第8話
翌日、いつもより少し早く仕事が終わり、いつも通り居酒屋へ向かう。
井口は今日もいるだろうか?
井口の事が気になっている自分に驚いた。
結局あいつは何者だ?
まださっぱり分からない。
ただ、食べ物の嗜好や人生観について私と似たところがあるのは事実だ。
それに、何故かあいつとは話しやすい。
店に井口の姿は無かった。
「あら、先生、今日はお早いお着きで」
「うん、最後の授業が休みになったから」
「そうなの。ビール?」
「うん」
「あれ、先生、今日は早いね。珍しい」
店にいたお客も声を掛けてくる。
「ええ、こういう時もあるんです」
そこにいた客全員と乾杯して飲み始める。
これも客全員が知り合いという田舎の居酒屋ならではの光景だろう。
誰かがカラオケを始めるまではテレビが映っているモニターを見ながらしばし酒を飲む。
テレビを見ながらああだこうだと客同士が話す。
そんな話を聞きながら黙って飲むのも私流で、意外と心が休まる。
テレビでは誰かの豪邸が紹介されている。そういう番組らしい。
「こりゃすげぇや」
「しっかし、あるとこにはあるんだねぇ」
テレビには豪華な部屋の数々が映し出されていた。
こんなでかい家に、いったい何人で住んでいるというのか。
働いて働いて稼ぎ出した金で、結局こんな家を建てて、この家主は満足なのだろうか?
豪華な家を建て贅沢なものを食って着てそれで満足なのだろうか?
幸せを感じるのだろうか?
「ハワイとシンガポールにも家があるんだけど、あとエジプトにも一軒欲しくてね」
淡々と話す家主が幸せを実感しているとはどうしても思えなかった。
追い立てられているようだ。
社会の反対側には、共働きの家族の元、自分でも家族の重荷になっていると感じながら介護されひっそりと生きる老人や、貧しさの為に塾さえ通えない子供たちが大勢いる。
そういった人達よりは幸せという事なのだろうか?
金のあるなしが幸せの基準なのか、やっぱり。
人の幸せって金なんかで満たされるものなのか?
じゃぁ、いくらあったら幸せなんだ?
ぼんやり考えていると、店の戸が開いた。
「こんばんは」
井口だ。
「あら、いらっしゃい。」
「先生どうも」
「あ、どうも」
私の隣に座る。
「今日は、早くないですか?」
「ええ、こういう日もたまにあるんですよ」
「そうなんですね」
いつものように生ビールを頼む井口は少し疲れているように見えた。
「どうしました? 疲れてますね、今日は」
「ええ、そう見えますか?」
笑顔にも元気がない。
「仕事で何かありました?」
「いえそうじゃなくて」
「何があったか分からないけど、まぁ酒飲んでリセットしてくださいよ」
「はい」
暫くテレビに映る豪邸を見ながら無言で飲んだ。
先ほどとは違う家が紹介されていたがこっちも相当すごい。ベッドルームが3つもある。
その番組が終わると、井口は言った。
「こんな家に住んで幸せなんですかね?」
「ん?」
「夢だったのかな、豪華な家に住むなんてことが」
「そうかもね」
と私。
「でも、もう住んじゃって、夢叶っちゃいましたよ。あとどうすんだろ」
「もっといい家建てるんじゃない? ハワイとかシンガポールとかに」
私は笑いながら言った。ママも笑った。
「家を建てるために生まれてきたのかな」
井口は言った。
私は苦笑した。
同じような事を考える奴だ。
人は、欲しいものを求めて頑張るし欲は原動力だ。
でも、それがモノだったり地位だったりすると、それが手に入った時人はどうするのだろう。そこから先は?
もっと違うもの、もっといいものが欲しくなるのだろうか。
欲は際限がない。
それを原動力に生きるのは疲れるだろうな。
「先生、私、どうしたらいいか、ほんとに悩んでしまって…」
見ると、苦しそうな顔にさえ見えた。辛そうだ。
それを見たとき、何故か私も胸が苦しくなった。
「そうか、そんなに悩んでるんですね」
「ええ、ほんとにどうしたらいいか」
何か力になりたかったが、何しろ井口は本当の事は言わない。会社の機密保持契約か何かなのだろうがアドバイスのしようもない。黙って話を聞いてやる事さえできない。
私は無力だ。
「井口さん。ちょっと場所変えない?」
「はい?」
「少し二人で話そうか。別のところで」
「は、はい、いいですけど」
「ママ、ちょっと出かけてくるよ。また戻ってくるから、ここ、このままにしといて。あ、お客さん来たら片づけて良いから」
「あら、はいはい、いってらっしゃい」
こういうことが出来るのも田舎で馴染みの店のいいところだ。
井口を、歩いて二分の所にある別の居酒屋へ連れて行った。
そこは、先ほどの店より広く、二十人くらいは座れるだろう長いカウンターがある。
ここもママが一人でやっているので、混んでくると注文された料理を作るのにママは手いっぱいになる。
カウンターの前に常時ママがいる事もなくお客は顔見知りでばかりではない。
だから内輪の話ができる。
タル杯を二つ頼んで飲み始めると、私は話した。
「あのね井口さん。あなたの悩みを私はどうすることもできない。でも、なんか力になりたいと思ってるんだ」
「それは…ありがとうございます」
井口は頭を下げた。
「いや、そんなことをするようなものじゃないよ」
「いえ、ありがとうございます」
また言う。
「これが、あなたの悩みを解決する参考になるかどうかは分からない。でも、こんな人間もいるんだと知ってくれれば少しは気も楽になるかもしれないと思ってさ」
私は言った。
「これから言う事は井口さんにしか言わない。だから誰にも言わないで欲しい。それでもいい? 男の約束できます?」
「はい、分かりました。できます」
井口は真剣な表情をした。
何故、私が会って間もないそれも素性も定かでない男に自分の事を話す気になったのかは分からない。
もしかすると、言葉に出すことで自分自身の今の状況を自分で確認したかったのかも知れない。
それから私は、これまでの半生、私のしてきたこと、銀行での栄光、非道、挫折、無為な日々、今の隠遁生活、そしてその気楽さを捨てきれず山田の話に悩んでいる事、それらの全てを、まるで自分に語りかけるように話した。
井口は一言も口を挟むことなく黙って最後まで聞いていた。
話し終わるころ、何故なのか涙ぐんでいるように見えた。
「こんな最低の人間だっているって事さ」
私が言うと
「ありがとうございます。ありがとうございます」
深々と頭を下げ、今度は本当に泣いていた。
「おいおいなんで泣くんだよ。泣きたいのはこっちだよ」
私は笑った。
涙を拭きタル杯を一杯飲んで落ち着いた井口は、この店に来る前とは明らかに違う表情をしていた。
それは何かを知ったというより安堵の表情に見えた。
それから私の過去の話には一切触れず他愛のない話をし、前の店に戻った。
戻った時には客も入れ替わっていてカラオケも始まっていた。
戻った時の井口の顔がその前とあまりに違うのでママは驚いていた。
「何? なんか良いことしてきたの?」
「それは秘密です。でも先生に救われました」
「救うとか、そんなんじゃないよ。少し話をしただけだよ。それより熱燗頂戴」
「あ、私から先生に一本お願いします」
おごってくれるらしい。
「え? ありがとね」
カラオケで賑やかな雰囲気の中、いつも通りの時が流れ、その日も終わろうとしている。
井口は私の話の中に何か参考になるものがあったのだろう、すっきりした顔をしている。それならそれでよかった。これでいい。
しかし、私はと言えば、まだ決められない自分を蔑んでいた。
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