第14話

***


 高校を卒業してから何度も、繰り返し見る夢がある。

 夢の中で朝、目が覚めると私は高校生まで住んでいた駅前のマンションの子供部屋、そのベッドの上にいた。見慣れた天井の丸い照明。水色の壁紙。上京するときに捨てたはずのキャラクターシールがペタペタ張られた学習机やお気に入りのぬいぐるみたち。もう存在しないはずの、子供のころから過ごした私の部屋の中で、ベッドの上から姿見を見ると、高校生の私が映っている。壁に掛けられたカレンダーは高三の四月になっている。

 ああ、私、高校生に戻ったんだ。

 いじめられたことも、両親が離婚したことも、大学生になったことも全部夢だったんだ。

 そう思ったところでいつも夢から醒める。

 祖母の家の、古い天井。顔みたいで怖い木目が私を見下ろして、現実に戻ったことを私に教えてくれる。気怠く、ゆっくりとした動きで枕元に置いていた携帯を取ると、暗い画面に反射して、寝ぼけた顔をした大学生の私が映っている。アラームが鳴る前に目が覚めたようだ。頭はまだぼーっとしていた。頬に触れると涙で濡れていた。

 ああ、またこの夢だ。実習が始まってからこの夢ばかり見て、嫌気がさす。

 あの夢を見るといつも泣いてしまう。何故、涙が出るのか、自分でもよく分からない。高校生に戻ってやり直したくて泣いているのか。それとも、辛い高校時代を終えて美大で楽しく過ごしている今が夢だったらどうしようと恐怖で泣いているのか。

 この涙はどっちだろう。

 過去の後悔か、今を失う恐怖か。その両方なのかもしれない。

 しばらくして、泣き止むと私は仏間を出た。廊下を曲がると縁側で祖母が猫を膝に載せて新聞を読んでいた。

「おばあちゃん、おはよう。とろろもおはよう」

 祖母の膝で寛いでいる猫の頭を撫でた。キジトラ模様がとろろ昆布に似ているのでとろろと亡き祖父が名付けた。

「おはようさん。香ちゃん、もう起きたん?早いねえ。いい天気やよ」

「そうだね、珍しくちゃんと晴れてる」

 空を見上げると真っ青で、雲が数えるほどしかなかった。

 あまりにも曇りの日が多い所為で、北陸人は多少曇っていても雨さえ降っていなければ晴れだと思ってしまう傾向があると個人的に思う。関東に言ってから、雨が降っていない曇りの日に晴れだと言って笑われてしまったことをふと思い出した。

「お母さんってもう仕事に行ったの?」

「さっきおにぎり作って出て行ったよ。早番とか何とか言ってたねえ。香ちゃんは今日も学校かい?」

「そうだよ、絵の先生もどき。さ、準備して行かなきゃ」

「頑張ってねえ。おばあちゃんもおじいちゃんも、香ちゃんの絵が大好きだよ」

「ありがとう。またモデルになってね」

 美人に描いてや、と祖母はいつも通り冗談めかして言った。

 私は母が作ってくれたおにぎりをつまんで、身支度を整えると急いで始発のバスに飛び乗った。晴れているおかげでいつもより空いていた。

 椅子に座って一息つく。 

 車窓から覗く犀川の水面は、朝陽を反射してきらきらと光の粒が揺らめいていた。雨と雪ばかりの冬と違って、春の犀川は明るく穏やかだ。河川敷の木々が途切れ途切れに影を作って、朝日の眩しさを気まぐれに遮ってくれる。バスの揺れに身を任せ、うとうとしながら煌めく水面を眺めていた。

 実習が始まってもう一週間、苦戦していた指導案も何とか合格をもらえた。授業の準備も何とか間に合って、今日から私はついに授業をする。緊張していると自分でも分かる。ポケットに入れた携帯電話がぶるっと震えて、取り出して画面を見ると大学の友人、七緒からメッセージが届いていた。

『実習どう?あたし、今日は本命の最終面接!がんばるしかない!じゃあね!』

 元気な文面が七緒らしい。指をさっさと動かして『私も、初授業だよ。がんばるしかないね。またね!』と送り返した。東京が少し恋しくなった。

 学校に着いてからはいつも通りホームルームをして、慌ただしい朝の時間を何とかやり過ごした。他の実習生たちはすでに授業を担当しているらしく皆一様に授業準備などで慌ただしそうに見えた。小会議室を使う実技科目の実習生たちも、皆それぞれ授業があるので、顔を合わせても一瞬だった。

 私は昨日の夜、家で最後まで作り直していた授業用のプリントを印刷機から出力して最終確認をすると、事務棟の大会議室に向かった。大量印刷用のコピー機が並ぶ印刷室も別にあるのだが、他の先生方の邪魔にならないようにと実習生は大会議室のコピー機を使うことになっていた。佐々木と顔を合わせたくはないが、こればかりは仕方ない。恐る恐る会議室の扉を開けると、運の悪いことに佐々木の姿が目に入った。他に彼女を取り巻く派手な連中もちらほら。私の姿を目に留めると、彼らの会話が一瞬止まる。高校時代に散々味わった嫌な沈黙だ。そして会話が再開した後もなんだか嫌な視線がじっとりと纏わりついてきた。私は一刻も早くここから抜け出したくて、足早にコピー機へ向かった。

 彼らとほぼ面識もないのに、無遠慮に背中に向けられるこの嫌な視線と空気。その原因は分かっている。大方、佐々木美希が高校時代よろしくないことばかり吹聴したのだろう。私は気付かないふりをして、さっさとコピーを始めた。私が授業をするクラスの人数分なので、大した量はではない。

 無心でコピーしていると、横に人の気配を感じた。視線だけ動かすと、横にいたのは佐々木美希だった。ひゅっと息を飲み込み、思わずびくりと身体が反応した。

「香ちゃん、こっちに来るなんて珍しいね?授業のプリント、コピーしてるの?わざわざ実技棟からご苦労様だねー」

 俄かに手が汗ばんだ。必死に平静を装った。

「私に構わないでって言ったよね。話しかけないで」

 私は手元に視線を落としたまま、彼女を見ずに低い声で言い捨てた。

 あの日以降も地味な嫌がらせは幾度かあった。不在にしている間に鞄の中にゴミが入れられていた、ロッカーに入れた靴を汚されていた、すれ違いざまにわざとぶつかられる、といった下らないものばかり。一緒に被害を記録してくれる一ノ瀬は「二十歳も越えて、こんな子供じみた嫌がらせする馬鹿がいることに戦慄する」と吐き捨てていた。

 確かに毎日想像以上に忙しい実習中、どうして私に子供じみた嫌がらせする余裕があるのか。大人になった今、彼女のやっていることはほとほと理解できなかった。

 昔のように周りに味方がいない状況だったなら、この下らない嫌がらせにもいちいち傷ついていたかもしれない。でも、今は周りに分かってくれる人がいる。それだけで「ああ、下らない」と思える。

「ひどーい、折角話しかけてあげたのに」

 彼女は言いながら、私の持ち物を嘗め回すように物色した。

「あれー?ペンケース新しくしたの?」

 彼女はわざとらしく言って、くすくすと笑った。

「ていうかこれ、購買で売ってるやつじゃん!やばい、こんなの買う人いるんだ!前のペンケースのほうが良かったんじゃない?」

 どの口が言うのか。そう言いたかったけれど、反応したら負けだとぐっと堪えた。あと三十枚、二十枚……と心の中で残数を数えながらコピーが終わるのをひたすら待った。たった二、三分程度の時間がとても長く感じた。

「一ノ瀬律だっけ?あの爽やかくん。泣きついて同情してもらえたの?よかったねえ、男だけでも味方に出来るようになって」

 良かったね、と言いながら馬鹿にするように嘲笑う。佐々木は私の耳元で「身体でも使った?」と下卑た笑みで囁いた。これには流石に耐えきれなくなって私はコピーが終わったプリントの束を抱えて、彼女を睨んだ。

「あらら、怒っちゃったー?」

「私に関わらないでって言ったよね。過去のことを言うつもりはないのに、どうして絡んでくるの?いい加減にしてよ」

「だって香ちゃんのこと大嫌いなんだもん」

「痛っ……」

 佐々木は周囲から見えないようにヒールの先で私の足を踏んだ。痛みで私の顔は歪む。容赦なく、ぐりぐりとヒールをねじ込むように彼女は体重をかけた。

「本当に反抗的になったよね?余計苛つくわ。男を味方につけて調子乗っちゃった感じ?自分の立場思い出せるように教育し直さないといけないかなあ」

「やめてよ!」

 私は佐々木を押しのけた。ズキズキと痛む足を庇いながら、彼女を睨む。

「あなたのような最低の人間に教わる生徒に心から同情する。二度と話しかけないで」

 私は言い捨てて、彼女の横を通り過ぎた。佐々木はこわーい、と薄ら笑いを浮かべていたが、佐々木を無視して私は会議室を出た。扉を閉めようとした時、佐々木が他の実習生たちに「突き飛ばされて怖かったあ」と甘えた声で早くも嘘を吹聴しているのが聞こえてきた。腹が立ったけれど、構わず扉を閉めた。

 歩きながら、呼吸が、鼓動が早くなって動悸がする。歩く度に、足の痛みが気になった。怖くて、逃げたくて、歩調はどんどん速くなる。

 佐々木はただのいじめっ子で本当は怖くなんかないと頭では理解している。それでも、身体に染みついた痛みと恐怖はまだ取れないらしい。大人になった今でも、私は彼女が怖い。彼女を見ると心より先に、いつも身体が強張る。それでも理性のおかげで彼女に立ち向かえる。けれど、こうして対峙した後は暫く動悸がするから嫌になる。

 あとどのくらい時間が経てば、身も心も、過去から解放されるだろう。

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