朔良
私の認識と記憶には死角がある。実際、朔良の言うとおりではあった。
今週で言えばまず土曜。私が過ごしたのは確定の土曜だけで、元々はどう過ぎる日だったのかを私は知らない。そして日曜。進んだ日として日曜を過ごした私は、上書きの日曜を体験しなかった。だからそこで行われた朔良との会話を知らない。
つまり私の知らない日を過ごす、完全に別の私が存在する、ということだ。上書きの日の行動を変えるのに置き手紙がいるのはそのためだった。
別に今更気付いたわけじゃない。もうずっとこの形で生きてきたし、これまで大した問題も起こらなかった。私たちは上手くやっていた。生活はそつなく進み、私が変な噂を被ることもなかった。たまに残すメッセージは忘れずに実行された。宿題を持って行くことも、日々の買い忘れも、ドライヤーが壊れるから買い食いをやめて資金に回すことも、事故現場を避けることも。もちろん全てお互い様に。
依頼を全く無視されたのは今回が初めてだった。何より最悪なことに、それは時間進行の異常を気付かれた日に起こった。
「どういうつもりなんだ、マジで」
教室の隅にいる私は口の中で呟いた。教師が並べ立てる授業はミリも頭に入らない。今日は戻りの日だからやり直すことはできないのに。
放課後、校門の外で待っていた朔良は、私を人気の少ない市民プールに案内した。そして朔良は競技用らしい水着で水に体を入れて、学校指定ジャージの私を見上げた。
「私の理解を見せます」
砕けた文を残して朔良は泳ぎだした。水面を乱さない力の抜けたクロール。数メートル進んだところで朔良の頭が沈んで、少し先で隣のレーンに現れた。また少し進んで、沈み、また現れる──今度は元のレーンの、ただし最初に沈んだ辺りに引き返して。また進む、沈む、水中で進んで隣に。また進む、沈む、少し戻って元のレーン。今日、跳んで明後日、戻って明日、また跳ぶ。
二人の人間が二つのレーンに代わる代わる現れるようだった。
朔良は二倍以上の距離を使って50メートルプールを泳いだ。お行儀はともかく、私たちは自主練の水泳部にでも見えたはずだ。水を上がった朔良は趣旨を忘れたように満足げで、乾いたままでいる私の方が恥ずかしくなった。
「こういうことですよね」
「まあ、うん」
「やった。明智さんの受け売りです」
私が認めて、それで終わり。合図を待っていたように客が増え始めて、入れ替わりに私たちはプールを出た。
「こうなったら関わるしかないと思う。朔良さん、取引をしましょう」と明智は申し出た。プールを出てしばらく無言で歩いたあとだった。
「私の要求は、私の時間のことを人に喋らないでってこと。それは困る。絶対に面倒。検査だとか研究だとか、入院の体で国の極秘機関に監禁されて、存在を抹消されて解剖まであるでしょ」弱みを並べただけのぱっとしない出出しだと思った。
「取引と言うのなら、私が明智さんを助けた場合のメリットか、助けなかった場合のデメリットを仰るべきですね」
明智は心から嫌そうに私を見た。
「どうしろってのよ。私もあんたの弱みを掴んで脅迫し合えば満足? メンドくさ。いや、やろうと思えばできるから、それをやらないであげるわ」
「一般中流家庭で普通に生きる中学生に弱みなんて無いですよ」
「へえ。家に強引に入ってプライバシーぐちゃぐちゃにして、もし揉めたり捕まっても私は無かったことにできるわけだけど、ご家族も困らないかしらね」
前言撤回。全然最悪の女だ。黙った私がどう見えたのか、明智は露骨に溜息をついた。
「やらないよ、そんな危ない上に疲れること。今の話も上書きしたいけど、今日は戻りの日だから無理。代わりにメリットね」
明智は足を止めず、前を向いたまま言った。
「黙っていてくれれば、あなたにも私の時間を使わせてあげる。便利だよ。やみつきになっちゃう。何でも叶えられる、とは言わないけど」
ぬるい言葉が本音に聞こえる。最低な脅しと同じ口から出たとはとても思えない。明智が怪物なのか平凡な人間なのか、私にはよく分からなかった。
「要りませんよ。人に話したところで、明智さんが証明しなければ誰も信じないでしょ。私だってそうでした」
「そこも問題なんだよなー。つまりさ、証明するかも知れないわけじゃん。私が朔良さんにしたみたいに。困るよね。朔良さんが見た昨日の私ってどんなだったの? 性格終わってたでしょ? 私からごめんね」
「今と変わらない気がしますけど」
「それはない。絶対。許せない」
明智と私の視線がぶつかった。隣り合って歩く私たちの間で不可視の何かを見る時間。そのほんの数秒から呼び覚まされる記憶があった。
「──投げた石を拾う、と昨日の明智さんは言っていました」
明智は目を逸らして押し黙った。
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