第21話

***


 教育実習は二週目に突入したが、私は平和な日々を過ごしていた。

 週末は疲れで泥のように眠り、週明けはまたいつも通り実習に勤しんだ。流石の佐々木美希も、実習が本格的に忙しくなった二週目からは私へ嫌がらせする余裕はなくなったようだった。実習が始まってからようやく安心して学校で過ごせるようになっていた。このまま、何事も無く実習が終わってほしい、そう願いながら忙しく日々は過ぎていく。

 その日、私は午前の授業を何とか無事に終えて、珍しく学食へ向かった。今日は弁当を持って来なかったので、生徒の群れに混ざって学食に入る。授業などで顔見知りの生徒や、野球部やらダンス部やらの物怖じしない生徒たちが「何食べるの?」「先生、何歳?」「彼氏いる?」と次から次へとお決まりの質問で話しかけてきて注文どころではない。学食の隅っこの方で座ってうどんを啜っている中年の先生が、頑張れと言うように微笑ましい視線をくれて軽く会釈した。生徒に囲まれてどうしようかと困っているところへ、他の先生方がやってきて「実習生に群がらない!」と一括し、助け船を出してくれた。そのおかげで生徒たちは「先生、バイバーイ!」と言いながら散っていき、何とか券売機に辿り着けた。定食、カレー、うどん、そば、ラーメン。学生の頃と変わらないメニューが並んでいる。

「どれにするの?」

 真後ろから声がしてびっくりして振り返ると、ネクタイが目の前にあって、視線を上げる。背の高い一ノ瀬が、にこにこと笑顔で私を見下ろしている。

「一ノ瀬くんも学食?そう言えば、お昼はいつもいなかったね」

「うん、日替わり定食が安くて美味いから。あと、おばちゃんに頼むと大盛にしてくれるし。高校の時もずっと学食だったよ」

「一ノ瀬くんは学食にいそうな人だもんね……」

 今はどうか知らないが、私が高校生の時分は、この学校の学食はスクールカーストの上のほうにいる人々が集う場所だった。私のような暗くて友人もほとんどいないような人間は、弁当を忘れない限り学食に積極的に訪れることもない。近寄りがたい場所だった。

「私はお弁当派だったから学食なんて数えるくらいしか使ったことないんだけど、定食がおすすめなの?量が多そうだけど」

「そうだね、小食ならカレーもいいと思う」

「じゃあカレーにしよっと」

 券売機にお金を入れて、ピッとボタンを押すと食券が一枚落ちて来る。その後に一ノ瀬も食券を買っていた。食券を受け渡し口の職員に手渡すとものの数秒でカレーが出てきた。一ノ瀬は定食にしたらしく「大盛で!」と大きな声で頼み、山盛りのご飯を受け取っていた。昼休みが始まってから少し時間が経っていたので、食べ終わった生徒が捌けて席が幾つか空いていた。食堂内を見回すと、廊下側の席に、実習生の男子が三人ほど集まって座っている。きっと一ノ瀬はいつも彼らと食べているのだろう。すると、一ノ瀬が窓際を指さして言う。

「あっちの窓際の席、空いてるよ」

 あれ、と思いながら一ノ瀬と共に窓際の誰もいない席に向かい合わせて座った。

 手を合わせると「いただきます」と言う声が彼と重なった。

「ねえ、あっちに座らなくていいの?」

「別にいいよ。澤村さんいるんだし、澤村さんと食べたい」

「……一ノ瀬くん、今までそうやって人を誑かしてきたの?」

「何の話?ていうか、カレー美味しいでしょ?」

「うん、美味しい。初めて食べたけど、普通に美味しい。量もちょうどいい」

「でしょ。澤村さんっていつもお弁当なの?」

「購買でパンを買う日もあるよ。今日はパンが売り切れだったの」

「あー、なるほど。さっき、運動部の男子がたくさん買ってるの見たわ」

「一足遅かったみたいだね」

 雑談をしながら、食べているとスピーカーから放送部の元気な声が聞こえてきた。不意に一ノ瀬との会話が止まった。

「今日は放送部にリクエストを頂いた楽曲の中で、特にリクエストの多かった曲を放送していきます。最初の曲は人気アニメの劇中歌の……」

 昼休みは放送部がリクエストのあった音楽をかけるほか、何かしらの企画を立ててラジオのような放送を行ったりする。高校生の頃は聞き流していたけれど、今になって聞くとアナウンサーのようにはきはきとして発音の良い放送部の語り口に感心した。実習中の放課後、放送部が発声練習をしているところを見かけたが、色んな部活の存在に卒業してから気づかされる。

「一ノ瀬くんって午後は……」

 私は彼に話しかけようとして、途中で言葉を止めた。一ノ瀬は少し驚いたような顔で宙を見上げて放送を聞いている。

 どうしたんだろう。そう思いながら、黙ってカレーを食べる。数秒して、スピーカーから音楽が流れ始める。最近、流行っているアニメの曲らしい。アニメは見たことがないけれど、流行っているのでアニメの名前くらいは聞いたことがある。

 食べながら聞くつもりだった。それなのに、ピアノの前奏で私の手は止まった。

 しっとりとしたピアノの音色に美しい歌声が重なる。哀しいのにどこか優しいメロディーは、彼のピアノを思い出させた。曲調は全然違うのに、どうしてだろう。初めて聴くのに、懐かしいような気がして胸がぎゅっとした。

 たった数分の僅かな時間。私はいつの間にか手を止めて、ただただ、流れてくるその音楽に耳を傾けていた。最後まで聞き終えた時、すごいなと素直に思った。

 ジャンルは違えど、芸術で人の心を奪うことの難しさを私とて痛いほど知っている。今、私は何の興味もなかったものに数分心を奪われた。その凄さを、難しさを、知っているからこそ余計に驚いてしまう。

「……リクエストありがとうございました。次の曲は今、SNSで話題のアイドルグループがリリースしたばかりの新曲で……」

 音楽が止み、放送部が話し出すと、急に周囲でカチャカチャと食事する音が大きくなった気がした。私以外にも、聞き惚れていた人たちがいたということだろうか。近くに座っていた生徒たちが「今の曲いいよね」「アニメで流れた時、泣いたわ」などと話している。私はそれを横目に呟く。

「……初めて聞いたけど、良い曲だね」

 私がぽつりと零れるようにそう言うと、一ノ瀬は存在を忘れていたかのようにはっとして私の顔を見た。彼は少し驚いたような顔で、目を見開いて私の顔をじっと見つめ、そして尋ねる。

「本当にそう思う?」

「え?うん……どうして?」

 聞き返すと、一ノ瀬は「いや……」と言葉を濁す。そして、はにかんだように笑った。

「俺も好きな曲だから嬉して」

「そうなんだ、良い曲だもんね」

 彼は「うん」と頷いて、くしゃっとした顔で笑う。何となく照れくさそうに見えた。

 話している間にスピーカーからはもう次の曲が流れていた。私たちは止まっていた手を動かして再び食事を口に運んだ。私はカレーを食べすすめながら、先ほどの曲を思い出して呟いた。

「さっきの曲さ……好きな曲になんか似てたな。曲調とか違うけど、なんだろう、雰囲気が似てるって言うか」

「へえ!それ、なんて曲?タイトルは?」

 一ノ瀬が思いのほか食いついて来た。私はちょっとびっくりしながら、カレーを掬った。

「それがさ、タイトルが分からないの。ずっと何て名前の曲なんだろうって思ってるんだけど。歌とか無くて、ピアノの曲?なんだけど」

「ピアノの演奏曲ってこと?どんなメロディー?」

 やけに食いつてくるな、と思いながら「えっとね、こんな感じのイントロで……」と言って鼻歌を歌う。すると、一ノ瀬の表情が笑顔のまま固まる。

「えっと……今のはメロディーを再現してくれたわけだよね……?」

「うん」

「ええっと、もしかして澤村さんってすごく、こう、なんて言うか、その……音痴なの?」

「頑張った割に何一つオブラートに包めてないよ」

「ごめん、国語苦手で」

「こっちこそ、どこに出しても恥ずかしくないくらいの音痴でごめんね」

「うーん……俺って結構色んなジャンルの楽曲に詳しいつもりだったけど、流石の俺もさっきのじゃわかんないや」

「だよね。でも、さっきの曲となんだか雰囲気が似てたように思ったんだよ」

「曲の雰囲気か……自分で作曲している歌手とかはさ、違う曲でもああこの人の曲だなって分かることあるでしょ。たぶん、そういう感じのことを澤村さんは言いたいんだろうと思うけど」

「じゃあ、さっきの曲と作曲の人が同じなのかな?」

「その曲聞いたの、五年前でしょ?それはあり得ないって」

「え、なんで?」

「俺の曲が使ってもらえるようになったの去年からだもん」

「俺の曲?」

 あ、まずい。一ノ瀬は一瞬、そんな顔をした。そして、慌てて定食を掻き込むと、食堂の壁掛け時計を指差した。

「もう昼休み終わっちゃうよ!急いで食べなきゃ、ほら急いで急いで」

「え、あ、はい」

 勢いに押されて私は残りのカレーを急いで食べた。空になった食器をトレーごと返却口に置いて、さっさと戻ろうとする彼の後ろを急ぎ足で追いかけた。

「ねえ、急にどうしたの?」

「え、いや、何でもないって言うか……この後、音楽の先生に授業で使う教材をチェックしてもらう予定だったの思い出して、うん」

「ていうかさっき、俺の曲って言ってたけど、さっきの曲もしかして……むぐっ」

 一ノ瀬の大きな手が私の口を覆い、物理的に黙らされた。長身の一ノ瀬に口をふさがれても全然怖くなかったのは、彼の眉毛がハの字に下がって情けない顔だったからだろう。

「放課後に話そう!ほら、今、勤務中だから!」

 一ノ瀬は「それじゃ!」と逃げるように去っていく。釈然としないまま、音楽室の方向へと消えていく背中を見送った。

「……なんなの?」

 むっとしながら携帯電話をポケットから取り出して、検索顔面を開いた。けれど、少し考えてから画面を閉じて携帯電話を再びポケットにしまった。

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