彼女はいじめについて語っていた。
あの時すでに彼女は、決断を済ましていたのだろう。大人たちに見限られ、偶然出会った、子どもにも大人にもなれない青年ですら、見捨てたのだ。
恐らく彼女は世界全体が敵に見えただろう。
──それでは、俺はこれから彼女のもとに向かって何をするのだろうか。彼女を止める? ばかな。彼女の英雄的行為を止められるほど、自分は出来た人間ではない。
それでは犯罪行為として彼女を助ける? それこそあり得ない! 俺にだって、目的がある。
答えは簡単だった。その足はすでに学校に向けて歩み出していた。
「そうだよな。あいつはお前に名前をあげたやつなんだから。借りは返さないとな」
もしかしたらこれは、アリスの精神汚染のせいもあっただろう。彼女の感情が気持ち悪いほど流れ込んできて、そんな濁流の中でどちらの意思かなんて、どうでもいい。それでも、動かなければいけない。
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