第37話

 ***


 ついに金曜日を迎えた。教育実習の最終日だ。

 昨日の騒動が嘘みたいに平和だった。いつも通りの業務を一通りこなして、一ノ瀬の研究授業を見学した。明るい一ノ瀬らしい、笑顔の絶えない授業で、生徒たちの作曲は想像よりレベルが高く、驚かされた。例にもれず、授業後の検討会はダメだしの嵐だったけれど、特に教科指導教員である音楽の静先生が容赦なく質問していて最後のほうになると一ノ瀬はへとへとになっていた。静先生の愛の鞭を乗り越えて、一ノ瀬の研究授業は検討会を含めて何とか無事に終了した。

 六限目が終わって、最後のホームルームではクラス委員が色紙の寄せ書きをプレゼントしてくれた。そのあとの部活動に行くと、昨日は急遽部活が休みになったことで、事情を知らない部員たちに色々質問された。適当にはぐらかして、最後の部活を楽しんだ。活動後、美術部の有志で描いたというイラスト入りの色紙や手紙をプレゼントされた。別れが寂しいと泣いてくれた生徒もいて、胸がじんわりと熱くなった。教員の労働環境の悪さが取りざたされている昨今だけれど、先生たちが頑張れるのはこういう喜びの積み重ねがあるからなのかもしれない。

 職員室で実習日誌に管理職の判子をもらい、全員で先生方にお礼のあいさつをして教育実習の全日程が無事に終了した。

「教育実習お疲れー!」

 飯森が元気いっぱいの声で解放感たっぷりに叫ぶ。帰り支度するために小会議室に戻ってから、飯森と一ノ瀬と三人で教育実習の終了を喜び合った。

「いや、本当にお疲れだよね、特に澤村さんと一ノ瀬くんは。あんなことがあってさ……」

 あはは、と私は苦笑いして頭を掻いた。

「教頭先生の事情聴取が長かったね、一ノ瀬くん……」

「うん、本当に長かった。いじめの対応に正解はないけど、今回はどうすればよかったのかっていう道徳の授業延長戦みたいなのまじできつかったな……勉強になったけど、教頭先生怖すぎて」

「まあ、何はともあれ、無事に単位もゲットしたし、これで卒業時に教育委員会に書類を出せば教員免許取得だよ!卒業できる、嬉しいー!」

 教育学部の飯森は教員免許取得が卒業要件なので、ほっと一安心していた。卒制がまだ終わっていない美大生の私は安心どころかこれからが地獄が待っている。恐ろしいので、これ以上は考えないように思考に蓋をした。

「二人はすぐに東京戻っちゃうんでしょ?」

「うん、大学のゼミがあるからね」

「私も卒制がやばいからすぐ帰らなきゃ……」

「寂しいなあ。でも二人と一緒に実習できて本当に良かったよ。地元に帰って来る時があれば飲みに行こうよ。いつでも連絡してね!」

 飯森は私の手をぎゅっと握って「絶対だよ」と念押した。

「うん、もちろん。飯森さん、色々助けてくれてありがとう」

 私は感謝を込めて深々と頭を下げた。飯森も同じように頭を下げて笑う。

「こちらこそありがとうだよ!じゃあ、あたしは先に帰るね。今日も姪っ子のお迎え頼まれててさー、あ!時間やばい!じゃあね!」

 飯森は腕時計を見て、大騒ぎしながらバス停に走っていった。彼女は最後まで元気で賑やかだった。

「俺達も帰ろうか」

「うん」

 一ノ瀬と一緒に戸締りをして、鞄を持って小会議室を出た。長いことお世話になった部屋だけれど、誰もいなくなると妙に広くて寂しく見えた。誰もいない部屋に一礼して、そっと扉を閉めた。

 玄関に向かって一ノ瀬と校舎を歩きながら、私は彼に思い出したように尋ねた。

「聞きそびれていたんだけど、説明会の日のこと動画に撮っていたんだね?」

 私に問われると、一ノ瀬は途端に顔色が暗くなった。

「……ごめん、もっと早くあの動画のことを言えば良かった。あの動画だけでも、佐々木を実習中止に追い込むには十分だっただろうし」

「私が大事にしたくないって言ったからでしょう?多分、動画の存在を聞いても、私はやっぱり隠したと思うから」

 多分、と言うよりは絶対そうしただろう。もしくは、動画を消してしまっていたかもしれない。自分がいじめられているなんて証を、残したくはないから。

「でも動画の存在は言っておくべきだった、それは本当にごめん。もし、あまりに酷い嫌がらせが起こったら、澤村さんには秘密であの動画を出して管理職の先生に裏で報告するか、佐々木に警告しようかと思ってたんだよ。そうしたら想像以上の事態が起きて、俺も頭に血が上ってみんなの前で動画を……嫌だったよね。自分が殴られているところを他人に見られるなんて」

「まあ……愉快なことではないけど。でも、私も立場が逆ならあの場でああしたかもしれない。だから、謝らないで。私のことを想ってしてくれたってちゃんとわかってる。本当に感謝してるんだ」

 背の高い彼を見上げて、私は心からの笑顔を向ける。この感謝がちゃんと伝わるように。一ノ瀬は私をじっと見つめて、徐にこちらに手を伸ばす。その指先は吸い寄せられるようにそっと私の髪に触れた。ピアノを弾くために手入れされた綺麗な指先は私の髪を弄ぶように掬い上げる。ただ、その仕草を見ているだけなのに、心臓が痛いくらい高鳴った。彼は何か言おうと口を開きかけた。けれど、その時、私のポケットの中で携帯電話がぶるぶると震えた。

「あ……で、電話だ!」

 上擦った声が出て、私は一歩下がる。ポケットから振動している携帯電話を取り出す。画面を見ると、高岡先生の名前が表示されていた。私は慌てて電話に出る。

「はい、澤村です!高岡先生、どうしたんですか⁉」

「香さん、まだ学校にいるかい?準備室を掃除していたら君の作品が発掘されてねえ……」

「え⁉私の作品ですか?分かりました。まだ校内なので、すぐに伺います」

 電話を切ると、私は急いで美術準備室に向かった。一ノ瀬も絵が見たいと言って一緒にくっついてきた。二人とも先ほどのことは何も触れずに、何もなかったみたいに普通に歩いた。美術準備室の前まで来て、ドアをノックすると高岡先生の「どうぞ、どうぞ」という声がした。

「失礼します」

 扉を開けると、高岡先生の姿は見えないが、部屋の奥からガサゴソと何かを探るような音がした。

「香さん、呼びつけてすまないね。今持って行くから少し待ってくださいよ」

 段ボールの山の向こうから高岡先生の声が聞こえた。しばらくすると小さなキャンバスを持って先生は現れた。

「これ、香さんの絵でしょう?」

 長方形の、小さなキャンバスには飼い猫のとろろが描かれていた。

「ああ、そうです、私のです。うわ、懐かしい……三年生の文化祭の時に描いた絵です。四年前だから、猫も少し若いですね」

 笑ながら絵を受け取った。一ノ瀬は私の隣で絵を何度も覗き込むように見て、なんだか不思議そうな顔をしている。

「どれ、持ち帰りやすいように梱包してあげましょう」

 先生は準備室の備品を使って、手際よくささっと絵を梱包してくれた。私は梱包された絵を受け取ると、先生はさらに段ボールの山から何かを取って来た。

「そうそう、文化祭で使った、キャプションもあったんですよ。それも一緒にどうぞ、浜木綿さん」

 高岡先生は言いながら、日焼けして色あせたキャプションを差し出した。

「ハマユーさん?」

 一ノ瀬が疑問符をつけて首を傾げると、先生は「あ!」と叫んで額に手を当てた。

「すみません、今は澤村香さんでしたね。キャプションの文字に釣られてうっかり。教育実習が終わったら気が抜けてしまいましたね。申し訳ない」

「いえ、気にしてませんよ、先生。キャプションもありがとうございます。実習ではご迷惑をたくさんおかけしましたが、色々とありがとうございました」

 私が改めて先生に感謝を述べると、先生は高校時代から変わらない優しい笑顔で応えてくれた。

「これからも、元気で頑張ってください。機会があれば教育現場にまた来てくださいね。そして、どんな形でも、絵を描き続けてください」

「はい……本当にありがとうございました!」

 深く一礼をして、美術準備室を後にした。懐かしいこの部屋とも、先生とも今日で本当にお別れだ。切ないけれど、どこか晴れやかな気持ちになる。辛くて、苦しくて、大嫌いだったこの母校で、こんな清々しい気分になれる日が来るなんて思ってもみなかった。

 高校時代の忘れ物を、心残りを、大人になってようやく持って帰ることができたみたいだ。

「ねえ、ハマユーさんって前の名字なの?」

 再び玄関に向かって歩きながら、一ノ瀬が私に尋ねた。

「うん、そうだよ。高三の二学期までは浜木綿香だったんだよ」

「ハマユウカオリさんか……澤村香さんからスタートした俺にはちょっと新鮮な響きだな。別人みたいだ」

「ふふふ、何それ」

「珍しい名字だよね。どんな字を書くの?」

「えーっとねサンズイの浜に、次は木なんだけど普通のキで」

「普通のキって何?ユウはどこ行ったの?」

「いや、だから三文字の名字で、えーと……ああ、もう、どうしよう、説明すごく下手だ。あ、そうだ!」

 説明に苦慮している内に生徒玄関の前まで来ていた。私はそこで思いついて立ち止まると、もらったばかりの古びたキャプションを取り出した。そして、それを一ノ瀬の前に掲げよるように見せた。

「漢字三文字で浜木綿って書くんだよ」

 浜木綿香。

 キャプションには私の昔馴染んだ名前が印刷されている。

「え……」

 キャプションを見せると一ノ瀬は、石みたいに固まった。動揺した様子で、キャプションの名前を何度も確認する。

「嘘、本当に……?これ、ハマユウって読むの⁉」

「うん、植物の名前なんだって。ていうか、そんなに驚く?」

「だって……だって、俺はずっと、ずっと……浜木綿香を、ハマキメンカって読んでたんだ」

「ハマキ……?え、何の話?」

「ここに飾ってあったでしょ⁉」

 一ノ瀬は生徒玄関前の広々とした壁を指差す。そこには美術部員で、今年県の美術展で受賞した作品が掲げられている。この壁には毎年、美術部の絵の中でもコンクールなどで賞を獲った絵が飾られるのだ。高校生の時、私の絵もここによく飾られていた。

「ハマキメンカ……いや、浜木綿香の絵が飾ってあった。俺は君の絵に救われて、ずっと浜木綿香に会いたかったんだ!」

 私は事態を飲み込めずに、目をぱちくりさせて瞬きを繰り返す。

「ほら……俺の携帯の壁紙見てよ!卒業してからずっとこれだよ⁉」

 一ノ瀬は携帯電話の画面を私の目の前に突きつける。端末のロックを解除していない、時刻が表示された状態だ。その壁紙は、私のよく知っている画像だった。

「これ、私の絵……どうして?」

 困惑した顔で私は一ノ瀬を見つめ返す。彼の携帯電話の壁紙は、私が高校三年生の時に描いた絵だった。タイトルは、幸せな記億。

 今、立っているこの場所に四年前、その絵は飾られていた。



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