第七話 一件落着……?

「それで……、決闘に勝ったのはアカツキくんだけど、どうするの?」


 激しい戦闘でじわりと拡がった傷口を左手で塞いでいると、ざわつき始めた群衆の中から学園長が障壁を解いて歩み寄ってきた。

 隣にいる先生は俺とガルドを見比べて、泡を吹き始めたガルドの方へ駆け寄っていく。

 その姿を目に入れながら、俺は学園長が問いかけについて考えた。

 どうする、というのは、ガルドの処罰に関してだろう。

 結果までの過程がどれだけ酷かったとしても、勝ちは勝ちなのだから相手の待遇を好きに決めていいはずだ。

 だが、


(……そういや何すればいいんだろ?)

「“葉緑の風 癒しの果実を与えよ”《ウィンド・ヒール》」


 ある程度は考えていたはずなのに、いざこうして聞かれると何をしていいのかわからなくなる。

 最初は退職させてやるとかなんとか考えていた気がするのに、ボコるだけボコったら忘れてしまった。

 治癒魔法らしきものを詠唱し、ガルドの回復をしている声を背景にして、とりあえず学園長に向き直る。


「……どうしよう? ぶっちゃけこんだけ殴れたら、こっちとしては大満足なんだけど……」

「貴方としてはそれでいいかもしれないけど……。そうね、私に決定権を譲ってくれれば処罰の内容は考えるけど?」


 俺が決めるよりも学園長の方が妥当な案を出してくれるだろう。

 そういうことなら是非もない。


「じゃあお願いしようかな?」

「任されたわ。貴方は……ミィナ先生に傷の手当でもしてもらいなさい」

「? これくらいなら別に……」

「あれだけ血を流しておいてなに言ってるのかしら?」


 呆れ顔で指をさされた方に目を向けると、殺人現場なのかと見紛うほどの血溜まりが広がっていた。

 うぅん、これはひどい。いったい誰がこんなことをした! ……俺だな。


「それにもうじきここに報道クラブの増援生徒が到着するだろうし、質問漬けにされるわ。さすがにケガ人にそんなことさせられないから今日のところは保健室で過ごしてもらえる? 結果報告はちゃんとするから」

「お手数おかけするようで……」

「まったくよ……」


 深いため息をつく学園長は魔法をかけ続けているミィナ先生に声をかける。


「ミィナ先生。ガルド先生のことは私に任せて、アカツキくんの治療をお願いします。彼もかなり重症ですから」

「そ、それもそうですね」


 本当にこれでいいのか、と首をひねりながら魔法をかけていたようで、困惑気味の視線をガルドへ向けている先生。

 やった本人が言うのもあれだが、明らかにそれは治らないと思う。

 精神面のケアが一番必要かと。

 詳しい事情を説明された先生は俺の方を見ると、ケガのない左手をとって歩き出した。

 といってもその歩みは早く、少し出遅れてしまう。


「おっ……と。そんなに急がなくても」

「いえ、見たところ傷が深いようですし、炎症でも起こったら大変です。傷痕が残る可能性もあるので……その頬の傷も」


 そういえば頬も切れてたんだよな、あまり痛みは感じなかったけど。


「それに気づいていないみたいですが、背中が血だらけになっているんですよ。破片も刺さってるので、早めに抜き取らないと」

「……ぇ?」


 そう言われて、俺は出来る限り首を回して背中を見る。

 元々赤い上着だったはずのそれはさらに濃く染まっていて、数は少ないものの少し大きめの破片が刺さっており、とても痛々しい。

 ガルドの攻撃を回避した時の違和感。

 その正体がようやく判明してよかったと思う反面、今までよく気づかなかったなと自分のバカさ加減に呆れてきた。


(ぐえぇ……。自覚し始めたらめっちゃ痛くなってきた……)


 こう、じっくりと熱を発する痛み? 動く度に異物の存在感がはっきりわかる痛み?

 思わずうめくほど痛みはあるのだが、右腕ほどではない。

 例えば、右腕が傷口に塩をかけて鉄の棒で叩かれるような痛みだとすれば、背中側は狭い範囲をナイフで何度も刺されているような痛みだ。

 稽古けいこの時、母さんに何度も打たれた技よりかはマシだが。


『なにぃ!?』

「ミィナ先生に手を引かれているだと……?」

「おのれ許すまじ」

「しかもミィナ先生のあの乙女な表情はなんだ⁉︎ 見たことないぞ!」

「俺だって触られたことないのに!」

「よし、後であの生徒に拷も……尋問しよう」

「「「「乗ったぁ!」」」」


 な、なんか後ろから生徒と教師の入り混じった恐ろしい相談が聞こえてくるんだが……、大丈夫だよな?

 夜道歩いてて後ろから刺されたりしないよな?


『ほほぅ……』

「男っ気の無いミィナ先生があんな態度で、しかも自分から触れるなんて……」

「仕事であんな積極的に対応してるのは見たことないわね」

「これはワンチャンある?」

「あるかもよ!」

「くっ……私のミィナ先生をよくも……! 許せませんあの泥棒猫!」

「「「えっ?」」」


 な、なんか一つだけ鋭すぎる視線が背中に突き刺さってくるんだが……、痛みが倍増してる気がする。


「うぅん……」

「痛みますか?」

「いや、身体的ではないんですけど……。やっぱなんでもないです」

「そう、ですか……。何か調子が悪かったら早めに言ってくださいね?」


 呻いてただけなのにここまで気にかけてくれるとは……、これだけ人気があるのも頷けるな。


「先生って、学園の皆に慕われてるんですね」

「……ありがたいことです。私にとっては」


 茶化しているわけでもなく呟いた言葉は、帽子で隠された耳に届いていたらしい。

 だけど翡翠の髪をついていくように歩いているから、その顔色を伺うことはできなかった。

 けれど肩を竦めているその様子は、確かに恥ずかしがっているように見える。


(あー……、疲れたなぁ)


 何気なく見上げた校舎の窓から、意図的に向けられた視線を感じた気がしたが、一階から三階までの一部分に大勢の生徒が身を乗り出してこちらを凝視している。

 その中から特定の人物の、しかも視線を見つけるというのは困難な話。

 結局気のせいか、と自己完結し、怨嗟と奇異の視線が飛び交う校舎に俺は連れて行かれた。




 衣擦きぬずれの音が、穏やかな喧騒を遠くに置いている保健室に響く。

 あらかじめ破片を抜いていたためさほど抵抗もなく脱ぐことができた上着を、座っているベッドの横に無造作に置いて見下ろす。

 お気に入りの上着はボロボロに成り果て、特に背中と右腕は穴が空いていたり、破けていたりと散々な状態になっている。

 編み込みがほどけていて、とてもじゃないがこのまま着続けるというのは無理な印象を感じた。


「……裁縫道具、借りれるかな?」

「どうかしましたか?」


 独り言が聞こえていたらしく、治療の準備をしている先生が声をかけてきた。

 後ろ目で確認すると、右手に塗り薬が入った容器と左手に包帯を持っていて、その脇の台には抜かれた破片を載せたトレイが置かれている。

 トレイや台には俺の血が付着しており、見ていて申し訳ない気持ちになってきた。

 あとで掃除しよう。


「なんでもないですよ」

「そうですか……では長袖も脱いでくれますか?」

「あ、はい」


 処置する時に邪魔になるから上着を脱ぐように言われていたのだが、この世界で唯一の私服が大変なことになっている様を見せつけられて、さっきまで高かったテンションが少し落ち込んでいる。


(楽に勝てるとは思っていなかったけど、こうなるとも思わなかった……)


 それに異世界生活一日目もそうだが、二日目の内容も濃すぎる。

 学園に入学して格上にケンカ売って、決闘して魔法のコツを掴んで勝利する……こんな調子で俺はこの先、生き残れるのだろうか。

 とりあえず言われた通り、肌着として着ていた長袖も脱ぐ。


「ッ……! こ、れは……」


 ん? 何だ、先生の反応が……あ、やべ。事故とかで付いた傷跡が身体中に残ってるから、それを見てるのか。

 記憶喪失って話になってるのにこんな傷負ってるとか、過去に何があったのか深読みさせてしまう。

 知らんぷり、知らんぷりしないと。


「どうかしました? もしかして、結構重症だったりします?」

「この傷痕……いえ、気にしないでください。…………やはり、傷が深いですね」


 熱を持った背中を冷たい指先で撫でられ、ぞわっとした寒気が走る。

 傷の部分は触れないようにしているみたいだが、どことなく恥ずかしい気持ちが込み上げてきた。

 しかも今いる場所が場所なだけにちょっとアレな思考が出てきて俺にとっては毒でしかないですから早く治癒魔法をかけていただきたいと思っているんですよその辺どうでしょう?


「個人的には右腕の方が深い気がしますけどね」

「それもそうですね……魔法をかけますよ」


 何もコメント無しですかそうですか。

 いや、別にいいんですけどね、得なので。

 先ほどガルドにかけていた魔法と同じ詠唱文を唱えると、大気中の魔素マナが震え、淡い緑色の粒子がただよい全身を包み込む。

 傷を負った背中は時間が巻き戻されているかのように治癒されていくのが感じ取れて、右腕も完全にではないがほとんど治っていく。

 頬の傷も綺麗さっぱり跡形もなく治癒され、痕が残るようにも見えなかった。

 すごいな、治癒魔法。

 傷がほぼ全快にまで回復するとは……しかもこれで医療費がかからないだと?

 素晴らしいな異世界。


「治癒魔法って便利ですね」

「それでも治りかけのようなものですから、激しい運動をすると傷が開きますよ」


 だからこういう薬が必要なんです、と言いながら、容器から取り出した薬をペタペタと塗り始めた。

 淡々と処置が続けられ、無言の時間が続き、


「……その、ごめんなさい」


 そんな時。薬を塗る手を止めず、先生の細々とした声が通る。

 それは唐突な謝罪だった。


「……はい?」

「その、私のせいで、こんな目に合わせてしまって……あの時はあんな風に言ってしまいましたけど、普通生徒を危険な目に合わせるなんて……」


 呆然として出た上ずった声にゆっくりと、先生は語りかけてくる。

 それは今にも泣き出しそうで、怯えるように震えていた。


「決闘中、何度も危ない場面があって、そのたびに私は……心が締めつけられる思いでした。あなたに大変な役目を押しつけて、私はただ見てるだけ。辛抱できず隣にいた学園長を責めて……」


 それは指先にも伝播し、やがて止まってしまった。


「私、ダメですね。何も知らず過去すら曖昧な貴方に、頼ってしまった。形は違えど……私はまた、昔と同じ過ちを──」


 ぽたり、ぽたり、と。

 涙が溢れる音が、言葉をかけようとした俺の脳内に木霊する。

 “昔と同じ過ち”。

 それは先生の、ミィナ・シルフィリアの過去に起こった出来事を言っているのだろう。

 彼女の身に何があったのかなんてわからない。

 けど、これは俺が勝手に起こした事態で、彼女が気に病むところなどなかったはずだ。

 なのに、彼女は俺が記憶喪失だと信じてなお、自分の愚かさを嘆き、肩を震わせている。


「……本当に、ごめんなさい」


 抑えられない嗚咽が混じった声と肩に預けられた額に、俺はどう返したらいいか分からなかった。

 嘘とわがままで固められ、固めてしまったこの世界のアカツキ・クロトは、彼女の自責に対する答えを見出せていない。

 無知でしかない俺に、どうしろと?

 こうしていても、彼女の涙が止まることはない。


(……嫌だな、こういうの)


 昔から……いや、から暗い雰囲気が苦手になって、だから無理矢理にでもバカのふりをして、有耶無耶にしたり、和やかな雰囲気に変えてきた。

 でも、誰かに任せて逃げるなんてことを、してきた覚えはない。

 そして今の俺に必要なのは彼女にどう対応するかを考える思考力だ。

 外見がイケメンでなければ、精神面でもイケメンではない俺に求められた壁は高い。

 こんな時、父さんならどうするだろう。

 何か優しい言葉でもかけるのだろうか。

 何か安心させる行動をとるのだろうか。


(……違う)


 そうじゃない。

 父さんのやり方を模倣してちゃダメなんだ。

 だってもうすでに、俺は彼女への答えを持っている。

 なら、ありのままに伝えるべきだ。


「先生」


 無言で泣き続ける彼女の頭に右手で触れて、帽子の上からではあるが、子供をあやすように撫でる。


「決闘の前にも言いましたけど、俺はあなたを泣かせたあの人を許せなかったからやっただけです。ケガしたのだって俺の不注意ですし。それにこうして治療してもらって迷惑かけてるんですから、謝るのは俺の方ですよ」

「ですが!」

「それでも自分を許せないと思うのなら、存分に俺を頼ってください。記憶が無い俺を助けると思って」

「……え?」


 何度目かの本心から出た言葉に、初めて嘘を交えた。

 彼女は折れにくい心を持っている。短い間ながらもそれだけはわかった。

 だったら、俺はその心をほぐしてやればいい。

 この世界での在り方を享受したアカツキ・クロトとしての初めての本心を。

 今、彼女に伝えよう。


「決闘の最中、俺は何かを掴めた気がするんです。魔法もそうですけど、あの時の三つの技。あれは記憶があった頃の俺が師事していた武術だったかもしれない」


 話をどう繋げるべきかなんて関係ない。

 無茶苦茶な話だろうと、伝えるんだ。


「無意識に出た技とはいえ、それは記憶喪失の俺にとって大切な手がかりなんです。思い出したきっかけはわかりませんけど……」


 彼女を裏切る真実だとしても、俺はこの真実を貫く。


「もしかしたら、誰かに頼られる事で記憶を取り戻すのかもしれません。確証は無いけど、そう思えるんです」


 もし嘘だとバレて、罵倒されようが嫌われようが構わない。

 悪いのは俺だ。甘んじて受けるさ。

 抵抗もしないし、言い訳もしない。

 だから、今は望んだっていいはずだ。

 俺が欲しいのは──


「だから、頼ってください。どんな時でも、どんな事があっても」


 ──彼女の涙ではなく、笑顔なのだから。


「俺は、必ずあなたの助けになる。約束します」

「……ふふっ」


 柔らかな微笑が右手を揺らす。


「優しいんですね、アカツキさんは……」

「そうですかね?」

「ええ、とても。……ありがとうございます」

「どういたしましてです」


 預けられた額が離れる。控えめな感謝の言葉に、俺は普段通りの声音で返す。どうやら先生はいつもの調子に戻ったらしい。

 再開された処置はとどこおりなく進み──右腕は悶絶するほど痛かったが──最後に胴と腕に包帯を巻いて、頬には剥がれないように湿布を貼られて終了した。


「これで明日には完治しているでしょう。……先ほども言いましたけど、あまり激しい運動はしないでくださいよ?」

「しませんよ」


 苦笑を浮かべ、残念な姿に変わり果てた上着と長袖の代わりに用意された白い患者衣を着用する。


「邪魔するわよ」


 そういえばこの服どうします? と言って上着の裂けた部分を拡げようとする先生を慌てて止めていたら、学園長がノックもせず普通に入ってきた。

 この人、こんな態度だけど本当にニルヴァーナの最高権力者なんだよな……。

 そんなお偉い様は気品も威厳もなくずかずかと入ってくる。

 その右手には大きな革袋が握られていて、それは今にもはち切れんばかりに膨らんでいた。

 いや、別に何を持ってるかはどうだっていい、それよりも言いたいことがある。


「「ノックぐらいしてください」」

「……それもそうね。もし中であんな事やこんな事が起きていたとしたら反応に困っちゃうし」

「そっ、そんなこと起こるわけないじゃないですか!」


 ビリッ!


「ちょ、俺の服がぁぁああああああ!?」

「へっ? ……あっ!」

「あらら、大変なことになったわね」

「ちくしょう他人事ひとごとみたいに言いおってぁあああああ痛いぃぃぃ!?」


 学園長が保健室に乱入することで、ほんわかとしていた空間が一瞬で阿鼻叫喚の渦に呑み込まれた。

 先生の両手に握られた上着は中々にいい音を立てて天に召されかけてしまい、意地悪な笑顔を向けてくる学園長の言葉にのせられ、大げさに動かした体に電撃のような痛みが走り、そのまま後ろに仰け反って転がってしまう。

 もちろん背中からで、治りかけの傷に不覚にも追い打ちをかける形となった。

 先生はそれを察知していたのか、その場から離れて心配そうな目で俺を見下ろしている。

 すいません先生、もう少しこっちに近寄ってもらえませんか?

 ここすごくベストポジションなんですよ。

 あ、あと前屈まえかがみになってくれると俺が幸せな気持ちになります。


「ほほほっ、愉快愉快」

「あ、あんた学園長だろ。学園でも国でもトップの人なら、もう少しこう……」

「私の辞書に自重の二文字はないわ」

「最低だよっ!」


 すっかり流してたけど結構黒いぞ、この学園長。


「まあ、それくらいはしゃげるならケガの心配はしなくてもよさそうね」

「現在進行形で痛みに悶えてるんだが?」

「慣れたらいいんじゃない?」

「ははっ、ぬかしおる」


 ベッドから転げ落ちた俺の訴えは学園長の心に響かなかったようだ。

 先生から伸ばされた手を借りて備え付けの椅子に座った俺は、先ほどの素敵な光景を脳内に焼きつけながら学園長を半目で睨みつける。


「そんな怖い目で見つめないで。早速報告しに来てあげたんだから」


 そんな視線に大きなため息をついた紅火の瞳は、いまだ恨みがましく目を向けていた俺の向かいの椅子に座り、自らのデバイスを操作する。


「さて、と……アカツキくんの要望通りならこんな感じかな〜って思ったんだけど、これでよかったかしら?」


 割と身近なプッシュ音が響き、目の前に淡い発光を放つ仮想書類が浮かび上がった。

 外の光景を見て確信を持ったのだが、意外にも異世界は文明が発達しているようで、近代的な建築物や電子機器のような道具が開発されているらしい。

 このように表示枠という空間ウィンドウを展開するなど、かなりハイテクだと見受けられる。

 あの世界とほとんど変わらない生活様式だと思えたが、それを差し引いても新鮮なことに変わりはないため、あまり気にしてはいない。

 近未来的異世界ファンタジー……アリだと思いますぜ。

 一人で勝手にテンションを上げつつ、実体の無い空虚な書類に目線を落とす。

 そこには俺の報酬内容とガルドの処罰が書かれており、文字数は決して多くはなかった。


「……?」


 が、概要の一番下に表示されている桁の多い数字が少し気になった。

 なんだこれ?


「ガルド先生には一ヶ月半の停職処分並びに学園への立ち入り禁止を言い渡したわ。聞いた瞬間絶望したような顔をしてたけど、ほとんど自業自得よね。他にも何かあったら付け加えるわよ?」


 数字に気を取られていた俺に学園長が口頭で内容を説明してくれた。

 むぅ、停職と立ち入り禁止か。

 別にそれくらいでもいいかな、さすがに退職はかわいそうだから。


「いいと思いますよ。他に何も考えつかないんで」

「わかったわ。……これであの固い頭も柔軟になればいいんだけどねぇ」


 無理だろうな。


「それであなたには……どんな報酬を与えたらいいか迷ったんだけど、本来Eから始まる冒険者ランクをDに昇格させることにしたわ」

「それのメリットは?」

依頼いらい斡旋所あっせんじょ──冒険者ギルドで適正ランクに合う依頼を多く回してくれるようになるわ。これに関してはギルドとか学園の掲示板に書かれてるから、直接見てみるといいわよ」


 学園長はデバイスを操作し、あたらしいウィンドウを表示させる。

 それは先ほど話した、適正ランクについての資料だった。

 冒険者ランクは上からS、A、B、C、D、Eの六段階で評価されている。

 これは当人の能力や実績をギルドや学園が正しく認識し、評議した上で昇格申請の許可が与えられる制度だ。

 このランクが表す冒険者の目安を簡潔に言えば、上に行けば行くほど称号を持つチート級の冒険者がいて、下に行けば行くほど無名をくつがえそうとする冒険者がロマンと富と名誉を求めてダンジョンに挑んでいる。

 俺が昇格したDランクは、冒険者の中でもそれなりに依頼を達成した者や実績を上げた者など、比較的なりやすいポジションだとか。

 今回は称号持ち冒険者のガルドを、無名のEランクである俺が倒したことで実力が認められ、昇格されたということだろう。

 これで少なくとも、冒険者の膝下くらいには立てたはずだ。


「後はこれ、特別賞金ね」

「賞金?」

「正式な決闘ですから、そういうのもあるんですよ。ほとんどは治療費とか装備のメンテナンスに使われますが……あっ、今回の治療費に関しては気にしないでください。あまりたいしたことはしてませんから」


 革袋を掲げる学園長の言葉に先生が補足説明を加える。

 本来の決闘では、勝者は確定ルールとして制定されている『敗者側のペナルティ決定権利』を得ることができるが、学園公認で行われる正式決闘の場合、それに足されてこういった金銭や品物などを報酬として手渡される。

 つまり、今回の報酬はお金であり、余計な支出が無い俺には金額の値そのままがふところに入ってくるというわけだ。

 そして表示枠の一番下の数字は、その金額明細ということになる。

 なるほど、こういう感じなのか。

 しかし、しかしですよ?


「これを見る限りだと、相当な金額が支払われてるとっていうのは分かるんだけど……あの、桁が三つ四つくらい飛び越えてません?」


 市民というかただの学生が持つには多すぎるような気がするんですけど。


「危険手当とか私の個人資金で増やした結果こうなっただけだから気にしないでいいわ」

「個人資金って……」


 革袋を揺らす学園長は笑顔でそう言ったが……それ、いわゆるポケットマネーってやつ?

 国の最高権力者からお年玉もらうような感覚とか、裏がありそうで怖いな。


「むしろB〜Aランクの冒険者ならこれくらいは普通に稼ぐから、今のうちから慣れといたほうがいいわよ。さすがに生徒でこれくらい稼ぐ人は数えるくらいしかいないけど」


 でも数えるくらいはいるということだよね?

 もしかしなくても、冒険者って実はかなり儲かる職業なのでは?

 いや、命の対価と考えれば当然の値だと思うが。


「簡単にいってしまえばこれは入学祝いよ。だからありがたく受け取っておきなさい」

「そりゃまあ、いただきますけどね……」

「うんうん、そうしておきなさい」


 多少の不信感を抱きつつ、じゃらじゃらと心地よい音を鳴らす大きな革袋を受け取る。

 ズシリとした重みを感じる革袋の中身を見てみると、開けた隙間から入り込む日の光を浴びた金と銀の混色が目に余るほどのまばゆい光沢こうたくを放っていた。

 それは生活の重みであり、労働の対価であり、なおかつ無一文だった俺の心に涼風をもたらしてくれる存在。

 その重みはとても頼もしく、絶対肌身離さず持っておこうと思えた。


「何はともあれ、事後報告は終わりよ。お疲れ様」

「疲れたなんてもんじゃないんですけど……」

「あははっ、それもそうね」


 改めて自分の意思の弱さというものを感じた俺は、ねぎらいの言葉に力無く答える。

 もともと多くはない魔力をほとんど消費するほどの激戦。

 いくら対人慣れしているとはいえ、初めて魔法を使ったという体験から得た疲労などはある。

 魔力の練り方や魔素の流れを感知する事は簡単だと二人は言っていたが、実際自分でやってみると、精神的に相当疲れた。

 それでもまだ動けるほど体力は残っているのだから、日頃から行っていた鍛錬たんれんの影響はあったらしい。

 父さん、トレーニングの内容を考えてくれてありがとう。

 でも坂道十キロダッシュと各筋トレ百回、高速のコルク弾が変則的に飛び交う部屋で三十分間避け続けるトレーニングを二セットはさすがに死ねます。

 腕立て伏せが一番つらかった。

 ……そもそも入院退院を繰り返してるせいで、トレーニングをしても動体視力以外はリセットされてるから意味が無くなってたような……。


(そもそも、俺があそこまで戦えたことは奇跡に近かった)


 あんな強キャラにひ弱な俺が勝てたのは、昔から十分身体を鍛えていたから、というわけではない。

 はっきり言って、あの筋肉だるまには素の状態ですら勝つことはできなかっただろう。

 身体強化の恩恵があったからこそ成り立った戦いだ。

 武器の耐久性を考慮して使わなかった練武術を最後の最後で連携させたのも、相手の慢心に隠れた不意をつくため。

 血を操る魔法で武器が作れたからこそ出来た芸当だ。

 考えたところ、結局、一番の勝因は“魔法が使えたから”というのが大きい。

 さすがにあの振り下ろしは死を覚悟したが、咄嗟の回避術が役に立った。

 母さん、稽古つけてくれてありがとう。

 でも一方的に痛めつけられた記憶しかないからちょっと思い出したくないです。

 完全に感じ取れない死角から蹴りを繰り出したり、空気を殴って飛ばしたものを銃弾と言い張るのは無理があると思うよ。


「……大丈夫? なんだか死んだ魚みたいな目つきになってるわよ?」

「ヤダナァ、シンパイアリマセンヨ」

「か、片言になってますよ」


 怪我ばっかで入院してるから、特訓してるのに筋肉つかないんだよな。

 身体的部分の成長なんてリハビリで酷使した脚と眼だけ。

 他は年齢的に見れば平均的。

 あれ、結構死に物狂いで頑張ってたんだけどな……。

 おかげで空間把握能力はかなり成長して、どれだけ小さな殺気だろうと感じられるようになったけど。


「──そんなに疲れてるなら、私に癒される?」

「なっ……!?」

「寝言は寝てから言ったほうがいいよ」

「つれないわねぇ」

「……ほっ」


 疲れと暖かな陽気にうとうとしていると、突然学園長がいらないカミングアウトをかましてきた。

 首もとのボタン外しながら何を色っぽく言ってくれてるんだこの人。

 あ、でもちょっと見えそう。

 もうちょい、もうちょい下を!

 ほらほら、行けるところまで行こうよ!


「今の私じゃ、まだ魅力が足りないかしらねぇ──そうだ。シルフィ、さっき魔法学担当の先生が頼みたい事があるって言ってたわよ」

「……リーク先生が?」


 ボタンを付け直し、ぽん、と手を叩いた学園長は、会話の内容を九十度反転させて、先生に用件を伝える。

 なんでも属性の異なる魔法同士の合成実験を行いたいようで、それには莫大な量の魔力が必要だから先生にしか頼めないらしい。


(ふむ……?)


 少々、会話の中で気になった部分を調べるために、先ほどの眼福光景を脳内に保存しながらデバイスを取り出す。

 スマホを使ったことがない俺でも分かりやすくて助かるな。情報検索機能を用いて、スライド式のキーボードで単語を打ち込む。


(えっと……“ニルヴァーナ”、“女性教師”、“天使”、っと)


 二人の会話が交わされる中、検索結果に引っ掛かった概要を展開する。

 それは非公式でまとめ上げたと思われる学園に所属する教師陣のプロフィールページだ。

 顔写真と名前、そして各々の紹介文が書かれている。

 一番上には学園長の情報が掲載されていて、その下に表示された関連人物という欄を開く。

 数名のプロフィールが載せられている中で、明らかに盗撮だろうと考えられるアングルの写真が貼られた先生の紹介文を見る。


『ミィナ・シルフィリア』

 人間とは思えないほどの美しさを漂わせる外見に抜群のプロモーションを兼ね備えた、美女揃いの学園の中でもダントツトップに躍り出る美人教師。

 並外れた知識と治療技術の高さから保険医としてもだが歴史、魔法、錬金術などの様々な教科について講師をしている。

 彼女の親しい間柄の相手として、インタビューした学生のほとんどが学園長の名前を挙げるが、それ以外の教師──特に男性教師などの交友関係は判明しておらず謎のままだ。


(ほほぅ……)


 美女揃いという単語に気を取られながら、長々と書かれた文を読み進めていく。


 そして彼女が内に秘める莫大な魔力量は、測定器が振り切れてしまうほど計り知れないものだ。

 それはただでさえ並外れた魔力量を保有するSランクを超え、さらに希少なSSランクでさえも目を見張る特例のランクと制定されており、さらに彼女は特殊を除く七つの属性に適性を持つ。

 まさに歴史に名を残す才能を保持し、どんな魔法でも自在に操る姿から【七魔司りし賢者セブン・セイジ】という称号を与えられている。


 ピタリ、と。

 動かしていた指が止まる。

 その指は震えながら明記された文をなぞり、見開いた目に示した。


(SSSランク……? なんだそりゃ!? 俺の魔力量の何倍、いや何千倍だよ。やっぱすげぇんだな、先生って)


 それに。


(七魔司りし賢者セブン・セイジ……心の奥底の傷に塩を塗られてる感覚はあるが、これは、とても……っ!)


 かっこいいじゃないか……ッ!

 なんだかこう、右手が疼くような、左目が蠢いているような、そんな何かが感じ取れるくらい素晴らしい称号だ!

 これを考えた人は天才だな。そうに違いない。

 しかもそんな称号を付けられる先生……尊敬するなぁ。

 後ろでややうんざりした様子で額に手を当て、観念したように短くため息をこぼす先生に、キラキラした視線を送る。


「──はぁ……。また、ですか」

「ええ。研究室で待ってるから来てほしいそうよ」


 どうやら会話は終わり間近なようで、先生は視線を送る俺を見て首を傾げながらも、悩んだ様子を見せる。

 やがて躊躇ためらいを払うように帽子を揺すると、未だ手にしていた上着を丁寧にたたみ、机の上に置いて少し重い足取りで扉に歩いていく。


「わかりました、早速向かいます。ですがアカツキさんのことは……」

「私に任せなさい。気まぐれで出歩かせたりなんかさせないわ」

「俺は犬か猫なの?」

「それに準ずるものね」


 俺に対する印象の九割が決定された瞬間が目の前にあった。

 ……複雑な気分だ。

 不安そうな顔で振り返った先生に手を振り、先ほどまで賑やかさが保たれていた保健室に静寂が訪れる。


「──先生がいなくなった今だから聞くが……なんであの決闘を?」


 数秒間の無音を断ち切ったのは、不意打ち気味に放たれた俺からの質問。

 完全に油断していたのか、その言葉を聞いた学園長は驚いた様子で目を見開く。

 しかしそれも一瞬で、今度は子供のようにいたずらっぽく舌を出す。


「あら、やっぱりバレてた?」

「朝っぱらから手回ししてきたくせに、気づかないわけないだろ」


 楽しそうに喉を鳴らす学園長に、少しばかり呆れを込めて言葉を返す。


「あの書類には校則や必要事項が書いてあった。この学園の大切な事だからそれは納得できる。特に俺は特殊な例だからな」


 特待生という前例のない身分。

 学園側としても初めてのこころみで、書類だけであの厚みになるのも仕方ないだろう。

 しかし。


「あれの内容、半分以上が決闘に関しての注意事項だったろ。規則に対しての欠点から裏技まで。ありとあらゆる場面に対応できる模範例まで書いてあった」


 まるでこのあと必要になる情報だから覚えておけ、と言わんばかりに明記されていたのだ。

 書類の隅から隅まで、びっしりと。

 生徒同士の決闘について詳細に書かれているのであれば、もしその機会があった時に覚えておいて困ることではないのでそれでいい。

 だが教師と決闘をする上での注意事項など、今の俺には必要ないはずだ。

 明らかに自分より力量も技量も上の存在に手合わせを願うなど、よほどの自信家か戦闘狂でなければしようとも思わないだろう。

 まして、俺はここ学園の教師陣についてなど何も知らない人間なのだから。


「計算してたんだろ? ガルドの性格を考慮しあの場に現れるまで時間を稼ぎ、現れたところに因縁のある先生と対話させて、その間に俺の敵愾心を煽るために情報を開示し、ガルドに対する印象を最悪のどん底まで突き落とした。そうすれば、俺は必ず決闘を申し込むだろうと考えたんだ」


 前々から関わってきた時間が長い先生とガルドはともかく、たった一日しか面識がない俺の思考や行動まで予測していたというのだから恐ろしい話だ。

 だが、あれは博打すぎるやり方だった。


(それこそ俺が戦える人間であることをあらかじめ知っていなければ、あんな無茶は出来なかったはずだ。見た人の実力を看破できるスキルでも持っているのか、それともただの勘かはわからないが……)


 頬杖ほおづえをつきながらも長々と話し続けた内容を聞き、学園長は小さく肩を竦める。


「あの時の動作がすべて演技だとでも?」

「演技ではないんじゃないか? 俺はそう思うけど」


 ガルドの教育方針に反感が強まっていたのは事実だろう。

 俺だってあんなのが先生だったら不登校、もしくは暴力沙汰を起こしていたかもしれない。

 もしあれをあのまま手をつけず手放していれば、間違いなく今以上に学園へ不利益をもたらしていたであろう未来が想像できる。

 それを阻止するべく利用されたのが俺だった、という話だ。


「……そこまで推理したのはたいしたものだわ。どれほどの実力を持っていたのかを判断するにも、教師との決闘で試験的に確認できればばいいと思ってたのは事実だもの。でも、それを聞かされて私はどうすればいいのかしら? あなたに謝罪でもすればいいの?」


 腕を組み俺の意見を楽しそうに聞き入っていた学園長は、まるで試しているような視線で見つめてくる。

 俺はその視線を正面から受け止め、


「……? いや、別に謝ってほしいとかそういうのじゃないんだが、むしろなぜ謝ろうとするのか……」


 少し反応に困ったので、ごく普通に流した。


「──ぅん? じゃあ、なんで急にそんなことを言い出したの?」


 学園長はどこか拍子抜けした様子で聞き返す。


「え? だってこういうのってなんかこう、かっこよくない? 密談みたいな感じで」

「……まさかとは思うけど、単純にこの会話を楽しんでただけなの?」


 おや、おかしなことを聞く人だ。


「むしろ美人との会話とか、楽しまないと逆に損では?」

「…………」


 学園長はそれだけ聞くと、見たこともないほど疲れた表情で深くうなだれた。


「……なんかもう、いいわ。私も疲れた」

「奇遇だな、俺もすっごい疲れてる」


 碌に使っていない脳を会話に、しかもフル回転させるのはつらかった。

 険悪そうな空気にしてしまったのは悪かったと思うが、ずっとあんな雰囲気を出し続けていればどちらも息がつまる。

 楽しめたらそれでいいのだ。


「まったく……あまりにも気合が入ってたから少し驚いたわよ」

「だってその方がそれっぽいでしょ? 俺はネタのためなら全力全開で動くだけさ」

「芸人気質が高いわね」

「いやぁ、照れるね」

「褒めてないわよ」


 開け放たれた木窓から入り込む暖かな微風に耳を澄まし、安堵するように目をつむる。

 やはり根暗で陰鬱な展開よりも、和やかで笑顔溢れる展開の方が何倍もいい。

 でも、何か質問しようと思ってたんだよな……なんだったかな?

 ……忘れちゃったぜ。


「はぁ……すっかり毒気が抜かれちゃったわ」

「いいことじゃないか。根詰めすぎても体を壊すだけだろうし、こういう笑い話もいいものでしょ?」


 それに。


「学園長はしかめっ面でいるよりも、そうやって笑ってる方が似合ってますよ」

「……本当に、よくそんな台詞がぽんぽんと出てくるわね」

「だって本当のことだから」


 頬赤らめてる様子が妙に噛み合っていて非常に可愛いなこの人。


「昨日もそうだったけど、この程度の言葉で恥ずかしがるってかなり初心うぶだよなぁああああすみません調子に乗りましただからほっぺを握ろうとしないでくださいお願いします!」

「いいからぷにられなさいっ。私のエネルギーチャージもといおちょくった恨みよ!」

「それただぷにりたいだけでしょ!?」


 勢いに任せていろいろ言おうとしたら急に学園長が目を光らせて、次の瞬間には凄まじい速さで背中側に回りこみ頬を握ろうとしてきた。

 体を捻って避けようにもかなり素早く、なおかつ抱き締めるように体を被せてくるから動くこともできずされるがままにぷにられる。


「うにょぉおお……」

「むふふふ」


 ああ、背中に柔らかい桃源郷が押しつけられている。

 確かな質感を持った極楽が。

 そうか、ここが天国か……!


 もう会うことはない画面の向こう側で存在していたフレンド達よ。

 彼女が欲しいからと俺に恋愛相談を持ち込んできたフレンドイケメン達よ。

 そして彼女持ちになったためゲーム引退を決意したフレンドリア充達よ。


 今まさに、俺はこの幸せを噛み締めているっ……!

 お前らの気持ちが少し──ほんの少しだけだが、分かってきた気がする。


 ありがとう、ぼっち道を歩んでいた俺に声をかけてくれた歴戦の猛者たち。

 ありがとう、俺に彼女が出来ない理由を徹夜で必死に考えてくれた戦友たち。

 ──ありがとう。


 でも彼女について何十分も惚気のろけるのはやめろ。

 その行動は非彼女持ちの目の前でやると悲劇とわら人形しか生まない。

 事実、俺の席の上下左右でインペリアルクロス陣形をとっていた同級生たちは、いつも釘とトンカチと自作わら人形を持っていたんだ。

 授業中もずっとお経を唱えるように何かブツブツ言ってる様子は、真ん中にいた俺に精神的なダメージを与えるには十分過ぎた。

 あの時ほど胃薬の世話になった覚えはない。

 そんな彼らが嫉妬するようなこの状況。

 このままずっと味わっていたいと思わないでもないが、いささか刺激が強すぎる。

 それにこれ以上この感触を堪能すれば、胃薬で補強されてきた俺の精神が耐えられそうになかった。

 誠に、非常に、とても名残惜しいが、無理やりにでもこの束縛から脱出したほうがいいだろう。

 いじられ続けている自分の体を起こし、背中で感じる衝撃を押しのけようとして。


「……ほんと、変わらないんだから」

「にょ……?」


 存分に頬をぷにっていて、どんな状況下でも余裕そうで、けれどちょっとアレな学園長からは想像できないほど、か弱く、まるで懐かしむような想いが込められた声がこぼれ落ちた。

 切実で、触れれば散ってしまいそうなのに、それでいて身近で、確かな信頼が込められた言葉。

 様々な感情が入り混じったつぶやきは、著しく俺の思考を停止させた。


「学園長……?」

「……」


 呼びかけたと同時に、頬に添えられていた冷たい両手が音も無く離れる。

 支えていた重さが消失した途端、白雪のような手が首の横を通り、胸の前で腕が緩く回された。

 驚いて立ち上がろうとしても背中にその肢体を押しつけるように体勢をとってくる。

 女性特有の甘い香りと感触が直接脳を刺激してきて、思ったように身動きができない。


「えっ、あの、が、学園長?」

「……」


 間の抜けた声で再度呼びかけるも応答は無い。

 代わりに熱い吐息が首筋を撫で、甘美なささやきを奏でている。

 さすがにこのままではまずいと感じて回された腕に手を掛けようとするが、その手さえも掴まれ、さらに自由が利かなくなった。

 それは説明がつかない強い執着心が操っているように思えて、理解しがたい不気味さを滲ませている。

 しかしその様子とは裏腹に、肩に乗せられた学園長の顔は柔らかく、遠くを見つめている紅火は僅かにうるんでいた。

 どこかうわの空な表情だというのに、何かが秘められていると直感的に感じるほど真剣で、綺麗で、誰にも負けない素直な想いが、胸中に収められた体に浸透してくる。


(ど、どどどどうすればいいんだ? 無理矢理にでも振り払えばいいのか? ……そんなことを女性にするとか正気の沙汰じゃないだろ!)


 あたふたと急ピッチで取り替えた思考回路がまたもや煙を噴き出す。

 『どれだけ難しい状況でも相手が女性だったら優しくする精神』を両親バカップルから学ばされたからには、ネタ以外で相手を傷つけるような行動・言動を簡単にとろうとは思わないが、今はどんなフォローをすべきかがまったく浮かばない。

 あれだな、きっと背中に押し付けられたおっぱ……胸のせいなんだろう。

 そうまでして強引に納得させないと俺の気が済まない。

 だけどね、しょうがないじゃないか、柔らかいんだもの。

 そう、女性の揺れるものや露出部分に目や感覚が奪われてしまうのは仕方のないことだ。

 なぜならば。

 俺が、男だからだ。

 だから女性に向ける視線を顔と胸の二つに分けて、わざと顔の方に視線を強くして直視しないように胸をガン見するという配慮は当然の所業。

 父さん直伝の技だ。

 使えるには使えるが、ぶっちゃけバレたりでもしたら普通に通報されるレベルの不必要変態技術だと思うし、こんな事を思いついた紳士に見えて実は隠れた獣な父さんは最低野郎だと思う。

 ……俺もそれに染まっちゃってるから、あまり強く言えないけどさ。

 けれど、それは今のように抱かれている感覚でも、あの変態技術と同じことが言える。

 だが頭ではそうだと理解していても、添えられた細い手が心臓を鷲掴みにしているように感じて、痛いほど熱くうずいていた。

 やはり胸には勝てない。

 というか学園長、結構胸あるね?

 着やせするタイプなのか。


(ぐっ、ぐぬぬ……)


 今にも卒倒しそうなほど密着された肉体の感触に酔いしれそうになるが、なんとかもろい自制心を保つことに成功「んっ……」──しそうにないので頼むから身動きするなのしかかるな顔を近づけないでください俺の精神はもうボドボドです。

 いかん。この状態が続いたら、俺か学園長が確実に変態認定されてしまう。

 学園長はまだいいとして、問題は俺だ。

 ただでさえ常時半壊しかけメンタル所持者の俺に、とどめを刺すことだけは避けねばならない。

 豆腐よりも柔らかく、生卵よりも脆く、造形すら危うい俺の精神が世間の目によって粉々になるだろう。

 しかも、しかもだ。

 すでに俺は教師急所蹴り事件を発生させている。

 起こした問題行動を踏まえた上でこれを発見されれば、俺の印象が変態へと高速落下してしまうかもしれない。

 そんな未来が三途の向こう側で手を招いているはずだ。

 かなり深刻な状況が未来で待っているとすれば、さすがに容認できない。


(心頭滅却、色即是空、煩悩退散、心頭滅却、色即是空、煩悩退散……!)


 緊急対処法として火照ほてる体をクールダウンさせようと試みる。

 間違いではないがどこか間違っているような気持ちの落ち着かせ方だが、体が冷えていく感覚があるので効果はあったらしい。

 よし、だいぶ落ち着いてきた。


「え、えーっと、学園長? そろそろ俺の腰がきついんだが……」

「私、重いかしら?」

「いや、軽い方だと思うけど……ってかいいから早く離れ──」

「フレン」

「……へっ?」

「名前で呼んでって、昨日言ったでしょ?」


 まあ……確かに言ってたな、うん。


「そんなに名前で呼ぶことに抵抗があるかしら?」

「い、いや、特に無いけど」


 一応、年上だろうから気安く名前呼びってのはちょっと……踏むべき段階を何段か飛ばしてる気がしてならない。

 そんなに気負うなら役職名で呼んだ方がわかりやすいし、俺としても話しやすくなるのだが、それで納得するような人ではないだろう。

 とはいえフレンドリーに接していい立場の人かどうかで聞かれたら、頭を捻るのも仕方のないことだ。

 ……基本、誰に対してもタメ口と敬語の狭間にいるけどさ。


「だったら別に良いじゃない。ずっと他人行儀なのは壁があるみたいで嫌だし、こうやって二人きりの時くらいは……、あっ、シルフィの前でも名前呼びで構わないわ」


 さんもつけなくていいわよ? などと先ほどとは打って変わって冗談か本気か分からない瞳を細め、にやりと口角を上げる表情に、なんともいえない徒労感に襲われる。

 話していてこんなにもやりづらいと感じたのは久しぶりだった。

 語彙ごいが少ない脳内辞書から抽出した言葉で程良く取りつくろっていたのに、すべて水の泡になった気分だ。

 今まで悩んでいた自分が馬鹿らしく思えて──周りから見れば観念したとも見える姿で──俺は覗き込む顔に答えた。


「──わかった、わかったよフレン。……これでいいんだろ?」

「……ふふん、分かればいいのよ〜。じゃあ私もこれからは統一して、クロトくんって呼ばせてもらうから」

「……はぃ?」

「はい、って返事したわね? 言質取ったわよ〜」


 無駄に着飾ることのないありのままの微笑みを返さされ、あまりそういったことに免疫が無い俺にはストレートすぎて、少し顔が熱くなる。

 どんな意地悪な性格だろうと、フレンの容姿は間違いなく美女の領域に入ってると思う。

 そんな美女が全身を使って俺を抱き締めているのに、加えてあんなものを真横で見せられたらさすがに心がぐらりと揺れた。

 くっ、最後の砦が崩落してしまう……自制心と理性の砦が……。


「……早く離れろよ」

「むっふふ〜、嫌だと言ったら?」


 ハハッ、ナイスジョーク。

 というかマジで離れねぇのかよ頬を擦り付けるな可愛い声出しても騙されねぇからな。

 ……すいません、こういうのもアリだなと思ってました。


(くっ、くそ……これ以上は俺の理性がもたない。早急に手を打たねば)


 この可愛い小悪魔的存在を引き剥がす手段を、今この場で切る!


「そうだな、その場合──扉の隙間から中の様子を確認してる先生に怒られるんじゃないかな?」

「……え?」


 フレンは急に間抜けな顔になって、扉へ目を向ける。


「……」

「ひぃ!?」


 そこには優しさと癒しを振りまく保険医の片目が、静かに保健室の中を覗いていた。

 フレンはそれを見ると、引き攣った声を上げてズザッと後ろに下がる。

 もちろん、抱かれている俺の体も後ろに持ってかれた。

 絡めていた腕を首まで持っていき、そのまま極めるとは……ふっ、いいプロレス技だ。無駄に洗練されている。

 問題は、そのせいで俺の息が詰まっているということだけだ。

 ゆっくりと扉が開け放たれていき、すっかり硬直してしまっているフレンに隠れていた笑顔が向けられる。

 ニィ……とでも聞こえてきそうなほどの満面の笑みなのに、目が笑っていない。

 しかも背後にオーラのようなものを纏っているように見えた。

 やばい、母さんと同じ気配がする。


「シ、シルフィ、ななななんで!? 研究室に行ったはずじゃ……!」

「いえ、ついさっき終わったんですよ」


 ついさっきというか、抱きつかれた時からすでに先生は保健室を覗いていたよね。

 でも何故か目と目が合った瞬間、異様に鋭い目つきに変わって……。

 何か言おうか言うまいか迷ったけど、事の流れに逆らえなくて言い出せなかった。

 すごかったなぁ、あの視線。

 凍りついたからね、俺が。


「そそ、そうなの? それで結果は!?」

「無事成功しましたよ。新しい魔法も完成させましたし、あれだけサンプルがあれば当分研究に困る事は無いでしょう」

「へ、へぇ……お、お疲れ様」

「はい、ありがとうございます」


 おっかしいなぁ、先生の目がどんどん黒くなっていくよぉ。

 言い方が刺々しいし理由は分からないけど、なんか怒ってるのかな?


「いえ、そんなことはどうでもいいんです。二人とも……何してたんです? 特に学園長」

「え、えぇっと、それは……ね?」


 おっ、矛先がフレンに向かったぞ?

 よし、勢いに身を任せて先生を沈静化してくれ!


「う、動かないようにこうして押さえつけてるのよ! クロトくんってケガしててもかなりアグレッシブでしょ? こうしておかないと今にも保健室を飛び出そうとしてたから、仕方なく……ね?」


 うぉい、飛び出そうなんて思ってないぞ。

 探検しようとは思ってたがな。


「だとしてももう少しやり方があるでしょう? それ、ケガ人に負担を掛けるような体勢じゃないですか。前に言ったでしょう、病み上がりの人に身体的負荷を掛けないようにしてくださいって」

「うぐっ、だ、だって……」


 保険医として、常識人としての意見だけでフレンを詰まらせるとは……先生恐るべし。

 言葉の魔術師だな。


「だって──クロトくんがこうして欲しいって言ったから」

「はっ!?」

「アカツキさん……?」


 ちょ、なぜ俺まで巻き込む!?

 もしかしなくても俺まで説教対象に選ばれるだろ!

 ああっ、先生の目にハイライトが無くなった!

 おちょちょ、どうにかしないと……。


「学園長の話は、本当ですか?」

「ちょ、ちょっと待つんだ先生。俺は無実です、誓って嘘じゃない」


 別に背中にくっついた胸の感触に全神経を研ぎ澄ませていたりとか、ちょっとこういうのもアリだなとか思ったりもしたけど、よこしまな気持ちはひとつも入ってない!


「今の話は全部フレンのでっちあげたホラ話で、一切真実ではないのですよ! 本当はフレンが理由もなく急に抱きついてきたんです!」

「ははあ……」

「くっ……ちょっと、クロトくん!」

「なんだね? 俺は嘘をついてまで説教から逃れようとする人を擁護する気はないぞ」


 小声で頭の上から声をかけてくるフレンに、体を傾けながら耳を貸す。

 その位置は、ちょうど後頭部に胸が当たる角度だ。

 最高です。


「お願い、後生だからシルフィの機嫌を直して! このあと絶対徹夜説教を受けちゃうから! 仕事残業になっちゃうから!」

「いやだよ、なんで怒ってるのか俺も分からないのに出来るかっての。というか全体的にフレンの行いが悪いだろ」

「正論だから反論できない!?」

「ふっ……やり過ぎたのだ、貴女はな。さぁ早く俺から離れて、先生に連行されるんだ。俺はこのお金を使ってフィーバーするんだ。誰にも邪魔は──」

「報酬金額、五割増しにしてあげるから!」

「おーし、お兄さん頑張っちゃうぞー」

「よし!」


 お金に釣られてる?

 はっはっは、そんな事はありませんよ。

 私の目を見て。

 ほら、清く澄んでるでしょう?


「先生、実はこの件、誰も悪くないんですよ。フレンは百パーセントの善意で俺を助けてくれてるだけで……この行動に何も悪気はありません。なぜ怒ってるかは分かりませんけど、許してやってください」


 なるべく先生の目を凝視しながら、信じてもらえるように事を話す。

 急に立場の変わった俺の言動に先生はほんの一瞬、眉を動かしたが、すぐに元の微笑に戻した。


「ええ、わかってますよ」

「よかった、それなら──」

「学園長、この前もあれだけ言ったのにまだ懲りてないんですね……。生徒を、特に今のアカツキさんをいいように使わないでください」

「ごめん、フレン。無理だった」

「諦めるの早っ!?」


 さすがに現職教師をただの学生が言葉で納得させるのは……ねぇ?


「私だってアカツキさんと話したかったのに、良い感じに仲良くなってたわね? 名前呼びまでしてるなんて……羨ましいわ」

「あ、あの、シルフィ? く、 口調が変わってるし、私情が入ってるわよ……。こ、ここ学園だけど?」

「安心しなさい、今だけよ。話の続きは夜に聞くわ」

「は、離して! やだこの子、握力強くなってる!?」

「ほら、行きましょう? ちゃんと仕事を終わらせてから、決闘の件も含めてお話し・・・しますからね?」


 靴を鳴らしながら移動した先生は、俺の首を極めていた手を両手で鷲掴みにして強引に拘束を解く。

 そのまま嫌々と首を振るフレンはズルズルと引きずられていき、最後の抵抗か開けた扉にしがみついて引っ張られながら、


「クロトくん助けて! このままだと私、明日の朝には白く燃え尽きてるかもしれない!!」

「フレン……」


 救いを懇願する哀れな犠牲者に向かって、





「無事の帰還を祈るよ。グッドラック!」

「いやああああぁぁぁ……!」





 バタム、と。

 扉が閉まり、断末魔が遠のいていく。

 ふと気づいて外を見れば、時間が過ぎてすっかり赤らんでいる春の夕陽が浮かんでいた。

 夕陽に手を重ねながら、窓辺に寄りかかる。

 夕焼け空に色素が抜けたフレンの幻影を見たような気がしたが、おそらく気のせいだろう。

 俺はきっと、正しい選択をした。

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