第15話

「おーい!澤村せんせー!」

 不意に遠くから私の名前を呼ぶ声がして私は立ち止まる。きょろきょろと辺りを見回した。校舎の真ん中は大きな吹き抜けになっていて、廊下と教室で吹き抜けを囲む構造になっている。吹き抜けの中央を通る渡り廊下から一ノ瀬が生徒たちと一緒になって手を振っていた。彼と一緒にいたのは私が担当する一年六組の生徒たちだった。音楽選択の生徒たちのようだ。そのあっけらかんとした明るい笑顔を見たら、つられて私も笑っていた。手を振り返すと、彼は生徒と一緒になって嬉しそうに笑っていた。

 気が付いたら動悸は収まっていて、息も整っていた。

 また、助けられてしまった。

 実習が始まって数日のうちに、何度思っただろう。彼の存在がなかったら、私はとうの昔に実習をリタイヤしていたに違いない。

 ほんの少し軽くなった足取りで私は美術室へ向かった。印刷したプリントを教卓に置いて、パソコンやプロジェクターの準備をした。指導案を見返して、授業の流れを一通り復習した。実際に授業をすれば、指導案通りに行かないことばかりだろう。大学の教職課程では大学生同士、生徒役と教師役になって模擬授業を行ったが、それですら指導案通りにはいかない時があった。恐れても仕方がないが、やはり緊張する。朝のホームルームで何十もの視線が数分間集まるだけで緊張するのに、それが一時間近く続くのだ。

「ふう……」

 しなびた風船から空気が漏れるように息を吐いた。ぐったりと教卓に突っ伏した。よく考えなくても、私は教師に向いていない。人前で話すのは勿論苦手だ。何より、学校も大嫌いときた。将来の保険として、教員免許欲しさに実習に来たけれど、なんと場違いな。飯森のような教職への熱い思いや、使命感をもって実習に来ているわけではない。どうしても後ろめたさがある。それで余計に緊張しているのかもしれない。

「澤村さん、ちょっといいですか?」

 ひょこっと、美術室の扉を開けて黒川が顔を覗かせた。私は慌てて身体を起こした。

「どうしたの、黒川さん?」

「今って時間あります?書道室の机を動かすのを手伝って欲しくて」

「いいよ、準備終わったから手伝うよ」

 黒川と一緒に隣の書道室に移動した。高校時代は美術を選択していたので、書道室に入るのは初めてだった。

「うわあ、墨の匂いがすごいね!」

 入った瞬間、墨の香りが部屋中に広がっていた。他の教室と違って、大きな長方形の下敷きが敷かれた長机が何台も並んでいて、洗い場は墨でところどころ黒く汚れていた。教室の後ろには生徒の作品や、漢字の難しそうなお手本のようなものがずらりと貼ってある。美術室に馴染みのある私には新鮮な光景だった。

「墨の匂いですか?ずっと嗅いでいるから鼻が馬鹿になってるのかな。全然わからないですね。言われてみると、美術室も絵具の匂いがしましたね」

「え、本当?私も絵具の匂いわかんないや」

「毎日嗅いでるから鼻が麻痺するんですかね。あ、この机です。そっち側持ってもらえますか?」

「はーい……えっ、重!」

 言わるまま、机の端に手をかけると、想像より重くて変な声が出た。

「年代物なので重いんですよ」

「木製かあ、重いはずだね」

「次の授業、人数多いから机足りなくて。でも一人で運ぶには重すぎるんですよねぇ。隣が美術室で良かったです」

 壁際に寄せられていた長机や椅子を黒川と一緒に運び、座席を増やした。黒川も次の芸術で初授業らしい。彼女もまた緊張していた。お互いに励まし合って、私は美術室に戻った。美術室に入ると、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。十分の休み時間が始まる。大体、五分前くらいになると生徒がわらわらと教室に入って来る。いよいよか、とさらに緊張を募らせて教卓に立つ。しかし、教卓に置いておいたはずの授業で使うプリントが無くなっていた。

「え、なんで……」

 まさか、と思った。反射的にゴミ箱を振り返ったが、何もなかった。視線を教卓の下に落とすと、プリントが落ちているのが見えてほっとした。風で落ちたのかな、と屈んで手を伸ばすと、ぐちゃぐちゃに破かれたプリントの塊があった。

 それを見て、頭が真っ白になりそうだった。

 数秒、呆然として、はっとしてすぐに時計を見た。あと七分。廊下から生徒たちの声が聞こえてくる。

 どうしよう、もう時間がない。

 焦りながら、だめになったプリントを抱え、慌てて大会議室のある事務棟へ向かって走った。コピー機のある事務棟はここから真反対、コピーして往復したらきっと間に合わない。ベテランの先生ならいざ知らず、初心者の私ではプリントがなければ授業にならないだろうことは火を見るよりも明らかだ。とにかく、急いで往復するしかない。大慌てで廊下を走った。そのせいで、階段のある曲がり角で向こうからやって来る人影に気づかなかった。気づいた時にはもう遅かった。どんっと固い胸板にぶつかって、私はバランスを崩して倒れそうになる。

「危ないっ!」

 あ、転ぶ。そう思った時、男の声がして太い腕が伸びてきた。傾いた身体をすっと伸びた長い腕が支えてくれた。

「さ、澤村さん……?」

 びっくりした顔の一ノ瀬が私を支えてくれていた。彼もこれから上の階にある音楽室で授業なのだろうか。手にはプリント類を持っている。

「廊下走ったら危ないよ。何かあったの?」

「ご、ごめん!急いでて!本当にごめん!」

 謝罪もそこそこに、今にも走り出そうとしていた私の手を彼は掴んだ。

「待って!どうしたの?」

「あ、あの、プリントが破かれてて、もう時間が無くて……」

 彼は私の手に持っていたビリビリのプリントを見て、全てを察したようだった。腕時計を見て「事務棟まで行ってたら間に合わない」と言い、私の手を引いて早足で歩きだした。

「ちょ、一ノ瀬くん⁉」

「音楽準備室にコピー機があるから事情を話して使わせてもらおう。それなら間に合う」

「え、コピー機あるの⁉」

「吹奏楽部と合唱部が部員多くて楽譜とか何枚も要るから色んな予算でコピー機設置してあるらしいよ」

「一ノ瀬くん、神!」

「真の神はコピー機の発明者だよ。ほら、急ごう!」

 駆け足で音楽準備室に入ると、音楽の静先生は驚いた顔で私たちを見て「どうした?」と尋ねた。一ノ瀬と二人で手短に事情を話すと、静先生は快くコピー機を貸してくれた。叱られるかとビクビクしていた私はほっとして、急いで生徒分プリントをコピーした。心配そうに私を見ていた一ノ瀬は静先生に「さっさと教室に行け!」と追い出されていた。

 コピーを終えて静先生に何度も頭を下げると先生は私の手にあったぐちゃぐちゃのプリントを見て心配そうに言った。

「時間がないから今は聞かないけど、困ったことがあるなら私や高岡先生に話しなさいね」

 私は熱くなるものを飲み込んで「はい」とだけ答え、さらに深く頭を下げて音楽準備室を後にした。美術室に戻ると、多くの生徒がすでに教室に入っていた。

「澤村さん!良かった、姿が見えないから心配しましたよ」

 美術準備室から高岡先生が出て来て、安堵した顔をした。

「先生、すいませんでした。ちょっと、プリントをだめにしちゃって……」

 話ながら、涙が込み上げそうになってぐっと堪えた。いろんな思いが溢れそうだった。焦りと緊張と、怒りでどうにかなりそうだった。でも、弱音を吐いている時間はない。私はぎゅっと拳を握りしめる。

「間に合ったなら良かったですよ。さあ、息を整えて」

 高岡先生は私を安心させるように「焦らなくて大丈夫」と優しい声で言った。

「顔が強張っていますよ。君は今からこの子たちに美術の楽しさを教えるんですから、もっと楽しそうな顔をしないと」

 ね、と念押しされて、やっと力が抜けた。

 教師に向いてないと思いながらも、一生懸命に授業を準備したのは、美術に携わる者としてその素晴らしさを伝えたいからだ。私がいじめられているとか、そんなことは生徒には関係ないのだから。

 チャイムが鳴って、生徒たちが着席する。私は一度深く息を吐いた。緊張も想定外のトラブルで吹っ飛んでいた。教科書を広げて、笑顔を作って教卓に立った。

 私は先生だから、今は授業のことだけ考えよう。楽しい授業をしなくちゃ。


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