第33話

 教卓のすぐ横に、ノートパソコンが落ちていた。ちゃんと、教卓の上に置いてあったはずだ。学校の備品でもあるそのパソコンは床の上でひっくり返っていた。画面が割れて、飛び散っている。落ちただけで、こんな壊れた方をするとは思えない。そもそも、落ちるようなところに置いていない。

 どうして、ここまでするんだろう。絶望と怒りが綯い交ぜになって、私の思考も体も動きを止めていた。数秒して、時計を見あげた。もう数分でチャイムが鳴る。休み時間は十分間。あと十数分で、授業ができるようにしないといけない。私の授業は、基本的に板書は補助程度で主にスライド使って授業をする。それなしで、今から板書と口頭で授業をするには内容を授業大幅に変更しなければならない。その前に、学校の備品のパソコンを壊したことを報告しないといけない。

 一体、何から手を付けたらいい。焦りで頭が回らない。その場に座り込んでぐるぐると考えている内に、一時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。

 ああ、時間が無い。どうしよう、どうしよう。

「澤村さん!」

 後ろから声がして、振り返った。私にとって今、一番安心する声がした。声を聞いただけで、涙が込み上げてくる。

「……一ノ瀬くん」

 涙目で振り返ると、一ノ瀬は美術室に駆け込んできた。私の真横にしゃがんで、壊れたノートパソコンを見てわずかな時間、絶句した。すぐに時計を確認して、座り込んでいた私の手を取り、引っ張り上げる。

「しっかりしろ!あと十分しかないんだから、座ってる暇も泣いてる暇もないよ!」

 半泣きの私の肩をパンパンと叩いて、彼は私に喝を入れた。

「うん……ごめん、ありがとう!」

 目じりに溜まった涙を拭って、私は気持ちを切り替える。一ノ瀬は「ちょっと待って、誰か他にいないかな」と廊下を覗くと大声で叫んだ。

「あっ、飯森!ダッシュでこっちに来て!早く早く!緊急事態!」

 一ノ瀬が呼ぶと、タタタタと軽やかに走る足音がした。飯森が「どうしたの⁉」と美術室に飛び込んできた。

「ぎゃっ!何これ、何があったの⁉まさか……」

「確証はないけど、そのまさかだと思う。ちょっと不在にして戻ってきたら、こうなってたの」

「そんな……酷すぎる!」

 憤慨する飯森の横で一ノ瀬は「やっぱりか……」と呟いていた。

「とりあえず、授業できるようにするのが先決だ。飯森はここ片づけるの手伝ってあげて。澤村さんは高岡先生が来たら状況説明してね。俺は、情報室に行って代わりのパソコン借りてくるから!」

 一ノ瀬は言うや否や、教室を飛び出して走って消えていった。飯森に手伝ってもらって、壊れたパソコンの破片を片づけていると、高岡先生が戻って来たので急ぎ事態を報告した。先生はパソコンの無残な姿を見ると驚いて目を丸くする。

「どうしてこんなことに……いや、もう時間が無い。詳しい話は後にしましょう。今は授業が大事です」

 そのうち、副校長や教頭など管理職の先生がやって来て、高岡先生と共にパソコンのことを報告すると、教頭は言葉を無くし、副校長は怒り心頭で大声で「どういうことだ!」と怒鳴った。高岡先生が私を庇って「詳細は授業の後にしましょう」と宥めてくれるが、副校長の怒りは収まらない。お叱りを受けている間に、見学に来た実習生たちが教室に入って来る。叱られている私を見て、皆一様に驚いていた。ただ一人、佐々木を覗いて。

 佐々木はひどく愉快そうに、叱られる私を見て悦に浸った笑みを浮かべていた。

 休み時間が終わりに近づいて、生徒たちが教室に入ってくると副校長は仕方なく後ろへ下がった。

 ああ、もうすぐチャイムが鳴ってしまう。

 その時、廊下からノートパソコンを抱えた一ノ瀬が教室に戻って来た。ありがとう、と言いながらすぐに受け取って、パソコンを起動した。プロジェクターへの接続などを、一ノ瀬が手伝ってくれる。私は起動したパソコンで学内サーバーにアクセスして、念のため保存しておいたバックアップのデータを開いた。ようやく、スクリーンに授業用のスライドが映し出される。それと同時に始業を知らせるチャイムが鳴った。一ノ瀬は小声で「がんばれ」と囁いて、教室の後方に戻っていった。

 焦りと緊張で鼓動がうるさいくらい響いている。その早まる心臓の音は聞こえないふりをして、私は教卓に立った。深くすっと息を吸い込んだ。

「それでは、授業を始めます」

 何事も無かったかのように、穏やかな笑みを浮かべて言った。それが今の私に唯一できる佐々木美希への小さな反抗だった。

 授業が始まると、時間はあっという間に流れていった。

 出席を取り、前回の授業を振り返る。そのあとは、陰影のつけ方や、線のぼかし方など作品の仕上げ作業についてスクリーンで画像を見せながら、そして実際に実演もして見せて説明した。製作途中の作品を生徒に返却し、しばらく時間をとって作品を描き上げてもらう。その間、私は机間巡視をして、生徒の作品をチェックしながら、助言して回る。作品が仕上がると、座席の近い者同士で互いの作品を鑑賞する時間をとった。

 必死で授業をしている内に、時間はもう残り十分もなくなっていた。

「皆さんの自画像を見て回りながら、特に良いなと思ったものをカメラで撮影しました。恥ずかしいかもしれないけれど、勉強になるのでスクリーンに投影しますね」

 スクリーンに作品が映し出されると、作者の生徒は「俺のじゃん!」と照れ笑いする。

「吉田君の作品です。力強くていい線で描けていますね。絵の中の君は変顔してるけど、これはどうして?」

「んー……澤村先生が絵だから伝わることがあるって、最初の授業で言っていたから。自分らしさ、的な?そういうのを出そうかなって思って。描いてるとき、変顔キープしなきゃいけなくて、顔が筋肉痛になりました!」

 お調子者の吉田らしいコメントに生徒たちからどっと笑いが起こる。

「素晴らしい発想ですね。絵を描く過程も含めて吉田君のサービス精神旺盛なキャラクターが現れていていいと思います」

 次の画像を映し出すと、前の方に座っていた女子が恥ずかしそうに「やだ、あたしだ……」と迷惑そうに呟いて俯いた。映し出された作品は女子生徒が怒った顔で描かれていた。

「清水さんの作品です。ごめんね、恥ずかしいよね?でも、すごくいいなと思ったので、紹介させてください。清水さんの作品はすごく丁寧に描かれています。まつ毛の一本一本まで、よく観察して描いたのが近くで見ると分かりました。清水さんに質問なのだけれど、どうして怒っているのかな?」

 清水は恥ずかしそうに両手で顔を押さえていたが、躊躇いながら小さな声で答えてくれた。

「自分の顔が……嫌いだからです。ブスだから。絵だと加工できないし?」

「そっかあ……清水さんは最初の授業でも、鏡を見たくない、自画像嫌だなって言ってましたよね。でも、ここまで丁寧に描くにはきちんと鏡を見て、自分の顔を観察したと思います。描いて見て、心境の変化はありましたか?」

「ブスだなって実感が深まりました」

「え⁉う、うーん、そっかあ……」

 清水は本人が言うように決して醜い容姿ではない。けれど、彼女には容姿に並々ならぬコンプレックスがあるようだった。なんとコメントを返せばいいか、迷っていると「でも」と彼女は自分から言葉を続けた。

「先生、最初に言ってたじゃん?嫌になるくらい、鏡で自分を見てって。自分の知らない自分を見つけてって。それで、生まれて初めて鏡で自分の顔をじっくり見てたら、色々気付いたんだよね。あたしの鼻は母親に似てるな、とか。目は父親に似てるんだな、とか。口元なんかよく見たら、死んだばーちゃんにすごい似てるって初めて思って。自分ってこんな顔なんだ……ってなった」

 ぶっきらぼうに話していたけれど、彼女の表情が徐々に柔らかくなった。

「普通に自分の顔、あんまり好きじゃなかったけど、ずっと見てたらちょっとだけ自分の顔好きになれそうな気がした。ほんの少しだけど」

 彼女の話を聞いていると、嬉しくて頬が緩んだ。清水は私をまっすぐ見つめて、問いかける。

「澤村先生が言ってた、絵にして初めて分かることってこういうこと?」

 私は満面の笑みで「大正解です」と頷いた。

 辛かった今日の出来事が、この子の導き出したたった一つの正解で報われるような思いだった。

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