第13話

 祖母の家に着いて早々、口煩い母親に捕まった。マシンガンのように放たれる小言と世間話の弾幕に圧倒されながら、適当に相槌をしてどうにか食事と風呂を済ませた。そして仏間へ逃げ込んだ。

 仏間の布団の上で明日の準備をして、新しいペンケースに筆記用具を入れ替えていると、ふと絵が描きたくなった。スケッチ用の鉛筆とお気に入りのスケッチブックを持って、居間に行くと、祖母が猫を膝に載せてテレビを眺めていた。明日の朝は早いのか、母親は寝室に行こうとしているところだった。

「あんた、今から絵を描くの?ほどほどにしなさいよ」

「わかってるよ」

 これ以上、小言が飛んでこないようにそそくさと母の横を通り過ぎようとした。母は私の手元に視線を落として、独り言のように言った。

「……そのスケッチブックまだ持ってたのね」

 私はスケッチブックを身体の後ろに隠して気まずそうにした。すると、母は間を置いてから苦笑して「懐かしかっただけよ、おやすみ」と言い、真っ暗な廊下に消えていった。

 母がいなくなってから、手に持っていたスケッチブックをぎゅっと抱きしめる。これは父が離婚する前、最後に一緒に出掛けた時に買ってくれたものだった。父は寡黙で、私にも、母にも関心のなさそうな人だった。いつも無表情で、何を考えているか分からなかった。思い付きだったのだろう、出先で珍しく「学校で必要なものがあれば買ってやる」と言われ、私はこれを選んだ。何となく使い切るのが惜しくて、気に入ったものを書く時だけ、ちまちまと使っていた。

 お気に入りだけが詰まった、大事なスケッチブックになっていた。

「おばあちゃん、絵を描いてもいい?」

 祖母の近くの座布団に腰を下ろしながら尋ねた。祖母は、和室用の椅子に座ってテレビを見ていて、視線すら向けずに答えた。

「ええよ、別嬪に描いて頂戴な」

「はいはい」

 いつも同じ注文をしてくる祖母に生返事を返しながら、手はもう動いていた。祖母と年寄り猫のとろろは、頼まなくても全然動かないので描きやすい。デッサンするには持って来いのモデルで、私は祖母の家に来ると必ず祖母ととろろを描く。

「香ちゃんは絵を描くのが好きやねえ。じいちゃんもいつも、褒めとったよ」

「好きっていうか、描いてると落ち着くだけだよ。精神安定剤みたいな。最近、うまく描けないけど」

「そうなん?上手に描いてると思うけどなあ」

「私の絵はちょっと暗いんだって。暗いばかりで、明るい絵が描けないの」

 絵の評価自体は悪くない。構図や色彩も問題はない。ただ、私の絵はいつも暗い、負の感情を感じると言われる。短所ではないけれど、それしか描けないのかと問われた。

 理由は分かっている。私は嫌なことや辛いことがあればあるほど、筆がよく乗る。逆に言えば嫌なことがあると絵を描くのだ。何も考えたくない時ほに私は絵を描く。だって絵を描いていれば、そのことだけ考えていられるから。それがきっと絵に現れてしまうのだろう。講評で先生に言われた言葉が頭の中にずっと残っている。

「本当にあなたは暗い絵しか描けないのかな。自分のこと、決めつけていませんか」

 それから、意識的に明るい気持ちになれる絵を描いてみようと取り組んだ。けれど、たとえ笑顔の絵だとしても、描き上げてみるとどこか哀しい。影のある笑顔になってしまう。絵として悪いわけではない。けれど、一度でいい。心から明るくなれる絵を描けたなら、何か変わるのではないか。そんな気がして、私は足掻いていた。そのうち、何を描いても納得いかなくなって、書きかけていた卒制の絵も見直して、作業は完全に止まってしまっていた。

「よく分からんけど、難しいことしとるんやねえ」

「難しくないよ、絵を描いてるだけ」

「子供の頃みたいに楽しく描けたらいいが、香ちゃんはプロやからそうもいかんね」

「ただの美大生で、プロってわけじゃ……でも、そうだね、子供の頃か。いっつも絵を描いていたな」

 絵を描くのが好きだった。いつからそうだったのか覚えていないくらい、小さなころから絵を描いていた。絵を描いて自分の世界を創るのが楽しかった。お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、猫のとろろ。大好きな人たちを描くのが楽しくて堪らなかった。

 クレヨンもお絵描きノートもすぐに使い切って、親によく叱られた。それでも描き続けた。描いて、描いて、描いて。これまでずっと描き続けてきた。

 それなのに、いつからだろう。絵が好き、楽しいと純粋に、素直に思えなくなったのは。いつの間にか嫌なことから逃げるために、絵を描くようになっていた。

「おばあちゃんのこと、今まで何枚描いたかな」

「何枚だろうねえ。香ちゃんがくれた絵はそこの壁に全部貼ってあるよ」

 祖母に言われて、後ろを振り返る。居間の壁一面に、私が幼い頃から描き続けてきた祖父母の絵が綺麗に並べて飾ってある。隅の方は、貼る場所が無くなって何枚か重なっていた。

 幼い頃の絵はクレヨンで紙面からはみ出るくらい元気いっぱいに描かれている。色使いも自由で、見ていて楽しい。少し成長すると、クレヨンが色鉛筆に。そのうち鉛筆デッサンに代わっていく。初期のクレヨンの絵はどれもにこにこ笑顔で描かれていて、祖父母が大好きなことが見てとれる。当然、と言うように祖父母の間には自分自身を描いている。祖父母と手を繋いでいる絵、一緒に遊んでいる絵。愛されていると自覚もせず、それを描いているのが伝わって来る。

 この絵を言葉で表すと、きっと愛や幸せみたいなものになるのだろう。それをいとも簡単に幼い手で描いていた。

「おじいちゃん、香ちゃんが東京に行った後も、香ちゃんの絵を見ていつも嬉しそうやったよ。特にその、最後に鉛筆で描いてくれた絵、いつも見とったわ」

 上京する前、最後に祖父を描いた鉛筆デッサン。祖父が何度もこの絵を見ていたことは、絵に着いた指の跡ですぐに分かった。

 まだ高校生の頃の、稚拙なデッサン。それでも、在りし日の祖父は穏やかな表情をこちらに向けていた。美大に行くことを反対する両親を説得してくれたのは祖父だった。私は祖父が大好きだった。

「ねえ、おばあちゃん」

「なあに?」

 猫のごろごろと喉を鳴らす音と鉛筆が紙の上を走る音が重なる。静かな茶の間にその二つの音はやけに大きく響いていた。

「おじいちゃんがいないと、寂しいね」

「ばあちゃんはもう慣れたよ」

 祖母はそれだけ言って黙った。私は、余計に寂しくなった。

 しばらくして描き上げた絵を見て、祖母は褒めてくれたけれど、やはり求めている絵とは何かが違った。祖母と猫はゆったりした表情なのに、どこかもの哀しい絵だった。祖父がいない寂しさが絵に滲み出てしまった気がした。描いたばかりの絵と壁に貼られた昔の絵を見比べた。

 子供の私がクレヨンで力いっぱい描いた絵は、今よりずっと上手に見えた。

 私はこんな絵が私は描きたかったんだ、と思い知った。今の私に、こんなにも幸せな絵が描けるだろうか。自問しても、描ける気はしなかった。

 溜息交じりにスケッチブックの表紙を開いた。表紙の裏に張り付けてある “宝物”に視線を落とした。

「大丈夫、きっと描ける」

 自分を励ますように言った。

 猫のとろろが膝の上に乗ってきた。寝床に行った祖母の代わりに、椅子にされている。徐に猫の長い毛並みを撫でた。猫の温かな体温が冷えた指先を温めてくれた。

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