第16話
「当番の人、号令をお願いします」
当番の女の子が「起立、礼!」と号令をかけ、生徒と向かい合って礼をした。生徒たちが座ると、始業の挨拶をして、出欠を取り始める。クラスも担当している一年六組の生徒たち。毎日見ているので知った顔ばかり。実習生の授業だからと物珍しさで楽しみそうにしている者もいれば、隠れて小テストの勉強をしている者、居眠りしている者、実習生だからと舐めた態度の者と様々だった。
「これから私の授業では自画像を描いていきます」
授業内容を告げると「げー」だとか「やだ」だとか否定的な声が上がって初っ端から顔が引きつってしまう。指導案通りに行きたいところだが、このリアクションを無視して強引に進めたら、ただの念仏授業になりかねない。私は未だに生徒側でもあるので、興味もなく教師が話すだけの授業程退屈なものはないと知っている。
「今、嫌だなって声が聞こえたけど、どうして自画像がいやなのかな?」
「だって自分の顔なんかみたくなくない?」
「ブス過ぎて辛くなる!」
そうした声が続々と上がってきた。思春期の高校生らしい言い分が並んでいた。
「あー……なるほど、気持ちはわかります。私も、もうちょっと目が大きかったらなとか、鼻がスッとしていたらなとか鏡を見てよく思いますよ」
そう言うと、お調子者の生徒たちが「先生可愛いよ」「自信もって!」などと茶々を入れてくる。さすがおしゃべり好きな担任の受け持ちクラスだ。おかげで授業はすこぶるやりやすい。私はどうもありがとう、と軽く受け流して話を続けた。
「鏡を見たくないなって時は誰にでもありますよね。でも、この授業ではそれこそ嫌になるくらい鏡で自分をじっくりと、しっかりと見て、とことん自分の顔を観察してもらいます。最初は嫌かもしれないけど、そのうち慣れます。そして、今まで気づかなかった自分の顔を知ってください」
あからさまに嫌そうな顔をしている生徒が数名見えた。その中の一人、元気で素直な性格の女子がぼそっと言った。
「自分の顔なんて鏡見ればわかるのに絵に描く必要なくない?」
そして隣の女子も同調して言葉を続けた。
「わかる、そもそもカメラあるのに絵って描く必要ある?」
ないない、と言い合って二人はケラケラと笑っていた。
「清水さん、池端さん、一番前の席で美術の授業の存在意義を否定しないで下さいよ。哀しくなっちゃいます」
冗談ぽく言うと、くすくすと笑いが起こった。
「でも、良い意見ですよね。何で絵を描くのか。写真撮ればいいじゃん、と思う人も多いですかね。特に空想のものではなく、モチーフが実在の風景や人であれば、余計にそう考える人もいるでしょう。私も絵を描いているとよく言われますよ、写真でいいじゃんって」
私は手元でパソコンを操作しながら話を続けた。
「私は、よく人を描いてまして……私が描いているのはこういう写実画と呼ばれる類のものなんですが、えーと……あ、あった。これは以前に描いた自画像です」
スクリーンに私が過去に描いた自画像が映し出される。わっと生徒たちから驚きの声が上がる。無表情でこちらをじっと見つめる数年前の私。見たまま、ありのままの自分を描いたその絵はスクリーン越しの画像だと写真と区別がつかないくらい緻密だった。そのためか、生徒たちからは「これ、本当に絵なの?写真じゃないの?」と疑いの声が上がっていた。
「勿論、絵ですよ。こうして、一筆、一筆、絵具を重ねて数カ月くらいかけて丁寧に描いています」
私は画面を製作途中の画像に切り替えると、「おおっ」とさらに生徒たちから驚きの声が上がった。心の中では使う時があるかもと、画像データをパソコンに入れておいて良かったと安堵していた。
「こういう絵を描いていると、ここまでリアルに描くなら写真でもいいんじゃないの?と言われることがよくあります。どうして、長い時間をかけてでも絵を描くのか不思議に思いますか?」
教室を見回すと、生徒の大半が頷いていた。
「この絵に描かれている私、無表情なんですが、どんな気持ちに見えますか?嬉しい?楽しい?哀しい?怒ってる?苦しい?」
挙手を求めると、手を挙げない者もいたが「哀しい」の時に最も多くの手が上がった。
「絵を鑑賞することに正解は無いけれど……この絵は、大好きだった祖父が亡くなった時期に描きました。だから、そういう気持ちで描いています」
生徒たちの顔色が少し変わった。向けられる視線の強さ、濃度がぐっと高まった気がした。
「今、多くの人がこの絵から負の感情を感じ取ってくれましたよね。これは私の個人的な考えではありますが、絵だからこそ表現できることがあると思うんです。絵にして初めて分かることがある。だから、私は絵を描いています」
生徒たちの真剣な眼差しに、私は必死で言葉を紡いだ。
「口で説明するより、実際に皆さんが絵を描いたほうが私の言っていることは分かるでしょう。みなさんにも、自画像を通して知らない自分、気付かなかった自分に出会って欲しい。描き上げた後で、私が今お話した意味が少しでも伝わるように授業を進めていきますね」
私はマウスを動かして、画像を本来予定していたゴッホの自画像に切り替えた。
「さて、本題に戻ります。皆さん、この画家の名前はわかりますか?」
誰かがピカソとふざけて大きな声で答えた。
「答えてくれてありがとう。でもこれ、ゴッホだよ」
小さく笑いが起きる。内心では答えが返って来るだけ有り難いと感じていた。高校生ともなると、小中学校と比べ発言したがる生徒はぐっと減る。大人しい生徒の多いクラスだと最初から最後まで無言だったりする。授業する側からすれば、無言はかなりきつい。苦笑しながらゴッホの自画像を年代別に並べたスライドを表示する。
「ゴッホは多くの自画像を残しています。初期の自画像は暗い色で描かれ、時代とともに色彩が変わっていきます。服装や持ち物に変化もあって……」
ゴッホの自画像から彼の心情や変化、そして自画像を描く意味などを話していった。その後はプリントを使って各自で自画像のテーマなどを考えさせ、初回の授業は進んでいった。
そこからはチャイムが鳴るまであっという間だった。
時間はぎりぎりになったが予定していた内容まで何とか進み、チャイムが鳴って授業は終わった。休み時間になって数名の生徒たちが教卓に集まって、私の絵について嬉しい感想を言っては去っていった。
そうして生徒が全員いなくなると、高岡先生と二人で反省会が始まった。
「導入で予定外の話をしたのもあって、序盤に時間が取られて、最後駆け足になったのは少し勿体なかったですね。ちょっと詰め込み過ぎだったかな」
「はい……すいません、最初から脱線しちゃって」
「時間管理は上手くなかったですが、生徒の意見を拾い上げていて内容自体は良かったと思いますよ。まあ、君でなければ、あの導入は成立しなかったでしょうけれどね」
「それって、どういう意味ですか?」
「あの自画像、大学に入ってから描いたものだね?良く描けていた。高校の頃から君の才能は抜きんでていましたが、大学に入ってさらに磨きがかかっているようだ。普通、素人には言葉で説明しない限り、そうそう作品の意図や込められた想いなんてものは伝わりません。絵を見慣れている人間にすら伝わらないことだってよくある。君だってよく分からない作品と出会うことはあるでしょう?伝わるから良い悪いって話でもないですが、伝えようとしてうまく伝わるものでもない。でも、君の絵は伝わった。それも普段絵を見ることもない、高校生の子どもたちに」
「まあ、あの絵は分かりやすく描いてありましたから……」
「いいえ、それは普通のことではないですよ。君の絵は特別です。絵を解らない人間にすら伝える力が君の絵にはある。今日の授業を見てよく分かりました。君はやはり尋常ではない画家だ。そんな君の授業で、生徒たちがどんな絵を描くのかますます楽しみになりましたよ」
「私の絵なんて……買いかぶり過ぎですよ、先生」
「君の絵の価値を一番知らないのは君自身かもしれないね」
先生は愉快そうに言って、目を細めた。
その後は板書の書き方、パワーポイントの内容、スクリーンの使い方、プリントの項目など細かい部分で指摘を受けて反省会は終わった。
たった一回授業をしただけで驚くほどクタクタになった。私はぐったりしながら、美術室を後にして、のろのろと廊下を歩いた。何だか身体がひどく重かった。
先生は私の絵を恐縮するくらい評価してくれていた。嬉しかった。それなのに評価を素直に受け取れなかった。それは、ずっと思うように絵を描けていないせいだろうか。
生徒には偉そうに話しておきながら、私は今、絵を描けないでいる。絵を描くのは好きだけれど、好きだからこそ、不意に訪れる自信喪失の期間。どうにも自分の描く絵が無価値に感じられてしまう。高価な絵の具をキャンバスに塗りたくって、ただただ無駄にしている。画材からゴミを生み出しているような気持ちにすらなる。絵具のままのほうが価値があったんじゃないか、なんて虚しさすら感じるのだ。
そんな時期が定期的に訪れる。今はその真っ最中。挙句、今日の授業妨害と来た。心が沈み込むには十分だった。
佐々木美希のことを思い出すと、さらに気が重くなる。絵も書けない。昔のいじめっ子にまたいじめられる。一体、私が何をしたって言うんだろう。前向きに、前向きに、と思っていても不意に足を引っ張られる。絵が上手く描けないのも、いじめられるのも、きっと私に悪いところがあるから。楽になりたくて、考えたくなくて、そうやってすぐに自分を責めてしまう。
ああ……このままだと自分も、自分の絵も大嫌いになりそう。
「澤村さん、落としたよ」
背後から肩を叩かれて、立ち止まって振り返る。心配そうな顔をした飯森がプリントを手に持っていた。
「あ、飯森さん。お疲れ様です」
「お疲れ。プリント一枚、落としてたよ。ていうか、大丈夫?顔色すごく悪いよ」
「あはは……ちょっと、授業で失敗しちゃって落ち込んでたの。拾ってくれてありがとう」
飯森と話しながら小会議室に入ると、部屋には誰もいなかった。きっと、黒川や、一ノ瀬も授業の振り返りをしているのだろう。私は破かれたプリントをさっさと鞄の中に突っ込んで、他の荷物を片づける。飯森も手にいっぱいもっていた教科書やプリントの束を下ろして、話しながら書類を整理していた。
「飯森さんも授業だったの?」
「そうだよ、何とか終わった。寝そうな生徒も多くてちょっと心折れそうだったわ」
「実技科目だから馬鹿にしてる子は多いよね。最初から寝る姿勢の子とか宿題の内職してる子とかいるもんね。あれは傷つく」
「だよね。って言っても、授業中、寝たことないわけじゃないから、文句も言えないけどさ」
「罪のない者だけ石を投げよ、みたいな?確かに私も落書きしてる子に注意するとき罪悪感半端ないよ」
飯森と話していると気が紛れて良かった。
しばらく授業の愚痴を言い合っていたら、外から足音と話し声がして一ノ瀬と黒川が部屋の中へ入ってきた。私は出来るだけ自然に「美術室に忘れ物しちゃった」と言って席を立った。
「ちょっと美術室行って来るね」
黒川と一ノ瀬の横を挨拶がてら通り過ぎた。外へ出ようとドアノブに手をかけた私の背中に一ノ瀬が声をかける。
「澤村さん、授業は大丈夫だった?」
「……うん、大丈夫!さっきはありがとう」
振り返らずに言って、そそくさと小会議室を出た。何も急いでいないのに、逃げるみたいに廊下を早歩きした。負の感情でいっぱいの今、どうしてか一ノ瀬の顔を見られなかった。彼には感謝しているのに。今、彼に優しくされると、必死で堪えているものが駄目になってしまいそうで怖い。
美術室の前まで来ると、高岡先生がちょうど準備室から出てくるところだった。先生は私の姿を見ると、どうしたのと優しく声をかけてくれる。
「ちょっと忘れ物しちゃって……」
「そうかい。僕はしばらく職員室で教務課の仕事をするから、何か用があれば職員室へ来てね。この学校の教務は忙しいから、来年は総務課あたりがいんだけれどねえ」
高岡先生はぶつぶつ言いながら職員室へ向かった。
担任を持っていない教員は総務課や教務課、生徒指導課や進路指導課など校内での教科以外の仕事が割り振られる。その学校によって違いがあるらしいが、総務なら式典や会議の準備など、教務なら時間割や試験の管理など、教科に関係なく様々な業務がある。授業をするだけでも大変なのに、先生たちは他の業務もしながら夜遅くまで残って教材研究、つまりは授業の準備などをしている。先生たちがこんなに忙しくしていただなんて、生徒側の時は思いもしなかった。正直、実習に来るまでは授業だけしていればいい仕事だと思っていた。無知な自分が恥ずかしい。もう大人なのに、中身は子供のままでほとほと嫌になる。
「はあ……」
自己嫌悪のため息ばかりが漏れる。
美術室の窓際、一番前の席に座った。生徒用の椅子は固くて、座り心地が悪くて、やはり懐かしい。教室の後ろに視線をやると、授業で制作した生徒たちの作品が数枚掲示されている。高岡先生が提出課題の作品からいくつか選んで定期的に展示替えをしているのだ。あどけなくて、拙い。けれど素直な作品たちが眩しい。この教室で絵を描いていた頃の私に戻って、あんな瑞々しい作品を創れたらいいのに。
思考はずっとネガティブで、そんな自分がますます嫌になる。
「……元気出さなきゃ」
ポケットに入れていた携帯電話を取り出して、写真のアルバムを開く。お気に入りのフォルダを開いて遡る。四年も前の古い写真。日付は高校生最後の文化祭の日だった。映っているのは一枚のプリント。現物は父から貰ったあのスケッチブックに、表紙の裏に張り付けてある。
元気がない時、絵が描けない時、自分が嫌いになりそうな時。そんな時々に私はいつもこれを見る。
それはとても優しい言葉で綴られた、ラブレターみたいな手紙だった。
誰が書いてくれたのかは、知らないけれど。
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