第16話 小嶌神楽③

 悪樓が言うように、美雨は和装に慣れていない。手すりのない石段を下りるには、心許ないと思われているのだろう。

 美雨は悪樓に抱き上げられながら、まるで鬼灯のように顔を紅くしていた。

 遠くで波の音が聞こえると、美雨はふとそちらに視線を向ける。木々の切れ間から見える朝焼けに、キラキラと光る穏やかな波があまりにも美しくて、美雨は思わず目を細める。

 一枚の絵のような風景を見た瞬間、美雨はまるで、胸を締め付けられるような郷愁きょうしゅうを覚えた。


「わぁ……綺麗。なんだか、不思議だな。この景色、とっても懐かしい気がします」

「ふふ。ここは貴女の故郷でもあるから。今度は私と共に夜の月を見よう。大変美しいぞ。ぜひ、貴女に美しい景色を見せたい」


 美雨の祖父母はすでに他界し、家族は東京に住んでいる。この場所が故郷であるはずがないのに、美雨は、彼の言葉をすんなりと受け入れてしまった。

 それほど、あの景色は懐かしくて恋しく思うようなものだった。

 美しい朝焼けに心を奪われていると、視界の端に魚の尾のように突き出した岸壁があることに気づいた。

 そこを直視すると、薄っすらと空洞が肉眼で確認できる。岸壁にできた壁穴だろうか。

 それを見た瞬間、美雨は心がざわざわと震えるような感覚がして、息を呑む。

 彼女の戸惑いに気づいたかのように悪樓が立ち止まると、それに合わせるかのように風がやむ。そして、少しの間を置いて艶のある声色こわいろで話しかけられた。


「――――美雨。あの壁穴に見覚えがあるだろう? 次の満月の零刻、私はあそこで貴女を娶る。努々ゆめゆめ忘れぬように」

「……娶る……冗談ですよね?」

「つれない嫁御寮だ。冗談ではないぞ」


 次の満月に娶る、と具体的に宣言された美雨は驚いて悪樓の涼し気な瞳を見た。彼の黒い瞳が一瞬、薄い銀色に変わり、光ったような気がして美雨は戸惑った。

 太陽の光の加減だろうか。

 思い返せば、あの夢に出てきた彼は人間ではなく、美しい異形の姿をしていた。


(まさかね。悪樓さんは不思議なことを言うけど、本当に人間じゃないなんて、そんなのありえないよ。海の中で見た姿もきっと気を失う前に見た幻覚。でも、悪樓さんの目って時々、不思議な色に見える)


 悪樓からは、絶対に美雨を逃さないという強い意志を感じ、ゾクリと背筋が震えた。

 その瞳を見ていると、なぜか大きな動物の舌で、全身を絡め取られたような得体の知れない畏怖を感じる。それと同時に泡立つような高揚感に、妙な安心感に包まれる。

 今まで美雨は、こんなふうに誰かに強く求められることはなかった。

 ずっと陽翔に片思いしていたのもあるが、知らない異性と、心の距離を縮めるのが怖くて逃げていたから。なのに彼には強く惹きつけられる。

 だが、美雨はこの悪樓からは絶対に逃げられないのだと本能的に悟った。


「返事は?」

「は……い。ふぁ……っ」


 美雨の返事を聞くと、満足したように悪樓は優しく微笑み、軽くキスする。蕩けそうな舌先だけの愛撫に、顔が一気に熱くなった。

 美雨は唇が離された瞬間、赤面してあわあわと慌てふためきながら、悪樓の着物を掴み、消え入りそうな声で何度目かの抗議をする。


「あ、悪樓さんっ、こういうところでキスされたらびっくりして落っこちちゃうから! や、やめて下さい」

「怒った顔も愛しい。貴女を落とすようなことはないが、その願いは聞き入れよう。どうやら貴女は、接吻せっぷんは嫌いではないようだ」

「〜〜〜〜!!」


 彼の指摘通り、悪樓とのキスは嫌いではないが、必要以上に動揺してしまう。

 悪樓はそんな美雨をからかい、まるで子供をあやすように笑って、ようやく階段を下りきった。


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