第2話
翌日、いつものように居酒屋へ行くと、昨日の「新顔」が既にカウンターで飲んでいた。
小上がりでは、若いカップルがカラオケを歌っている。
常連客も三人ほどでまとまり、小上がりに陣取っていた。
結局カウンターは昨日の「新顔」と私の二人になった。
二つ席を空けて座る。
「先生、お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
いつものようにママと挨拶し、いつものように生ビールを頼む。
この店のお通しは三品。
今日のお通しは、竹輪の入った煮物、マグロ山掛け、そしてピリ辛い昆布の佃煮だ。
ビールを飲み干し熱燗を頼むころ、その新顔は話しかけてきた。
「『先生』なんですか?」
来たか。
私は若干緊張した。昔の私を知る人間だろうか?
「ええ、まぁ、塾の講師ですよ」
「塾…。ええと、ああ、塾ですか」
ママが寄ってきた。
「そう塾の先生。人気があるのよ。良いわよねぇ、人に何かを教えたりできる人って」
私が、初めての客に警戒心を持つ事を知っているママがフォローに入る。
「うちの孫も近くにいたら先生んとこに通わせたいんだけどね。今は遠くにいるからねぇ」
「ママ、そんなに持ち上げないでよ」
「だってね、なんか子供が喜びそうな珍しいものなんかを仕入れて、見せたりしてるのよね? こないだも手品のネタみたいなの見せて子供たち大喜びだったって言うじゃない。ね、先生」
また、余計なことを言う。
「塾…。子供に勉強を教えているんですね? いいお仕事ですね」
「いや別に。子供相手に阿漕な商売してるってとこです」
なんだ? 塾講師を見るのは初めてみたいな反応だな。最近は学校の数より塾の方が多いくらいなのに。
「で、あなたは何を?」
聞いてみた。
「え? 私? ああ、ええと、その、そうですね。まあ、いろいろと…」
なんだ、言いたくないのか。
言いたくないことはそれ以上聞かない。それは「飲み道」の基本だ。
「この近くにお住まいですか?」
「ええ、ホテルに泊まってます」
ホテルだって?
一番近いビジネスホテルでも電車で二駅あるぞ。そこからここに飲みに来たのか?
この、なんでもない居酒屋に?
私は、疑いを深めた。
「この店をどうして知ったんです? 誰かの紹介ですか?」
「いえ、なんとなく。いや、ある確信を持ってというか、ここに来るべきだと思ったんです。何故かは分かりませんが、でもそれも分かる気もします」
何を言ってるんだ、こいつは。
こんな会話をしていても埒が明かない。まずはハッキリさせよう。それからじゃないと何も話せない。
私は体を新顔の方へ向け、目を合わせて言った。
「お客さん、もしかして私の事知ってる方? 以前、会った事ありましたっけ?」
彼は一瞬キョトンとした顔をし、それから何か言いたそうな表情をしたが、すぐ思い直したように言った。
「いいえ、昨夜初めてお会いしましたよ。何か気にされているようですが、私はあなたと会うのは初めてですよ」
私は、しばし彼の目を見た。そしてその言葉を信じることにした。
「そうですか、失礼しました」
「いいえ」
安心はしたが、気まずい雰囲気になってしまった。
でも、かまわない。
私は心を閉ざして生きていくのだ。
カウンタ―の正面を向くように座り直し、猪口を口に運んだ。
「仕事はお忙しいですか?」
話しかけてきた。
「まぁ、そこそこですね」
こういう質問が一番答えにくい。
どうしたってありきたりの答えしか答えられない。
「ママさん、ビールと、それから一つワガママきいてもらえないですかねぇ?」
昨日来たばかりなのに、結構気さくにママに話しかけている。
「はい? 何かしら?」
「刻んだネギと生姜すりおろしたのと、テルリのみじん切り混ぜたやつ作ってもらえませんか? ただ混ぜるだけでいいんですけど」
ネギと生姜と…テルリ? テルリって言ったよな? テルリってなんだ?
「テルリ?」
ママにもそう聞えたようだ。
「あっ、テルリ無い? あ、じゃあ、じゃあ、ネギと生姜だけでいいです。いいです」
ママは、少し驚いたように私の方を見て笑った。
おいおい、テルリなんてのは知らないが、その薬味の盛り合わせは私の専売特許だぞ。
それをつまみに酒を飲めるよう、私が裏メニューに加えてもらったんだ。
私の場合はテルリなんてものの代わりに茗荷を加えてもらう。それに醤油をちょっと垂らすと、これは絶品だ。でもテルリってなんだ?
「茗荷入れてあげようか?」
「茗荷? あ、ああ、お願いします」
「ママ、それ僕にも一つ下さいよ」
と私は言った。
「あれ? 先生も好きですか? 薬味」
もう先生なんて呼ぶのか。
「うん大好物でね。だから、同じような人がいるなと驚いたところなんですよ」
「そうなんだ。そうかそうか、そういう事か」
何を一人で納得してるんだ、こいつは。
そうだ、
「あのっ、そのテルリとか言うのはなんですか?」
「あっ、いや、その、薬味みたいなもので、ええと、私、少し外国にいたことがあって、そこで、その、食べたことがあって、んで、こっちにもあるのかな? なんて勝手に思っちゃっただけです」
そんなに必死になって言わなくてもいい。
「そうなんだ。初めて聞いたよ」
小皿にこんもりと盛り付けられた薬味の山に醤油を垂らして混ぜ、それをつまみに飲み始めた。
酒を飲みながらつらつら話すと、食べ物の嗜好が薬味以外もなんとなく似ていた。
そんな事をきっかけに、その日はこの「新顔」とよく話した。
と言っても、もっぱら差し障りのない世間話だ。
本当はとても大事だが、その日を生きる庶民にはどうでもいいという事を、世間の酔っぱらいと同じように話して、その日は終わった。
それでも、その夜話した事で、その新顔が「井口」という名前である事、あまり世間の事を知らない感じでどちらかという聞き役に徹する方である事、酒は弱くない方である事が分かった。
そして、井口本人の事について何か尋ねても、決して要領を得た回答は得られないことも分かった。
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