第8話 傷跡

 ロイは胸元から落ち畳まれた青い布を取り出すと、広げる。するとゴトリと音を立ててその布の下からどこからかテーブルが現れる。繊細な彫刻が施され、曲線を描く猫足の優雅なテーブルだった。ロイが指を鳴らすとその布、いやテーブルクロスの上に湯気のたつティーカップが現れた。

 同じくどこからか現れた二つの椅子の片方に腰掛け、ロイはお茶を啜り出した。

 エリスが口を開けて見ていると、「どうした? 座らないのか?」とティーカップの持ち手に指を通して、ロイは落ち着き払ってエリスに言った。どうやらここで本格的に休憩するつもりらしい。

 エリスが恐る恐る腰掛けると椅子が勝手に動いてテーブルに近づく。テーブルには美味しそうなスコーン、ケーキ、クッキーがあった。腹が情けない音を立てて、空腹を自覚したエリスは涎を垂らしながら手を伸ばし、スコーンを一つ手に取ってみる。躊躇いなく齧り付いてみると暖かいスコーンがほろほろと口の中で解けた。濃厚なバターの香りが口いっぱいに広がり、幸福感のある優しい甘さがエリスを包み込む。エリスは一口食べてみて、目を輝かせた。

 次々とエリスは手に取り食べる。クリームのふんだんに使われた、宝石のように艶やかな甘いケーキをぺろりと平らげると、箒の形をした香ばしいクッキーをむしゃむしゃと食べる。そのクッキーは齧るとサクサクと小気味いい音がして優しい甘さと共に口の中で砕けた。次から次へと食べたそばから甘いスイーツが現れるので、エリスは手を止めずに食べて、食べて、食べまくった。ミルクティーの時も思ったがこんなに美味しいものは生まれて初めてだった。食欲を満たす甘い幸福に頬が緩む。やはり食事はいい。簡単に笑顔になれる。

 そのエリスの食べっぷりにロイは引き気味に見ていたのだった。


  

 ◇

 

  

「これであっちに行くぞ」


 ロイは小舟に片足を上げて言った。腹一杯になって上機嫌のエリスが飛び乗ると、ロープが切り離された小舟は水面を滑るように走り出した。しばらくして、ロイは何かに気づいたようだった。


「見ろ」


 ロイに言われるがままに覗き込むと、湖の底で何かが黄金色にキラキラと輝いている。エリスは小舟から身を乗り出して目を凝らした。────鍵だ。それは無数に散らばり光を反射している。


 「なるほど見えてきたな。あの扉の鍵だ。おそらく鍵穴に嵌るのは一つだけ」


 ロイが指さす向こう岸には古びた桟橋と、そして壁に掛けられた松明の火が見える。そしてその松明に左右から挟まれる形で、照らされるのは洞窟には不釣り合いな美しい白い扉だ。ここからではよく見えないが、細かい彫刻が施されている。


 あの扉の鍵がこの湖の底に沈んでいるというのか。しかも正解は一つだけ。気が遠くなるような膨大な時間をかけなければ、一つだけなんて選び取れるわけがない。しかしエリスが振り向くとロイは上着を脱ぐところだった。エリスは驚愕して言葉を発した。


 「飛び込む気か、その傷で」


 白いシャツ姿になったロイは長い白髪を結びながら振り向くことなく言葉を紡ぐ。


 「本物の鍵が分かるのは俺だけだ。俺が行くしかないだろう」


 ロイは綺麗なフォームで湖に飛び込む。水飛沫がエリスの方まで飛んでかかった。

 ロイは何度も息継ぎをしにあがっては、息を大きく吸い込んでまた潜る。小舟から身を乗り出すエリスはこの何百、いや何千とありそうな、無数の鍵の中から正解の鍵を見つけ出すのは絶対に無理だと思っていた。正気の沙汰ではない。あまりに無謀だと。しばらくしてロイは水面に上がってくると、そのまま小舟に戻ってきた。エリスはやっと諦めたのかと思ったが、違う。見せびらかすように上げた手の中には黄金色に輝く一つの鍵があった。


 「まさか、もう見つけたのか」

 「ああ、他のは皆、魔力が違う。初代の魔力を感じる方をあらかじめ検討付けて探したから、すぐ見つかった」


 ロイは小舟に腕を乗せると、ゆっくりと体を持ち上げて湖から上がった。ぼたぼたと小舟に水が落ちてシミを作る。そしてびしょ濡れのロイは疲れたようにため息を吐くと、どさりと腰掛けた。小舟が揺れる。そして何気なく視線をやりそれを視界に入れたエリスは思わず息を呑んだ。

 その背中。濡れたシャツに透けて姿を現したのは、何か鋭利なもので裂かれたような無数の傷跡。そして見覚えのない紋章のような焼きごての跡だった。エリスは勝手に、このロイという男はさぞかし恵まれて生きてきたのだろうと思っていた。泥を啜るような経験や苦労なんて一つもせずに、魔法使いらしく優雅に生きてきたのだと。

 ロイが指を鳴らすとその服は一瞬で乾く。上着を羽織るロイに、エリスは無粋だと思いつつも思わず尋ねていた。


 「その傷跡……」


 ロイは今気づいたようにエリスを見る。また目を逸らすと、微かな声で呟いた。

 

 「……戦争だ」

 「戦争って……」


 ロイはエリスに背を向けると腕を組んだ。神経質そうに指がトントンとリズムをとる。

 

 「もちろん百年前のじゃない。国と国との戦争だ」


 平坦な声だった。なぜ魔法使いの戦争ではなく人間同士の戦争。しかも人を傷つけることをこれだけ嫌うロイが国なんかのために戦ったのか考えて、エリスはハッとした。ロイが魔法使いは人間の政府に捕まれば『奴隷』になるのだと言っていた。気付けばエリスは言葉を溢していた。


 「人間に捕まったのか」


 ロイはその言葉にピクリと片眉を動かすと、ゆっくりこちらを見た。

 

 「ああ。奴らは俺を戦争で使うことにしたんだ。……魔法で人を殺した。そう、数えきれないほどだ」


 無感情な瞳で言葉を紡ぐ。

 

 「俺もとっくに人殺しなのさ」


 暗く、どこか哀しい目だった。

 ロイはおそらくエリスに傷跡をみせるつもりはなかったのだろう。それどころか触れてほしくなかったに違いない。

 エリスは何か言わなければと思い、口を開けるがこういう時に限って言葉が出てこない。そしてどうにか言葉を絞り出した。

 

 「……私と同じだな」


 気付けば、ロイへの胸の燻りはなくなっていた。ロイは、元々が根拠もなく自分を信じられる性格なのだと思う。それぐらい自信家で、プライドが高い男だ。そして、彼は何よりも自分に正直だった。ロイが気持ちよく楽しく生きるにはきっと心に嘘はつけないのだ。自分の心に正直に生きているからこそ、彼は常人が縛られるような何にも囚われない。

 ”自由”だ。

 エリスはこの男の背中に、自由を見ていた。わずかな期待と、人匙の興味。いつからかエリスは、誰よりも自由であろうとするこの男の歩む道を見てみたいと思っていた。

 ロイはそこで初めてエリスを見る。そして、呟く。


 「そうか……」



 ◇


 

  小舟が対岸に止まると、ロイは立ち上がり長い足で跨ぐようにして渡る。そしてこちらに手を差しだした。エリスはその手を取ると、桟橋に飛び移る。そして、ようやく扉の前にやってきた。洞窟に不釣り合いな白い扉。気取った黄金色のドアノブ、そして何の変哲もなさそうな鍵穴がある。

 ロイはゆっくり鍵を差し込む。


 するとガチャリと音がして鍵が開いた音がした。ロイがドアノブを回すとすんなり扉は開く。


 そこは不思議な部屋だった。煌々と明かりが灯されて照らすのは、左右に鉄格子が嵌められた壁。向こうの暗闇からは何やら動物のような唸り声が聞こえていた。壁には、いくつも青い石が嵌められ、幾何学模様の溝が壁一面を走っている。石の真下に書かれているのは文字だろうか。その模様の溝は、全て正面の重そうな扉に集まっているようだった。その扉にはドアノブのようなものは見当たらない。


 「ハハ、これは魔法使いじゃないと解けない仕掛けだ」

 

 ロイは部屋全体を一瞥すると、迷いのない足取りで歩み寄り扉に手を当てた。すると嵌め込まれた石が発光するように光輝く。そしてゆっくりと鉄格子が上に上がっていく。

 

 「面白い! 初代もセンスがいい。正しい順番で魔力を流さないと開かない仕組みだ」

 

 こんな時だってのにロイは腕まくりをして嬉しそうに笑っている。エリスは刀を構えて叫んだ。

 

 「なんか出てくるぞ!」


 鉄格子が上がった左右の暗闇から姿を現したのは、エリスが見たことのない化け物だった。グルルと唸るのは獅子の頭、山羊のような胴体をもち、シャーと牙を剥いてこちらを威嚇するのは蛇の尾だ。人間が無理やりつぎはぎにしたような不自然な生き物だった。よく見れば口から真っ赤な炎を吐いている。暗闇から出てきた二頭とも、それぞれこちらを睥睨しながら歩み寄ってきた。

 

 「キマイラだな。どうやらこの仕掛けを解く間、邪魔をする役割らしい。ま、そいつらは任せた」

 

 ロイは一瞥すると、自分には関係ないとばかりに背を向けて、さっそく壁をいじり始めた。エリスは文句を言いたいのをグッと堪えて刀を構える。


 二頭のキマイラは鼻筋に皺を寄せて、喉から唸り声を出しながらエリスの周りをゆっくりと回る。ポタ、と牙から垂れる涎が光っていた。キマイラのその目。それはギラギラと獲物を甚振る悦に輝いている。エリスは自然と冷や汗を流していた。そしてジリジリとした一触即発の睨み合いの末、キマイラの一頭が飛びかかってくる。

 エリスは素早く刀を右上に高く振り上げると、斜めに振り下ろした。袈裟斬りだ。胸から左足にかけて赤い鮮血が流れ、傷を負ったキマイラは、地面に着地すると憤怒の唸り声を発した。次に背後から飛びかかってきたキマイラにエリスは地面を蹴り飛び退く。尾の蛇が牙を剥いて、毒液を垂らした。

 毒液がかかった腕の皮膚が激しい痛みと共に音を立てて溶ける。

 しかしそれに視線を寄越す暇もなく、キマイラはエリスを睨みながら口を開けた。エリスは背筋に走る悪寒と共に横に飛び退くと、真横を炎が吹き上げ、髪の先が焼け焦げる音がした。


 エリスは息を吐くと、キッと前を睨み据えた。身体が前方に倒れ出した次の瞬間、強く足を踏み込んだかと思えば、とても人間とは思えない速さで間合いを詰める。遠近戦は不利だと察しての選択だった。元々エリスの剣は初撃必殺。

 

 突進しやすいように前傾姿勢をとって駆けるエリスは、右手で鞘に納めた刀の柄を握ったまま、左手は鞘を掴んでいた。そして刀と床が並行になるように左手で鞘を引く。目にも止まらぬ速さで居合が放たれる。

 その斬撃は目標であるキマイラの左脇腹を一瞬で裂いた。

 ぐらりと揺れて地面に倒れ伏した仲間を見て、残されたキマイラは怒り狂って咆哮する。エリスは刀を構えながら油断せずにそれを眺めていた。怒りに支配されたキマイラは、エリスに飛びかかる。

 右足を引いて刀を右脇にとり切っ先を後ろに下げた構えで、放たれた横薙ぎの一閃。

 後ろから遠心力と共に斬りつけるその一撃はキマイラの頑丈な体を深く切り裂いた。キマイラは悲鳴をあげる。しかし地面を蹴るその足は止めず、Uターンするとこちらに向かって走ってくる。エリスは刀を構えるが、キマイラはエリスの右を全くスピードを緩めることなく走り過ぎていった。それの進む先を察してエリスは表情を歪めた。決まっている。狙うはロイだ。絶対に行かせてはならない。

 咄嗟に追いかけようとしたその時。


 ────胸を鋭い痛みが走った。それは段々と、確かに強くなっている。


 こんな時に、とエリスは歯を食いしばった。しかし思えばいつも、この痛みは一番きてほしくない時に現れる。ロイは呑気に目を輝かせて壁の石をあちこち触っていた。無防備な背中目掛けてキマイラが飛びかかる。


 考えてみればロイは自分で何とかできたかもしれない。仕掛けを解く片手間に攻撃を防ぐことぐらいできたのではないだろうか。しかし、咄嗟にエリスは忌んでいた力を使っていた。


 エリスの瞳と同じように黄金色にうっすらと発光する結界。それはロイの周りに半球体となって燦然とした輝きを持って現れる。ロイは振り返りそれを見て目を見開いていた。結界に頭からぶつかったキマイラは、ジュウッと何かが焼けるような音を出して悲鳴を上げた。


 エリスはため息を吐くと、足を踏み出して駆け出す。細い身体が翻る。血に濡れながらも白色に輝く刃が下から上へと一閃していた。股間から頭頂部まで叩き斬られたキマイラの屍がぐらりと倒れる。血を払いながら近づくエリスにロイは驚いたように告げた。


 「お前、先祖返りか」

 「先祖返り?」

 「ああ。特殊な力を持った人間たちは、先祖に魔法使いがいる場合がほとんどだ。しかし相当強力だな。代償はなんだ? 人間は魔法使いのように魔力を効率よく変換できるわけじゃない。この膨大なエネルギー。近い血筋に魔法使いがいるわけではなかったら、代わりに何かを引き換えにしているはずだ」


 ロイは目を逸らさない。エリスは目を伏せて呟いた。


 「寿命だ」


 その言葉にロイは目を見開く。


 「寿命だと!?」

 「ああ」


 ロイは足音を響かせ歩むと、エリスの前に立って肩を掴んだ。


 「そんなもの、もう使うな!! いいか、俺を助けるためだとしてもだ。これ以上俺に背負わせるな!!」

 「……言われなくても。こんな力、持ちたくて持ったわけじゃない」

 

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