明智
明智という女は、澱んでいた。空気の澱を長袖とロングスカートに押し込んだらたまたま人の形になったよう。暗い髪の下、白い肌の上で、細淵の老けた眼鏡が揺れる目を囲っていた。
「こんにちは、お姉さん。こんなところでこんな時間に、どうしてそんなことをするんですか?」
明智は屈んだまま吃った。「な、なに。なんでそんなこと聞くわけ」
いよいよ人の形を保てなくなりそう。野良猫か何かが化けているのか。私は祠とその背後の林を順に指さした。
「うちの土地です。誰も住んではいませんが。最近誰かが勝手に石が積んでいると言うので、たまに見に来ていました。そしてあなたを見つけた。崩していたのは、話と違いますけど」
「──そういうこと。いや、はい、すみませんでした。もうしません二度と近寄りません。私のことは忘れてください」
無感情な情報の羅列。明智はやり返すように並べ立て言い捨てた。顔を向けながら外したままの目線、今にも立ち去ろうとする体の傾きも、無責任を絵に描いたようだった。
「謝罪は結構です。質問に答えて下さい。どうしてそんなことをするんですか。中学生か高校生ぐらいに見えますけど、地元の生徒?」
「は、それ脅し? そっちも……なんか見たことあるジャージだけど」
これは当たり。私が通う中学はすぐ近くで、普段からランニングに指定服を使っている。そしてそんなことを教えてやる理由はなかった。
「脅されないと話せないことなんですか?」
明智は目を細め、次の瞬間に歯を剥いて笑った。眼鏡がなければ私と良い勝負の眼光だった。
「鬱陶しい奴。いい、話してあげる。どうせ今日は消える日だから」
私たちは名前だけを名乗った。明智の説明はこうだった。
「朔良さん。私の認識する時間進行は人と違うの。今日は私にもあんたにも日曜日だけど、私の明日は一日戻って土曜日になる。キミにとっての昨日を私は明日過ごす。土曜が終わったら二日飛んで火曜。その次が月曜。つまりキミの明日は、私の明明後日になるわけ。それも火曜の記憶を持った上での月曜ね。迷惑を掛けたことは改めて謝るから。ごめんなさい。石を積んだり崩したりしていたのは、私が自分のためにやっていたルーティンだった。もう二度とやらない。分かった?」
全く分からない。この女は何を言っているんだろう。やっぱりどうかしているのかも知れない。
異常者は最後に付け足した。
「残念だけど、この会話は起こらなかったことにする。明日、今日の昨日に戻る私には、今日の行動を上書きできるから。私はもう二度と、今日を一度目とするなら、その一度目も、ここでキミと会うことはない。キミはこの説明を忘れる。謝れないことは心苦しいけど、早く忘れてくれることを祈るよ。以上、終わりです」
土曜。戻った日から次の日の行動を変えるのは簡単だ。今回が初めてじゃないし、今までで最大の変更でもない。過去から未来を変える、それも自分の行動を変えるだけというのは、一番シンプルなやり方で済む話だ。
戻った日は確定する日。石を積む日。ベッドを這い出た私は机の角のペン立てを立てた。散乱したマーカー、鋏、定規、ボールペンを入れ直す。
「あーあーめんどくせえ」独り言の発言が史実になる。観測する他人はいない。鏡を起こす、棚の飾りでしかないレコード盤、玄関の箒、防災バッグ。
戻った日の私は眼鏡ではなくコンタクトを付ける。消耗品は確定の日に使うべきだ。使わなくてもどうせ期限は来るのだから。
そして私は机にメモを貼り付けた。私にとってはもう来ない明日の日曜、必ず私の目に付くように。
『二度と石を積みに行かないこと。祠は朔良とかいう謎女に見張られてる。近付くのもやめておきなさい。』
手順は簡単。情報だけ伝われば良い。もちろん今日は石を投げない。
月曜。一度火曜に進み、また一日戻った日。つまり確定の日。コンタクトを瞬きながらマンションを出ると、長身の女が一人、黒い制服と黒い髪を風に揺らして待っていた。
「明智さん。おはようございます」
朔良は友人のように言った。その顔には優越感も悪意も見えない。全くの平静、普段通りの待ち合わせかのようだった。
「──どちら様ですか?」
私が高い声を絞り出すと朔良は喉で笑った。
「あ、それは無理です。明智さんは私の記憶と違う昨日の日曜を覚えていて、そちらで私と知り合ったはずです。そう説明されました」
「誰から」
「テストですか? 私の方で昨日会った明智さんからです。こちらにお住まいであることも、この時間にお会いできることも聞いています」
朔良の言葉に淀みはない。嘘ともハッタリとも思えない。
認めるしかなかった。私と朔良が遭遇した日曜は改変されていない。より正確に言えば、上書きの日曜でも、私は朔良と出会い、事情を説明したらしい。
憮然と黙る私を見て朔良は何度か頷いた。
「今の明智さんは、今の私との昨日を覚えていない。上書きする二度目の日のことは、認識も記憶もできないから」
とどめだった。朔良は事実を知っている。私は簡単な手順に失敗した。
「続きは放課後に話しましょう。連絡先は交換してあります。データは消えないはずですよね」
朔良の言うとおりだった。
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