第22話

 昼休みの後はお互い忙しくて、放課後になっても一ノ瀬とは顔を合わせないままだった。下校時間になり、美術部の活動を終えて美術室を施錠した。今日は学外の会議で美術の高岡先生は不在だったので戸締りまで私の仕事だった。三階から合唱部の生徒たちが賑やかな声で話しながら、階段を降りていく。部活動で残っている生徒も下校時間には学校を出なければいけない。この時間の生徒玄関は部活終わりの生徒たちで大混雑だ。それから一時間くらいすると、閉校時間となり、学校が施錠されるので、今度は職員玄関が残業終わりの先生で混雑するのだ。

 あと一時間で閉校か。まだ、一ノ瀬は学校にいるだろうか。

「えーと、美術室の鍵は職員室に戻すんだっけ……」

 鍵を持ったまま、職員室のある事務棟に向かった。職員室は事務棟の最奥で、その手前に実技科目以外の実習生が集う大会議室がある。佐々木に会いませんように、と心の中で祈って廊下を隠れるようにそそくさと歩いた。幸い佐々木の姿はなかった。ほっとして職員室に美術室の鍵を返し、また来た道を戻る。大会議室のドアは少し開いていて、中で話している声が廊下に漏れていた。

「一ノ瀬って何で音大なんか行ったんだろうな」

 通り過ぎるつもりが、一ノ瀬という単語が聞こえて、私は思わず足を止めた。話しているのは昼に学食で見かけた実習生の男子たちのようだった。

「あいつ、成績もよかったのにまさか音大行くなんてなー。すごいけど、就職とかできんのかな?」

「普通に就職できないから、教員免許取りに来たんじゃねえの?音大とか意味分かんねえところ行くからだよ」

「でも、教採は受けないって一ノ瀬が言ってたぞ。教免は一応取るけど、今は他にやりたいことがあるって」

 教採、というのは教員採用試験の略だ。教員になりたい大学生は4年生の時に教員採用試験を受け、合格すると正規の職員として次年度から教壇に立つことができる。試験を受けなくても、免許があって教員の空きがあれば非常勤講師や臨時的任用講師として非正規雇用で教壇に立つこともできる。その保険が欲しくて、私は教員免許を取ろうとしているのだ。

「え、一ノ瀬って教採受けないんだ?勉強したくないだけじゃねえの。音大とか楽器弾くだけだろ?いいよなあ、楽そうで」

「いや、まともに就職できないなら楽でも意味ねえじゃん!」

 ハハハ、と笑い合う声が廊下まで響いている。あまりに失礼な会話の内容に驚いて、その場で固まってしまった。

「がっかりだよな、一ノ瀬には。高校の時は一ノ瀬って頭いいし、女子からも人気あってさ、周りから慕われてたのに」

「今じゃニート予備軍かよ。もったいねー、音大なんていかずに普通に進学すりゃよかったのにな」

「だよなー」

 会話を聞いている内に、ぎゅっと拳を握りしめていた。驚きは怒りに変わっていた。居ても立っても居られなくて、扉に手をかけようとしたその時。私の手を追いかけるように背後から大きな手がにゅっと伸びて、私の手を掴んだ。見上げるように振り返ると、困った顔をした一ノ瀬がいた。彼は空いているもう一方の手で、シーっと言いながら人さし指を立て、唇に当てる。

 そのまま、彼に引っ張られるように私はその場から連れ出された。職員室や大会議室のある事務棟から離れ、実技棟に続く廊下まで来ると一ノ瀬はようやく私の手を離した。

「ごめん、勝手にここまで連れてきたけど、大会議室に用事とかあった?」

「用事はないけど、あの失礼な人たちに文句でも言おうかと」

「良かった、無理にでも連行しておいて。澤村さん、意外と喧嘩っ早いんだね」

「そんなことない……」

 不貞腐れたように私は少し俯いて歩いた。普段なら絶対見て見ぬふり、聞こえないふりをしたはずだ。でも、私を助けてくれた一ノ瀬のことだったからこそ、それが出来なかった。平気そうに笑う一ノ瀬を見て、何だか腹が立つような、やりきれない気持ちになった。

 同時に思った。きっと、佐々木に嫌がらせされて大丈夫と言う私を見る時、彼もこんな気持ちなのかもしれない。

「この学校みたいな進学校から音大に進む生徒なんて年に一人いるかいないかくらいだろうから、あいつらからすると物珍しいんだろうな。ていうか、理解不能って感じなんだろうね」

「一ノ瀬くん……」

「澤村さんも美大だから、周りから似たようなこと言われたんじゃない?」

「まあ……そうだね、結構色々言われた。親の手前、偏差値とか気にしてこの高校に進学したけど、今思えばどうせ美大に行くなら美術科のある高校に進学しておけば周りの理解もあって楽だっただろうなって」

「あはは、俺もおんなじ。音楽専攻のある高校に行っとけばよかったなって受験期にめっちゃ思った。先生たちからしても、進学校に入学しておいて何なんだよって感じで進路決める時にちょっと大変だった」

「音大行くのも美大行くのも似た苦労があるんだね。でも、進学しちゃうと周りは自分と同じで、作品のことばっかり考えてて、私はすごく生きやすくなったよ」

「俺もそれはすごく思う。音楽が好きな人たちと過ごすのは心地良かった。自分のやりたいことができるって本当に幸せなことだよね」

 実技棟に入り、階段までくると一ノ瀬は足を止めた。下に降りれば、いつも作業場がわりに使っている小会議室があるので、当然、下に降りると思っていた私は不思議に思って彼を見上げた。

「澤村さん、小会議室に行く?」

「そのつもりだけど。職員室に美術室の鍵も返したし、今日はもう帰るだけだから」

「だからさっき事務棟にいたわけか、俺と逆だな。俺は音楽室の施錠を頼まれて、鍵取りに行ってたんだよ。先生が急な用事でさっき帰ってさ」

「そうだったの。職員室にいた?気づかなかったよ」

「あー、職員室の隅でクラス担任の先生と雑談してたから。澤村さん、もし時間あるなら、待たせちゃうけど、一緒に帰らない?音楽室の施錠して、すぐ鍵返して戻るからさ」

「うん、いいよ。待ってる」

「良かった、ありがとう!ダッシュで行って来る!」

 一ノ瀬は子供みたいに無邪気笑った。そして、勢いよく階段を駆け上がっていく一ノ瀬に「廊下走ったらだめだよ、先生なんだから!」と注意すると「そうだった!」と慌ててスピードを緩めていて、可笑しくて私は口元を緩ませた。

 小会議室で帰り支度をしながら待っていると、一ノ瀬は本当にすぐに戻ってきた。若干、息を切らしていたので怒られないぎりぎりの速さで歩いて来たのだろう。飯森や黒川の荷物はもう無く、どうやら先に帰ったらしい。一ノ瀬と職員玄関から外に出ると、ひゅうっと風が吹いた。春先の、まだ肌寒さの残る夕方の匂いがした。

 バス停までの道のりを、最早当然のように徒歩通勤の一ノ瀬が一緒に歩いてくれる。途中、小さな公園の前に来ると、一ノ瀬は公園の自販機を指差して「何か飲まない?」と言う。

「財布の小銭入れがもうパンパンで閉まらないから、何でも買ってあげるよ」

「そう、じゃあお言葉に甘えて一段目の一番左のお茶から五段目の一番右の珈琲までお願いしようかな」

「全部じゃん。自販機でそんな石油王みたいな買い方する人いないって」

「冗談だよ。ちょっと寒いし、あったかいお茶にしようかな。本当にいいの?」

「いいよ。じゃあ、俺は懐かしの振って飲むゼリー入りのジュースにしよっと」

「小学生の時、死ぬほど飲んだやつだ!懐かし過ぎる……私もそれにしようかな。でも寒いしな」

「一口あげるよ」

 一ノ瀬は小銭を無造作にジャラジャラと自販機に突っ込むと、お茶とジュースのボタンを押した。ガコン、ガコンと大きな音を立てて、缶ジュースとペットボトルのお茶が取り出し口に落ちてくる。一ノ瀬は長身を屈めて飲み物を取り出すと、私に暖かいお茶を差し出した。受け取って、彼に促されるまま、公園のベンチに座った。

「ここに並んで座ると、初めて会った日みたいだね」

「そう言えば、澤村さんとここで座って話したっけ」

 一ノ瀬は缶ジュースを上下に振りながら言った。

「あの日も飲み物を奢ってもらったよね。まだ二週間くらい前のことなのにすごく昔に感じるよ」

「実習で慌ただしいからかな。教育実習って思ってた以上にハードだよな。すごく勉強になって有り難いけど」

 一ノ瀬はプシュッと音を立てて缶ジュースを開けると、私に「はい、どうぞ」と手渡す。

「え、一ノ瀬くんのでしょ?」

「さっき飲みたいって言ってたじゃん。一口あげる」

「私が先に飲むの⁉」

「だって俺の飲みかけとか嫌でしょ?」

「私の飲みかけだって嫌でしょうよ……」

「へ?俺は、嫌じゃないけど」

「……」

 一ノ瀬があまりにさらりと言うので、私は次に言おうとしていた言葉がぽん、と頭から抜けてしまった。彼に他意がないことは分かっている。でも、彼のこういうところにきっとたくさんの女性が翻弄されてきたのではないか。そう勘繰ってしまう。

「私だって、嫌じゃないですけど⁉」

 私だけが動揺して恥ずかしいのと、何か無性にむかつくのとで、喧嘩腰みたいな言い方になった。大学生にもなって、こんなことくらいでちょっと照れてしまった自分が死ぬほど恥ずかしい。私は半ば自棄になってぐびっと一口ジュースを飲んだ。口の中ににゅるっと砕いたゼリーと甘ったるいジュースが流れ込んでくる。子供の頃よく飲んでいた昔馴染みのある味だった。

「久しぶりに飲むと結構美味しいです!どうもありがとう!」

 語気強めに言って、彼に押し付けるように一口飲んだジュースの缶を返した。

「どういたしまして。何でちょっと怒ってるの?」

「怒ってない!」

 一ノ瀬がきょとんとした顔で缶ジュースを受け取るので、余計にあたふたした自分のことが恥ずかしくなった。その上、怒った口調で「怒ってない」と言う子供じみた言動までしてしまった。多分、近くに穴があったら今頃飛び込んでいたかもしれない。

「何かよく分かんないけど美味しかったなら良かった」

 そう言うと一ノ瀬は平然とジュースを飲んでいた。何だか言いようのない、居たたまれない気持ちになった。気にしたら負けだと思い、ペットボトルのキャップを開けてジュースの甘さを口から追い出すようにお茶を流し込んだ。

「あのさ、昼のことなんだけど……」

 しばらく、ちびちびとお茶を飲んでいたら一ノ瀬が窺うような口調で私を見る。

「昼のこと……ああ!忘れてた!」

「忘れてたのかよ」

 一ノ瀬は苦笑しながら、このままはぐらかせばよかったかなと冗談ぽく呟いた。

「話してくれるの?なんか言いたくなさそうだったけど」

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