第6話
翌日は、仕事で少し疲れたので、そのまま帰って寝てしまおうかとも考えたが、やはり少しだけ飲んでいこうと思い直し、件の居酒屋へ顔を出した。
店にはママと村上だけがいた。
「あ、先生、待っててよかった。昨夜はお世話になったみたいで、いや、申し訳ない。あんまり覚えてなくってね。なんか誰かに起こされて助けられたような事はうっすら分かるんだけど、今ママから顛末を聞きましてね。いや、お世話になった、ありがとう」
「いやいや、私っていうより皆で起こしたんですよ。それより…」
目を疑うという言葉はこういう時の為にあるのだろう。
あの、額の傷がない。
それどころか老人特有の額の皴さえも無くなっている。
つやつやな肌になっている。
「えっ…」
「でしょう?」
とママ。
「びっくりよね。どうしちゃったのって感じ。でも、村上さん、怪我したの覚えてないって。転んだのは覚えてるのよね?」
「ああ、転んだのは覚えてる。足がついていかなくなって前に転んで、頭からイったのは覚えてるんだけどねぇ。それで誰かに起こしてもらった。でも、血が出たとか怪我したとかはねぇ。実際怪我もないし傷もないしね。さっきもみんなに言われたんだけどサッパリ分からんのですよ。担がれてるのかななんてね」
「いやいやいや、本当ですよ。額にかなりの擦り傷あったんですよ。血も結構出てた。それを僕がティッシュで拭いて、井口さんがなんか、あっ」
そうだ、なんか変なもの、変な湿布貼ったんだ。
「井口?」
「あの新しいお客さんですよ、昨日村上さんと話してたじゃないですか」
「ああ、あの若者か、あの人も助けてくれたの?」
「ええ、なんか貼ったんです。あ、そうだママ、昨日のティッシュ捨てた? 血の付いたヤツ」
「うん、さっき見せたわよ。それでもまだ信じられないって。みんなで騙してるんじゃないかって言って、ねぇ村上さん」
「うん、でも、先生まで言うならそうなのかねぇ。でも、一晩で治るもんかい? 顔の傷って?」
確かにそうだ。そんなことは有りえない。いったいどうなってるんだ?
「井口さんは?」
ママに聞く。
「今日はまだ来てないわよ。そろそろじゃない?」
「来るの? 今日」
「あの人、先生ファンだから、先生に会いに来るわよ、きっと」
「なにそれ」
「それになんかね…二人、似てるわよ」
「どこがっ。全然違うし」
「ううん、なんか、なんて言うのかしら、なんか座ってる雰囲気とか、後ろ姿だとか、なんかね。似てる」
「えー、背も違うし、全然違うじゃん。やめてよ」
背は、井口の方が高かった。
「違う違う、なに、雰囲気っていうの? そう、なんか、おんなじ空気よ」
「へいへい。そうですか」
諦めた。
そんなことを話していると、玄関が開いた。
「ほらね」
本当に井口が入って生きた。
「こんばんは。あ、先生こんばんは。村上さんこんばんは」
私が口を開く前に村上が言った。
「いやいや、昨日はお世話になったみたいで、申し訳ない。貴方も助けてくれたそうですな」
「あ、いえ、助けたのは先生で。あ、どうです傷の方は?」
村上に近づいて額を見た。
「うん、だいぶいいですね。明日には元通りになってますよ、皴もでてくる」
呆気にとられて見ていた私は、やっと言葉が出た。
「なにそれ?」
「えっ? 何ですか?」
「だから、昨日何貼ったの?」
「人工皮膚ですよ。昨日言いませんでした? 最近は消炎鎮痛剤入りがあるんです」
「いやいやいや、人工皮膚って…、なにそれ?」
「あ…」
井口の目が少し泳いだ。
「あの、だから、今開発中のものなんです。新製品です。これ。私、知り合いがいて、たまたまもらったんです。だから持ってたんです。まだ、お店では売ってません」
何だと? そんなの嘘だろ? え? どういう事だ?
少し変な沈黙があり、ママが言った。
「じゃぁ、村上さん、運が良かったのねぇ」
「ほんとだほんとだ。へえ、こういうのができるんだねぇ。これじゃ、もう医者がいらなくなるなぁ、ほんとに」
「ね、怪我したの嘘じゃなかったでしょう?」
「うん、そうかそうか、分かった分かった。そういうカラクリか。やっと分かった」
えええ? そういう話でまとまるのか? それ違うだろ?
こんなの大発明じゃないか。えええ? 本当なのか? この話。
「それより、ビール下さい」
井口が話題を変えるように少し慌てて言った。
なんとなく、いや完全にしっくりこないまま私も飲んだ。
それでも飲んでいくうち、そういう事もあるのかなと思い始め、井口は、どこか最先端の研究機関で働いているのかも知れないなと考えたりした。
だから自分の事はあまり言えないのか。
まぁ、昔から天才的に頭のいい人はどっか変わってるから、井口の時々見せるおかしな言動もその類のもので、私のような凡人には理解できないのかも知れないな。
まぁ村上の傷も良くなったんだし、もうどうでもいいや。
「先生、昨日は話聞いてくれてありがとうございました。変な話してすいませんでした」
「え? あぁ、変な話じゃないよ、昨日のSFの例えは。井口さんがとても悩んでる…っていうか、迷ってるのかな? という事も分かったし」
「ありがとうございます」
「で、結論は出せたの?」
「いいえ、まだ迷ってます」
「そう」
「迷ってる原因てなんだろうね? それは分かってるの、自分で」
「それも、今一ハッキリしないんです」
「昨日の喩え話からすると、相当なリスクを背負うってことになるんでしょ? 下手すりゃ命の危険もあるような」
「そうですね」
「それをやろうかどうか迷うってのは、その見返りも相当なものがあるわけだ?」
「見返り…ですか」
「ハイリスクハイリターンの一発大勝負に出るかどうかって話じゃないの?」
「うーん、それはちょっとニュアンスが違うような…。そんな風に考えたことは無かったですね。見返りって、それはあるのかな? 敢えて見返りって言うなら自己満足かもしれません」
「自己満足って…。そうか、じゃあこういうことか。つまり井口さんは何か永年の夢みたいな事、やりたいことが有った。そして偶然にもそれができるチャンスが巡ってきた。そしてそれは危険な事だがそれだけにやってみたい気持ちも強い。ゾクゾクする感じかな?」
「あー、そういう事なんでしょうか。でも、今になるまでそんなことしたいとは思って無かったんです。ただ、何か自分は今の仕事とは別のやるべき事があるんじゃないかとはずっと思ってて、今がその時かなという感じなんです。やりたいというより、やるべきだみたいな感じでしょうか」
「ほう、そういう感じなのか。やりたい事じゃなくてやるべき事…か」
私は少し考えた。
やりたい事をして生きるのとやるべき事をして生きるのと、二通りの生き方があるということか。
いや、そんなにきれいに区別できることじゃない。
やりたい事もやるべき事も両方あるのが人間だろう。
その二つの割合の問題だ。それで生きざまが違ってくる。
やりたい事重視で生きていくのと、やるべき事を中心にして生きていくのとだったらどっちが充実しているだろう?
やりたい事を自由にやっていくのは楽しそうだけど、やるべき事をやれたらそれはそれで責任を全うした充実感があるだろうな。
でも、やるべき事ってなんだ?
仕事で命令された事なんかじゃなくて、「自分がやるべき事」なんてどうしたら分かる?
「井口さんは、それが、どうしてやるべき事だと思うんです?」
「うーん、分かりません。なんとなくです。自分がやるべき使命なんて分からないじゃないですか。自分が何をするために産まれたのか分かったらすごくいいですよ。悩まなくて済むし」
やっぱりな、私もそう思う。
「どうして私はそんな危ない事を自分からしようと考えるのか、確かにそれは未来を背負う子供たちの為に誰かがやらなきゃならない事ですけど、なんで他の人にやってもらうのじゃなくて自分がやろうなんて思うのか、どうして自分のやるべき事だと思うのか、それも分からないんです。そしてもうあまり決断の為の時間も残ってません」
「そうなんだ。決めなきゃならないんですね?」
「はい」
「どっちかに決められそうですか?」
「分かりません。でも決めないという事は、何もしないで今のまま生きていくという事に決めたことになります」
そういう事だな。
「数学の問題を解くようにはいきませんからね、こういうのは。正解というのがない」
と言ったあと、私は少し思った。
いや、正解はあるのかも知れない。
問題の解法が分からない為に正解が分からない。だから正解は無い事にして解くこと自体を諦めてしまっているのかもしれない。
自分の選択が正解だったのか間違いだったのかは、後になって、例えば死ぬ時とかになってハッキリ分かるのか…これは辛い話だな。
正解を出せなくても、今の自分のままでいいのかどうかと、井口のように悩んで悩んで悩みぬくことは大切な事かも知れない。
自分は今、やりたい事とやるべき事とどんなバランスで生きているのか自分で自分を見直すのは必要だとつくづく思う。
そうしないと後で酷い事になる。
「正解…ですか…。あるんだと思いますよ、きっと」
井口がぽつりと言った。
私は、2本目の酒を頼んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます