第20話

 その後はチャイムが鳴るまで暫く生徒の提出物をチェックし、次回の授業の準備していた。次の時間に見学したい授業があったので、小会議室を出て、教室棟に向かって歩いた。各教員がいつどこで授業をしているかが分かる一覧表を確認して、一年生の教室に向かった。目当ての教室の前でちょうど反対側から来た黒川に出会った。

「黒川さんも梅野先生の授業見学するの?」

「澤村さんもだったんですね。さっき、梅野先生に見学させてくださいってお願いに行ったら、もう一人来るよって言われて誰が来るのかなって思ってたんです」

「気が合うね。美術の高岡先生にいろんな授業見たら良いって言われて。高校時代、梅野先生の授業が好きだったからまた授業受けたいなって思ってたんだよね」

「私もです。梅野先生の授業って面白かったですよね」

「おかげで国語好きになったよ」

 チャイムが鳴って廊下にいた生徒たちがぞろぞろと席に着く。その流れに乗って私たちも教室に入った。しばらくすると、小柄で白髪の梅野先生が長いスカート揺らして、急ぎ足で教室に飛び込んできた。

「さあさ、授業を始めますよ!そこ!ギャラリーがいるからって後ろ見ない!クラス会長、号令お願い!」

授業は慌ただしく始まった。私と黒川は教室の後ろに立ち、時折メモを取りながら授業を見学した。

先生は素早い手つきで、「まずはいつもの小テストよ!」と古語の小テストを配る。この学校では小テストでも規定の点数を取れないと、昼休みに職員室で再テストが待っているので生徒も必死だ。カリカリと筆記具が紙の上を走る音が一斉に響く。高校生の頃は再テストが嫌で仕方なかったけれど、こちら側になってみるとわざわざ昼休憩を削って再テストをする先生のほうが大変だったのだなと今更気づく。それでも生徒の成績を上げたいという先生方の情熱にも舌を巻く。

「……五問目までは歴史的仮名遣いに関する問題ですが、間違った人が思ったより多いわね。みなさん、今一度復習しておいてください。六問目から古語の問題ですが……」

必死にメモを取る生徒や再テスト決定で不貞腐れている生徒たちを微笑ましく見つめながら、しみじみと高校生の頃を思い出していた。

自分も彼らと同じように席について、ぼんやりと授業を受けていた。それをこうして教室の後ろから、似合いもしないスーツなんて着て先生面をして見学している。  

この不思議な気分を実習が始まってから何度も味わっている。自分が授業をしている時もそうだったけれど、自分が自分じゃないみたいで、どうにも落ち着かない。

先生は軽快なリズムで黒板にチョークを滑らせて小テストの解説をしていく。

「八問目、黄昏時……これは夕方のことですね。昼と夜が混ざり合う時間、マジックアワー、トワイライト。それを表すにはいろんな言葉がありますね。有名なアニメ映画で出てくる古語ですが、知っている人も多いかしら。もともと、黄昏は誰そ彼と書きます」

 先生は黒板に綺麗な字で誰そ彼と書いた。

「街灯なんてあるはずもない大昔、夕暮れの薄暗い時間帯になると人の顔を判別できなくなる。すると、この時間になると人々はそこにいるのは誰ですか、誰そ彼と尋ねます。だから、夕方の薄暗い時間を誰そ彼と言うのですよ」

 先生の話を聞きながら、高校時代に一度だけ見たピアニストの彼を思い出していた。薄暗がりで彼の顔はよく見えなかった。なるほど、あれはまさに黄昏時だった。

 高校時代を思い出すとき、いつも夕暮れの校舎が頭に浮かぶ。それは、あの黄昏時に垣間見た彼の姿を今でも忘れられずにいるからだろうか。

「……ということで、質問はないですね?では、解説終わり。後ろから小テスト集めて。七十点以下は明日の昼休みに再テストですからね。お忘れなく!」

 再テストのお触れに点数の低かった生徒たちから嘆く声がちらほらと上がった。その様子が昔懐かしくてつい口元が緩んだ。

「さあ、文句言ってないで教科書開いてね。宇治拾遺物語の続きから始めますよ。前回は二十頁まで現代語訳をしましたが……」

 小テストを集め終えた先生は教科書を持ち直すと、生徒たちの教科書やノートを開く音で静かだった教室は少しだけ騒がしくなる。窓際の生徒が、日差しが眩しかったようで少しだけカーテンを閉めていた。空は青く晴れている。カーテンの狭間から見える青空を見て、私はあの日見た黄昏時の空の色を思い出していた。

ホワイト、クリムソンレーキ、パーマネントイエロー、マリンブルー、アイボリーブラック。絵具の名前が頭の中に次々と浮かんでくる。

昼と夜が混ざったあの美しい空を描く色たち。私はそっと頭の中であの夕暮れを思い描いていた。


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