第38話

***

【一ノ瀬律、高校三年生の話】


 妹の凛が不登校になったのは、十歳の時だった。

 俺が高校生になったばかりの春だった。それは突然のことで、最初は理由も分からず、部屋に閉じこもる妹を家族みんなが心配した。しばらくして、妹の不登校の原因はいじめだと分かった。原因が分かったところで、学校にいけるようになるわけではなく、いじめっ子たちが親と共に形だけの謝罪をしに来て、それで終わりだった。妹は学校に行けることはなく、一日中ベッドに潜っていた。そうして、部屋から出てこないまま、妹は六年生になった。

 何かできればいいのに、学校に行けなくなった妹に俺は何もしてやれなかった。どんどん塞ぎ込んでいく妹を見るのが辛かった。妹の不登校の原因がいじめだと親から聞いた時は形容し難い怒りに身震いした。歯がゆい気持ちを抱えながら、笑顔が無くなった妹を心配するだけの日々が過ぎていく。

 進展もないまま、俺は高校三年生になっていた。

「本当に進路はこれでいいのか?」

 三年生になって最初に配られた進路希望の用紙。俺が書き込んだ志望校を眺めて、父は俺に何度もそう尋ねた。進路希望の欄には地元や隣県の大学の名前を書き連ねた。俺はこれでいい、と繰り返した。

「律、あなた……音大に行きたいんじゃなかったの?あなたは、あなたのやりたいことをしていいのよ」

 母は、哀しい顔をして言ったけれど、気付かないふりをした。子供のころからお世話になっていたピアノの先生にはがっかりされた。ピアノ教室には高三になっても通い続けていた。

 幼少、俺は身体が弱かった。サッカーや野球ができない代わりにピアノを習った。ピアノ教室の先生が教え上手で、ピアノが好きになった。身体が健康になってもピアノは習い続けた。妹の凛が生まれ、一緒に習えるようになると、凛と連弾したり、ピアノがいっそう楽しくなった。

 自分で曲を作るのも好きだった。初めは練習の息抜きに曲を作るだけだったが、いつの間にか嵌まって、空いた時間を見つけては作曲ばかりしていた。年の離れた妹は、俺が作る曲を楽しみにしてくれて、部屋は下手くそな楽譜だらけになった。生活の中に音楽があるのは当たり前になっていた。

 中学生になっても、高校生になってもピアノを続けた。最初は妹にすごいと言って欲しくて、ただ尊敬されたくて練習していた。思いの外、ピアノにのめり込んでいった。ピアノはただの習い事ではなくなった。コンクールにも出場し、それなりの成績を取れるくらいには実力があった。ピアノ講師にも音大進学を薦められ、ぼんやりとそんな未来を見始めていた。

 ある程度の年齢になると、どういう形であれ、音楽の道に進みたいと思うようになった。そこそこに勉強もできたので、周囲の薦めで高校は進学校に入学したが、音大という進路はずっと頭の中にあった。

 けれど、妹が不登校になってからは、その思いは徐々に薄れていった。

 県内に四年制の音大はない。進学するとしたら家を出ることになる。あんな状態の妹を置いて、一人だけ遠くに行って、大学生活を楽しむのは狡い気がした。音大に行きたいと思っていた。でも、音大に行って俺は何になりたいのだろう。何をしたいのだろう。自分よりピアノが上手い人はごまんといる。金だって普通の大学より高いかもしれない。ピアニストになる自分の姿を想像しても、現実味がなかった。

 そもそも、俺はピアニストになりたいのだろうか。

 音大に行くことが悪いことみたいに思えた。行かないほうが良い理由を探した。高三になる頃には音大に行くことは諦めていた。それでも、ピアノは辞められなくて、教室に通い続けた。家でもふと気が付くと新しい曲を考えている自分がいる。もやもやしながら、これ以上音楽のことを考えないように勉強した。地元の国立大の過去問、解けても解けなくても何も思わない。これでいいのかな、と思いながら学校で言われるがまま、ただ勉強していた。

 梅雨を迎えた頃、学校から家に帰ると玄関に妹の靴があった。靴は雨で少し濡れていた。驚いて、俺は慌てて靴を脱いで台所に急ぐ。夕飯の支度をしていた母の「おかえり」という声に被せて言った。

「凛、今日出かけたの?病院?」

 母は玄関の靴に視線を向けて「ああ……あれね」と困ったように笑った。母の浮かない顔が気になった。

「学校に行ったのよ、少しだけ」

「え、本当に?」

 思わず聞き返してしまった。凛は不登校になってから、病院以外で外出することはなかった。部屋から出ることさえも嫌がり、まともに顔を見せるのは母親にだけだった。

「本当よ。さ、手を洗って」

 洗面所を指差され、俺ははいはいと言って手を洗ってまた台所に戻る。

「どうして急に学校に行けたの?」

「担任の先生、熱心な方でね、家に何度も来てくださってたのよ。凛も最初はドア越しで、最近は顔を見せて話せるくらいに心を開いてくれてね」

 大根の皮を包丁でさっさと剥きながら、母親は話し始めた。俺は台所の椅子に座って母親の手さばきを眺めながら話を聞いていた。

「それで、学校に来てみませんかって先生が。初めは保健室や相談室で一時間過ごしてみるところからやってみませんかって提案してくれてね。凛も本心では学校に行きたかったみたい。先生の話を聞いて、じゃあ、行ってみようかなって」

 大根の皮をむき終わると、母は次に人参を手に取って、今後は人参の皮をむき始めた。俺は嬉しくなって「そうなんだ」と弾んだ声で言って、人参の横に控えていた玉ねぎを取って皮をむき始める。母はすっと生ゴミを入れる袋を俺の前に置いた。

「律に言うと心配しそうだから黙ってたのよ。凛もだめだった時、がっかりされたくないから律やお父さんには言わないでって言うし。今日はうっかり靴を片づけ忘れたわ」

「がっかりなんてしないのに。で、どうだったの?」

「先々週は家を出て数歩でダメだった。先週は校門まで行けたんだけど、学校を見たら震えてしまってそのまま帰ったの」

 母は皮を剥き終えた大根や人参をトントンと軽快なリズムで切っていく。

「……そっか。それでも今日も行こうとしたんだ。偉いな、凛。で、今日はどうだったの?」

「今日はね……すごく頑張ってた。でも、やっぱり、だめだった」

 母は手を止めて、哀しそうに小さな声で言った。

「学校の中に初めて入れたの。凄い進歩よ。保健室で、十分くらいかな。でも、近くの教室から女の子の笑い声が聞こえたの。何年生かもわからない。きっと、知らない子。でも、凛は女の子たちの声を聞いたら、真っ青になって、思い出しちゃったみたい」

 母は包丁を置いた。震える手をぎゅっと握りしめていた。

「それで、保健室で吐いてしまって……そのまま、帰って来たの。今は部屋で休んでるわ」

 聞いているだけで胸が痛くなって、何も言えなかった。母は言葉を続けた。

「帰りの車で、凛のこといっぱい褒めたわ。だって、頑張って、学校まで行けたんだから。でも凛はね、泣いてたの。悔しいって。お母さんも悔しかった。凛は何も悪いことしてないのに、どうしていじめられた側がこんなに苦しまないといけないのかな」

 台所に向かっている母の顔は見えないけれど、泣くのを堪えているのは声を聞けばわかった。俺も泣きたい気持ちだった。

「お母さんがこんなこと、言ったらだめだけど。六年生の、凜をいじめたあの子たちのいるクラスに行って顔を引っ叩いてやりたかった。お母さん、絶対……一生、あの子たちを許せないわ」

 俺は小さい声で「俺だって許せないよ……」と呟いた。母は暫く黙って、大きく息を吐くとまたいつも通り夕飯を作っていた。俺も黙って玉ねぎの皮を剥いた。

 四角いお盆に夕飯の豚汁と、野菜炒め、白米などを乗せて二階に上がった。妹の部屋の前に夕食を置いてノックする。

「凛、起きてる?夕飯、ドアの前に置いとくよ。食べられそうなら食べて」

 数秒間を置いて、内側からコン、とドアを一回小突く音がした。凜は起きているようだ。

「玄関に靴があってびっくりしたよ。今日、学校行ったんだってな。偉かったな」

 俺は無機質なドアに向かって話かけた。返事はなかった。

「昨日、ピアノ教室の祥子先生がお土産のクッキーくれたんだ。凜の分もどうぞって、凜の好きなチョコ味だよ。夕飯と一緒に置いとくぞ……じゃあ、兄ちゃん下に行くからな」

 立ち上がって、部屋の前を離れようとしたとき、小さな声がした。ありがとう、と本当に小さなか細い声がした。妹の声を聞いたのは久しぶりだった。何もできない自分が歯がゆくて、惨めで、悔しかった。

 

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