第40話 約束

 ――――あれから、どれだけ月日を重ねたのだろう。

 

 友人達のことを思い、悪樓と美雨は特別に祝言を挙げた。島民たちはそれぞれご馳走を持ち寄り、小嶌で新しい門出をスタートさせる二人を、心から祝いお祭り騒ぎになった。

 伝説によると穴戸神、吉備穴渡神と言われる悪樓と、嫁御寮が仲睦まじく暮らしている間は、いつにも増して豊漁で日照りに困らず、海は穏やかで、漁師が波に攫われることはないという。

 今でも穂香は、美しい白無垢姿の美雨を、つい最近の出来事のように思い出せる。

 悪樓と結ばれてからの美雨は、ずいぶんと良い意味で変わった。学生時代に見え隠れしていた、自分に対する漠然ばくぜんとした自信のなさや、必要以上に他人に気を遣いすぎていた部分はなくなり、穏やかで落ち着いた性格になっていた。

 今思えばあれが、本当の美雨だったのかもしれない。

 

「どうやら、今日は魚がよく捕れたみたいだね。ほら、大地叔父ちゃんが、船の上で手を振ってるよ」


 穂香はそう言うと、共に浜辺を散歩していた少女の手を握って、海を指す。

 ちょうど漁を終えて帰港した、漁師たちが漁船の上で、作業をしていた。日焼けした大地が笑って手を振る。

 大地は小嶌で漁業を学び、漁師として生計を立てている。それから島で知り合った年上の女性と結婚し、今では二児の父親だ。

 彼の叔父である勝己は、この島の歴史や郷土を研究しながら、後に流れつくマレビトのために、歴史的な文献を残している。勝己は村長が亡くなって未亡人となった沙奈恵と再婚し、その手腕を活かして、新しい村長と学者という二足の草鞋を履いていた。

 そして結衣は、ある日を境に穂香たちの前から、姿を消した。ちょうど美雨の儀式の前だろうか。

 島民達の話によると、この島に馴染めない彼女の要望により、悪樓が外界に返したと言う。その話を聞いて、本来ならば結衣のように本土に帰りたいと願うはずなのに、不思議なことに、誰一人帰ろうと言う者は居なかった。

 長い時間ここに住んでいるような錯覚に陥った穂香たちは、小嶌から離れるという選択肢はなく、この不思議な島で永住することになんの不満もなかった。


「大地おじちゃん、またあの大きなお魚をお家に持ってきそうだね」

「そうだね。今度はきちんと捌いて持ってきてくれるかな?」


 少女は同じように、船の上で手を振る大地に、笑って振り返した。

 穂香は、あれから樹と親しくなり彼と結婚した。三人の子供に恵まれ、夫婦共に島の子供たちに勉強を教えている。そして時々『彼岸入り』で、この島に流れついたマレビトたちの世話を、積極的に買って出た。

 外界からこの島に来た日が浅い穂香たちのほうが、彼らの相談役として適していると判断し、また島民たちも二人を信頼して任せている。


 ――――美雨が四十歳になる頃、彼女はたびたび不調を訴え、病に伏せるようになった。


 そして年が明け桜が満開に咲く頃に、美雨の命の灯火が、儚く消えた。

 忘れもしない彼女の寿命が尽きたあの日、嵐で海が荒れ、島民全員が、悲しみに暮れて喪に服していた。

 この日だけは、嫁御寮が亡くなったことを悲しんで、穴渡神が一人、海で泣いているのだと島民たちは囁いて、美雨を偲んだ。

 悪樓は、自分の手で灰にした嫁御寮を海に埋葬するまで、自分の姿を誰にも姿を見せなかった。

 最愛の人を看取る。

 何度同じことを経験しても、それが慣れる日など、永遠にこないだろうと穂香は思う。心を引き裂かれるような痛みを抱えて、ただ愛する人の生まれ変わりを、永遠に待つ悪樓を思うと、穂香は不憫でならなかった。



「――――美海みう

 

 穂香に名前を呼ばれた少女は振り返り、母親を見上げる。薄茶の柔らかな長い癖髪が潮風に靡いた。

 八歳の子供にしてはどこか大人びた瞳。

 親友の美雨が亡くなって一年後に、穂香は三人目の子を妊娠した。上の二人とずいぶんと歳が離れてできた子供なので、穂香も樹も喜びながら大変驚いた。

 心のどこかで、美雨の生まれ変わりなのではないかという淡い思いがあり、穂香は出産することを決意する。生まれてきた末の娘には美海と名付け、二人は彼女の成長を見守った。

 美海は成長するにつれて、どこか亡くなった美雨の面影を感じるようになった。

 間違いなく、樹と穂香の子供であるにも関わらず、ふとした表情や仕草に、美雨の癖を感じた。

 そして彼女がきちんと、言葉を交わせるようになると、その予感は確信へと変わる。 


「なぁに?」


 美海は美雨の前世の記憶を受け継いで、親友の穂香と、樹の子供として生まれ変わってきたのだ。親として、美海には悪樓と運命を共にせず、長く生きて欲しいという葛藤をしなかったと言えば嘘になる。

 けれど穂香も樹も、美雨の生前の想いを知れば知るほど、二人の愛を成就させてやるべきだという結論に至った。


「悪樓様がお迎えに来られたわ」

「うん。今日はビードロを買って、それからお花見をするの。お母さん、つい悪樓さんとお話するのが楽しくて、この間みたいにあまり遅くならないようにするね。穂香を心配させてはいけないって、悪樓さんも言ってたから」


 浜辺の向こうから、ゆっくりと歩いてくる端正な黒髪の美青年が見えた。悪樓は、小嶌に穂香たちが流れ着いてから、変わらず美しいままで、全く歳を取らない。

 悪樓の姿を見ると、美海は嬉しそうに微笑んだ。そしてゆっくりと穂香の指から手を離すと、悪樓の元へと走り出す。

 後十年もすれば、美海は年頃の娘になり悪樓と再び、祝言を挙げるのだろう。

 母親としては寂しく思うものの、走り出す背中を見ると、親友としては嬉しく思う。

 彼女は病床で、必ず前世の記憶を持って悪樓の側に生まれたい、できれば穂香の娘として生まれ、皆に再び会いたいと笑顔で語っていたのだ。



「美海、慌てなくとも私はここに居る。怪我をしてしまうかもしれないから、走らずとも大丈夫だ」

「ふふ、悪樓さんはやっぱり過保護ですね。もう転けたくらいじゃ、私は泣かないです。今年に入って風邪も引いてないし、背も伸びました」

「それでも、貴女が傷つくのは困る。私は貴女に、痛い思いをさせたくないのだから。それに明日は、美海が生まれた大事な日だ。怪我をしてはつまらぬだろう?」


 美海と悪樓はそう言うと、互いに柔らかく微笑みあった。悪樓の大きな手が差し伸べられると、美海は彼の手を迷わず握りしめる。

 小嶌に迷い込んだ、海鳥の声を聞きながら、二人は砂浜をゆっくりと歩いた。大小の足跡がそれぞれの歩幅で、ずっと続いていく。

 ふと、美海が悪樓を真剣な眼差しで見上げると、悪樓はその視線に気づき、まだ幼い嫁御寮を優しく見つめ返した。


「悪樓さん。私ね……穂香ちゃんのお腹に入るまで、今度生まれ変わったらもっともっと長く、悪樓さんと一緒に生きられるようにって祈ったの。こうして願い通り、貴方の側に生まれ変わってきたから、絶対願いは叶うよ。きっと神様はね、もう悪樓さんのこと、許してくれていると思います」

「嗚呼、本当に貴女は」


 悪樓はそれ以上何も言わず、前を向いて幼い手をやんわりと握り返した。

 春の穏やかな潮風が、睫毛を伏せた瞬間に悪樓の頬を撫で、彼のまなじりに溢れた一粒の雫を連れ去った。


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