第9話 エリスの過去

 ”自由”がずっとずっと欲しかった。

 ただ外の世界に憧れていた。自分を縛る何もかもから逃れたかった。


 エリスが生まれたのは、大陸北部にある小さな街だった。緑が生い茂る古代樹の森を抜けて深く険しい渓谷のその先に、ロアと呼ばれる街はあった。外側を石造の城壁で囲まれた要塞都市。その国テオナの騎士団も滅多に寄り付かないほど、魔物が彷徨う危険で寂れた場所にポツンとある街だったが、人々はそれなりに豊かに幸せに暮らしていた。

 その理由として、真っ先に挙げられる点があるとしたら”聖女”だろうとエリスは思う。ロアでは、街全体の結界を張れるローレンス家という一族がいた。不思議なことだがその能力は女だけに受け継がれる一世に一代の能力だった。先代が命を落とせば、次の代に力が受け継がれる。結界の能力を持つものは代々”聖女”としてこの街で崇められ、大切にされた。

 エリスの母、ルディア・ローレンスは聖女だった。

 エリスにとって母とは、手の届かないところにいるぼんやりとした印象の人だった。常に警護の者をつけられていた彼女は、エリスの記憶の中でいつも幸せそうに綺麗な顔で微笑んでいた。その母の胸の内がエリスはわからなかった。

 聖女など、エリスはなりたくなかった。

 街を覆うほどの美しい黄金色の結界は、中の者たちを何からも守る代わりに術者の寿命を奪う。聖女は皆、短命だ。そして、その一族に生まれれば、外の世界に行くことは絶対に叶わない。籠の鳥として一生をこの狭い街で過ごさねばならないのだ。聖女など、所詮搾取される側の人間でしかない。結界の能力だけでは限りなく無力だ。


 昔から、エリスは外の世界が見たかった。強く、焦がれていた。この青空が続く遥か遠く先まで、走っていけたらどんなにいいだろうと思う。しかし、エリスは悟っていた。それは自分が死ぬまで叶わない夢だと。だがある時、振って湧いたような転機が訪れる。

 それはエリスが八歳になる頃のことだった。

 

 「ではエリス様、当時荒廃していたこの地を皆と共に耕し、戦火から逃れてきた人々の安定の地を作った英雄の名は?」

 「……サンガ・ローレンス」


 エリスは小さな手で頬杖をついて、窓の外を眺めながらむすっとした顔で言った。机が置かれたその部屋は、窓から陽が差し込みそよ風がカーテンを靡かせる。窓の外では街の子供達が遊んでいる声が聞こえていた。


 「正解です! サンガ・ローレンスは結界を張ることができるローレンス家の先祖です。とても聡明で勇敢な女性だったと伝わっているんですよ」


 壮年の女性の教師は、ニコニコと上機嫌に笑う。エリスはそれを半目で見ると、深いため息を吐いた。街の子供達は遊んでいるのに自分だけ、教養や礼儀作法の授業を受けなければならないのが納得がいかなかった。大体、この英雄の話は耳がタコになるほど大人たちに聞かされる話だ。こんな授業を受けるのは時間の無駄に思えてならなかった。頬杖をついたエリスは、教師を視界に入れると口を開く。


 「そんなことより、外の世界について教えてよ」

 「そんなことよりじゃありません! エリス様には立派な聖女になってもらいたいんです!!」

 

 教師は怒ったように言う。この教師は、無駄にやる気に溢れていて鬱陶しかった。この街の歴史については嫌になるほど語るのに、外についてなどの知りたいことは何も教えてくれない。髪をひっつめた女教師に、頬杖をつきながら視線を投げるエリスは白けた目をして鼻で笑う。

 

 「立派って、寿命をすり減らしながら結界を張り続けて、最後は惨めに死ぬしかない聖女なんて何の意味あるの?」

 「せ、聖女には責務があります。いいですか、皆が持たない特別な力を得るであろうあなたにはそれなりの責任が」

 「そんなの知らない。わたしは自由な大人になりたいの」

 

 貴女には分からないでしょうけどね、エリスは心の中で思った。エリスの言葉を聞いて、教師は顔を真っ赤にして机を叩いた。

 

 「あなたのお母様だって、お辛い思いをして結界を張り続けてきたんですよ!  それなのにエリス様は……!」


 その時、ドアが開いて誰かが入ってくる気配がし、エリスは振り返る。そこには艶やかなチョコレート色の髪を肩から垂らす女性がいた。ヴェールの先にはエリスと同じ黄金色の瞳があるのだろう。後ろに控える長剣を下げた護衛の男を連れたその女は、部屋に入るとこちらに近寄り教師の隣に立った。そして毅然とした目でエリスを見つめ口を開く。

 

 「確かにあなたの言うとおりだわ、エリス。でも私たちは人々のためにこの力を使うのよ」

 「……お母様」


 エリスはますます不貞腐れて、頭の後ろで腕を組んで机に足を乗せた。視線を投げた窓の外では雲が流れていく。エリスは大きな欠伸をこぼした。隣の教師は感激したように頬を赤らめている。

 

 「エリス。あなたは強い子よ。私にはわかるわ。でも、まだ外の世界を見るのは早いと思うの。この街を守る力をあなたが受け継いだ時のためにも、色々学んで立派な大人にならないと」

 

 エリスは眉を顰める。子供だからって甘く見られているのだと思った。そんな言葉で誤魔化されるほどエリスは素直な子供ではなかった。

 

 「どうして? わたしはもう大人だよ」


 しかし紡がれた言葉は自分でも呆れるほど子供っぽい。

 

 「いいえ。あなたはまだ子供よ。だから子供でいられるうちに、今しかできないことをたくさんした方がいいわ。それに聖女教育も大事よ。お母さまはね、あなたに素晴らしい大人になってほしいの」

 

 優しい笑みを浮かべたルディアはそう言うとエリスの前に座り、頰に手を添えた。エリスの顔半分をヴェールが覆う。聖女の象徴だ。それを見るたびに、エリスは自分がどんな人間であるのか突きつけられる。ただの娘であったならと何度思ったことだろう。

 

「ねぇエリス。お母さまは、あなたをとても誇りに思っているわ」

 

 ……わたしが死んでも?

 その言葉はついぞエリスの口から出ることはなかった。



 ◇



 人々がごった返す道でキョロキョロと視線を周りに向けながらエリスは、幼馴染のリオと、同じ聖女候補である従姉妹のネイナと共に護衛の男をつけて歩いていた。いくつも物珍しい出店が連なり、街は賑わう。

今日は、一年に一度この街で行われる祭りの日だった。ロアでは昔からある、聖女を尊ぶ祭りの日である。老若男女問わずに皆が浮かれて、人々は聖女への感謝と祈りの言葉を口にしながら街中を歩いている。ロアの街では珍しい祭りに、エリスは頬を綻ばせて走り出した。


 「おい、エリス!」

 「あ、待ってよエリス!」

 「早くいこうネイナ! リオ!」

 

 木製の壊れそうな露店の上には縞模様の布が掛けられて、道の頭上には旗が掛けられている。調理された肉や香辛料の、食欲をそそる匂いが漂っていた。

 この日。エリスは外出の許可がおり、護衛を伴った子供たち三人はお小遣いを握りしめて露店を見ていた。

 柔らかいミルクティー色の髪を短く刈り、膝を出した少年のリオはエリスと仲が良く、家系のこともあり将来はエリスの護衛となるだろうと言われていた。エリスの手をひいて、数々の露店に目を輝かせる。エリスは左手に繋いだ手の先のネイナを気にしながらも、頬を綻ばせて駆けた。癖毛の茶髪を伸ばしたネイナは内気な少女で、エリスはよく気にかけていたのだった。

 数十分後。エリスは繋いでいた手を自然と放し、先ほど露店で買った串焼きを美味しそうに頬張っていた。もう十本目だ。口周りには茶色いロースがかかっている。甘い綿菓子を頬張っていたネイナがそれを指差し、仕方ないなというふうにリオがハンカチで拭う。若い男の護衛はエリスのたいらげた串を持ち、微笑ましそうに彼らを見ていた。そうして三人がいつも通り仲良くゾロゾロと歩いていた時だった。

 

 路地の暗闇からにゅっと腕が伸びたかと思うとエリスは暗がりに引き摺り込まれた。

 一瞬のことだった。

 

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