第39話 婚姻②

 船着き場には、小舟が用意されていた。

 古風な船頭の格好をした村長に促され、用意された赤い座布団の上に、美雨はゆっくりと正座する。

 村長から特別説明はないが、美雨は、この光景を何度も夢に見ていたので、膝に両手を置くと、無言のまま静かに項垂れた。八重が口にしたように、今日はとても神聖な夜で、屋敷を一歩出て悪樓と夫婦になるまでは、村長といえど言葉を交わすのは憚られた。

 幼い頃はその理由も分からずに、この婚姻に不安を感じていたが、歳を取るごとに彼を意識し、今は涙が出そうなほど嬉しく、今すぐにでも会いたいほど、悪樓が恋しい。


(会いたい。早く悪樓さんに会いたい。今夜、私は悪樓さんの妻になるんだ)


 静かな波に満月の光がキラキラと降り注ぎ、提灯の明かりが、前を照らした。岩の切れ間から洞窟が見えると、暗闇に碧色に光る神秘的な光苔が見えた。それは宇宙に煌めく碧色の星雲のようで美しい。

 しばらくして、ポツポツと夜光虫のような青い光が、花嫁が乗った小舟を祝福するように海底から湧き上がった。

 小舟が洞窟の入口に入る頃、船頭は取り出した布面を顔につける。その布面には、穴戸神を畏怖するかのように、不思議な模様が描かれていた。


「ここから先は、神聖な吉備穴渡神様のお社です。今宵は嫁御寮しか立ち入れません。私らは、悪樓様の本当のお姿を見るのも、声を聞くのも、声を立てるのも禁忌とされていますので、お返事は無用でございます」


 船頭の言葉に美雨は声を出さずに頷く。

 あの夢と違うところがあるとすれば、婚姻の儀式の掟が、しっかりと決められているところだろうか。僅かに視界を確保し、洞窟の中を小舟が花嫁を乗せて渡る。

 夜光虫のような青い光が、一斉に水底から湧き上がると、大きな龍魚の影が小舟を追い、赤い背ビレと波打つ尾ひれが見えてきた。美雨はその姿をうっとりと眺める。

 

(綺麗な銀の鱗……クジラみたいに大きな魚)


 まるで海龍のように魚の体は長く、時折海の上にその顔を現すと、美雨はその姿に魅入ってしまった。優雅に泳ぐ巨大魚は、いつまで見ていても飽きそうにない。

 美雨を先頭にし、ようやく小さな船が、島の上に建てられた赤い鳥居が見える場所まで辿り着く。鳥居の先には古い石の階段があり、上りきった先に、威厳ある美しい社殿が見えた。

 まるで、悪樓の凛とした佇まいのようだと、美雨は思う。

 やがて、小舟が到着すると美雨は赤い鳥居を潜り、小島に降り立った。花嫁を送り届けた船は、緩やかに方向転換し洞窟を去っていく。

 美雨は、それを見送り、悪樓の姿を探すように周囲を見渡して、背後を振り返ると同時に、穏やかな声が聞こえて心臓がドクンと跳ねた。


「美雨、この夜を指折り数えて待っていた。ようやく夢通いの夜を越え、その刻がきたのだ」


 銀と青の鱗が蠢き、赤い背ビレが海面を叩くように蠢くと、光苔と夜光虫が光る水底から銀色の髪が見える。毛先は背ビレと同じく朱色で光る青色の海面に美しく広がっていた。

 まるで、水中に美しい華が咲き乱れているような神秘的な光景で吐息が漏れる。美雨は跪き、無意識にそれを魅入られるように覗き込んでいると、銀髪の悪樓が水音を立てて顔を覗かせた。彼の首や腕に鱗が見え、まるで爬虫類のように瞳孔が細くなり、段々と戻っていく。人魚のように上半身を出して、そっと冷たい指で美雨の手に触れる。

 

「美雨……私が恐ろしくないか。このような醜悪な姿を、貴女に見られることを恐れていた。天津神たちによって、服わぬ神に堕とされる前は、私は貴女と同じ人であった。私はこの地を治める王だったが、朝廷に従わず呪われた悪神となったのだ」 


 あの龍魚が、悪樓の真の姿なのだろう。

 悪樓の表情は、人間に畏怖される神でありながら、人間と同じく自分の姿を嫌悪し、美雨の答えを恐れ、切なく歪んでいた。悪樓は彼女を離さないと言いながら、美雨に嫌われ、拒絶され、愛されないことに怯えている。何度華姫の生まれ変わりを迎えても、その葛藤に苦しんでいるのだろう。

 美雨は彼の弱さがとても愛しくなった。悪樓にとって、自分以外の理解者など存在しないのだ。


「悪樓さん……とっても綺麗。貴方は呪われた悪神なんかじゃない。貴方がどんな姿でも、私がどんな姿になっても、貴方を愛しています」


 美雨は濡れた悪樓の頭を、そっと抱き寄せると言った。華姫とあの小説家以外に、自分の前世を知る由もないが、美雨として彼を愛していた。たとえ自分の寿命が、他の人よりも短くなったとしても、悪樓に寄り添いたいと思うほど深く愛していた。

 悪樓は柔らかく微笑むと、彼女の腕を解き美雨に口付ける。

 海面から上がると、不思議なことに鱗は肌に溶け込み、濡れた裸体は紺と白のグラデーションが掛かった紋付き袴姿になる。髪はくるぶしまで伸び、毛先は美しい赤色で魚のヒレのように輝いていた。

 横髪を結う、赤い結紐も龍魚の背ビレを思わせ、透明な銀色の瞳は優しく歪み、美雨の両手をやんわりと握った。


「私も貴女を愛している。いや、貴女しか愛せないのだ。しかし、私に……神に愛されるということは、その者の寿命が削られる宿命にあるのだ」

「…………」

「天津神ならば貴女を私と同じ不老不死にできただろうが、私に許されたのは、この島の時間を緩やかにするだけだ。それでも、私の妻になってくれるだろうか。私を夫に迎えてくれるだろうか」


 ――――この島の流れを緩やかにする。

 小嶌が、どこかノスタルジックに感じるのは、時間の流れが緩やかに過ぎていくからだ。

 家族や友人の記憶が遠くなっていくのも、外界の時は変わらず流れ、意識だけがうっすらとあちら側に、繋がっているからなのかもしれない。

 悪樓は、美雨の両手を握りしめながら自分の至らなさを悔いているようだった。美雨は、悪樓の両手を握り返すと言う。


「はい。悪樓さん。私は貴方の妻になります。貴方を夫として愛します」


 愛した女性と何度も別離を繰り返し忘れさられるということが、彼に与えられた罰ならば、なんと残酷だろうかと美雨は思う。美雨は、この一瞬一瞬を大切にし、彼を自分の命が尽きるまで深く愛してあげたいと決意した。

 悪樓は口元に穏やかな笑みを浮かべると、美雨と手を繋ぎ、本殿の階段をゆっくりと上っていく。

 一段、一段踏みしめるように上ると、蛍のような淡い光に、夜光虫のような青い光が二人を包み、悪樓の長い銀髪がふわりと浮遊する。

 繋がれた二人の小指に赤い糸が絡まり、美雨は頬を染めて悪樓を見上げた。これで二人の夫婦として誓いが終わり、運命を共にする絆ができたのだろうか。


「美雨、今宵貴女は私のものになり、私は貴方のものになる。愛してるよ、私の可愛い嫁御寮」

「悪樓さん……」


 階段を上りきると、悪樓は美雨を抱き上げた。これから何が起こるか、想像すると頬が赤らむ。ようやく、待ち望んでいた初夜を迎えるのだ。

 本殿の扉がゆっくりと開かれていくと、雪洞ぼんぼりに照らされた御神体、畳の上には婚礼布団が敷かれている。美雨は頬を染めてぎゅっと彼の首元に抱きついた。心臓の音が聞こえてしまいそうなほど、鼓動が高鳴り、羞恥で彼の顔が見れない。


「初いな……。大丈夫だ、美雨。できるだけ破瓜が痛まぬよう、優しくする」

「は、はい」

 

 ✤✤✤


「無理をさせてしまったな、嫁御寮。貴女があまりにも初いから、夢中になってしまった」

「ふふ、私は大丈夫です。最初は少し痛かったけど、幸せな気持ちで一杯だもの。私は何も変わってないのに、なんだか少し大人になったような気分」

「そうだろうか。私は今の美雨が本当の貴女だと思う。長い間、貴女を誤解した人間からの心無い言葉や、他人の欲望に傷付いて、自分を押し殺していただろう?」


 美雨は腕枕をした悪樓の長い銀髪を指で絡めながら、低く甘い声に耳を傾け頬を染めた。いつからか人の目を恐れ、どんなことを言われても反論せずに頷き、他人に合わせて、笑顔の仮面をつけていた。

 美雨は自分の運命に向き合い、過去と決別し、ここで家族と離れて生きることを大人として決断した。悪樓への真剣な気持ちが、自分の殻を破ったのだろう。


「私と契りを交わす前から、貴女はちゃんと自分の生きる道を選んでいたのだ。私が選ばせたと自惚れておきたいが」

「悪樓さん……。私、幸せです。なんの悩みも迷いもありません。最期が来るその日まで後悔せず、貴方と幸せに生きていけるって信じてるから」

「美雨……もう、貴女を離しはせぬ」


 美雨と悪樓はそう言うと、朝まで互いを抱きしめあった。 



 ――――小嶌には古来より言い伝えがある。

 吉備穴渡神と嫁御寮が、無事に初夜を過ごすと、決まって豊漁となりその年の収穫は例外なく、豊作になるという。

 

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