第32話

***


 木曜日、ついに研究授業当日になった。

 緊張して、いつもより少し早く登校した。そのおかげか、ロッカーにゴミは入っていなかった。昨日も、一昨日も室内履きはゴミまみれになっていた。昨日の嫌がらせで、佐々木も満足したのだろうか。そうだといいのだけれど。

 そんなことを考えながら、いつも通り一年生の教室に行って、朝のホームルームをする。ホームルームの後は、その足で美術室に向かった。研究授業は二時間目にあるので、授業の無い一時間目のうちに準備をする。いつもと違って、教室の後ろに見学の先生方が並ぶため、机の間隔を少し詰めて、教室後方の空間に少しだけゆとりを作った。生徒に配るプリントを教卓の上に用意し、パソコンとプロジェクターを起動してスクリーンに授業用のスライドを投影する。準備は万端だ。コンコン、と音がして振り返ると、教室の扉を律儀に一ノ瀬がノックしていた。

「澤村さん、おはよう」

 一ノ瀬は美術室に入って来ると、教室を見回す。

「おはよう、一ノ瀬くん。どうしたの?」

「いや、今日は澤村さんが研究授業だからちょっと心配で見に来た。昨日、あんなことがあったしね」

「今朝は珍しく何もなかったから、もう大丈夫かも。佐々木さんだって明日、研究授業のはずだし、私に嫌がらせしてる暇はもうないはずだよ」

「そうだといいんだけどね。俺も明日、研究授業だからちょっと緊張してる」

「一ノ瀬くんは、二年生のクラスで研究授業するんだよね?」

「うん、作曲の授業してるんだ。明日はその演奏会。結構、おおっと思う曲とかあってすごい楽しい。授業なのに、俺が多分一番楽しんでる自信ある」

「楽しそう、見に行くね。一ノ瀬くんは私と違って、先生に向いてそうだよね」

「そう?澤村さんも向いてると思うけど。真面目だし」

「真面目って言うか、要領が悪いだけだよ。ああ、どうしよう、緊張してきちゃった。私、大きい声出すの苦手だし、教室の後ろの先生まで声届くかな⁉」

「じゃあ、俺後ろまで行くから試しに話してみれば?」

 一ノ瀬は言いながら教室の後ろまで下がった。私は適当に教科書の文章を読んでみせる。

「どう?聞こえる?」

「んー、生徒がいるとざわつくから、もう少し大きい声が良いかな。あ、動画撮ったら分かるかも」

 一ノ瀬は携帯のカメラを起動して、教室後方の棚の上に置いた。私はもう一度、先ほどより声を貼って教科書を読んでみる。一ノ瀬のもとに駆け寄って、録画した動画を見せてもらった。

「あ、思ったより声が小さい……ていうか、私こんな声なの?なんか変……」

「自分の声を録音すると必ず思うよねー」

「緊張で無意識に髪の毛触っちゃってるのも気になるな。結んでおこうっと」

 私はヘアゴムで長い黒髪をさっと一つにまとめた。その様子を一ノ瀬がじっと見つめている。

「あの……見過ぎだよ」

「綺麗な髪に目が無くて」

「髪フェチだからってそんなまじまじと見ないで下さい」

「おろしてるのもいいけど、結んでもいいね。俺、もっとこう高い位置で結ぶやつ、ポニーテール?好きだな!」

「一ノ瀬くんの好みは一切聞いてないです」

 一ノ瀬と下らないやり取りをしていると、緊張が少しほぐれた。もう一回撮影しようか、と一ノ瀬が携帯のカメラを録画モードにして棚にセットしていると、準備室から高岡先生が顔を覗かせる。

「澤村先生、準備どう?おや、一ノ瀬先生もいたのかい」

 一ノ瀬は高岡先生にお邪魔してます、と会釈する。

「さっき、事務棟の方で音楽の静先生が君を探していたよ?」

「え、本当ですか!やべー、すぐ行かないとまたしばかれる!あー、何だろう?誤記でもあったかなー⁉それじゃ、澤村さん、頑張って!」

 一ノ瀬は大騒ぎしながら、音楽室へ駆けて行った。高岡先生は「騒がしい子だね」と苦笑していた。

「それで、研究授業の準備はどう。問題ないかい?」

「はい、後は私がちゃんと授業するだけです。それが一番、難題なんですけど」

「ははは、緊張しているね、澤村先生。失敗も成功も、今後の糧となりますよ。気負い過ぎずにね」

「……頑張ります」

「君の授業で描いている生徒たちの作品を見ましたが、良い作品が多かったですよ。自信をもちなさい。ああ、そうだ。研究授業で先生方に配る指導案をコピーしないといけないんでした。印刷したものはあるかな?」

「あっ、忘れてました、すいません!修正前のものしか、出力したものは手元になくて……」

「データは学内サーバーにあるんだね?じゃあ、職員室の共用パソコンで出力して、人数分コピーすればいい」

「分かりました。共用パソコンって、職員室のどのあたりにありますか?」

「ああ、ちょっとわかりにくい場所にあるからね、僕も職員室に用事があるから一緒に行こうか」

「すみません、ありがとうございます」

 一時間目が終わるまであと三十分しかない。高岡先生と美術室を離れ、職員室へ移動した。先生に教えてもらい、職員室で指導案を印刷し、コピーした。高岡先生は、管理職に呼ばれて話し込んでいたので、私は先に指導案の束を抱えて、職員室を出た。腕時計を見ると、あと十分ほどで一時間目の授業が終わる時間になっていた。私は急ぎ足で美術室に戻った。

 教室に入った瞬間、何かを踏んでじゃり、と不快な音がした。ぞっと、肌が粟立つ。下を見るのが怖い、でも見ないと。恐る恐る視線をゆっくりと足元に落とす。小さな硝子の破片のようなものが散らばっている。視線を横に動かして、すぐに悟った。

 ああ、私は油断していたんだ。

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