第9話

***


 高校三年生の春、それは唐突に始まった。

 あの日のことは今でも鮮明に覚えている。新学期が始まってまだ二日目だった。クラス替えで半分は名前も顔も知らない面子になっていた。去年のクラスメイトも少しはいたが、顔と名前が一致するくらいの間柄の者しかいなかった。もともと友人が多いほうではない。グループワークがあったらどうしようか。朝から憂鬱になりつつも、通り教室に入った。

 その一歩からすべてが変わった。

 教室に足を踏み入れた途端、みんなが話すのをやめた。数秒、痛々しいくらいの沈黙が続いて、くすくすと笑う声が聞こえた。異様な空気に違和感を覚えながら、自分の机の前まで行って、声を失った。

 机の上にゴミ箱が逆さまに立てて置かれ、机上や周囲にゴミが散乱していた。机の中のノートや教科書は汚され、引き裂かれていた。目の前の光景が信じられなくて、固まることしかできなかった。

「何これ……」

 震える声で呟く。

 それまでの短い人生で、幸運にもいじめられたことはなかった。小中学校で大なり小なりの諍いはあった。それでも、軽い無視や仲間外れ程度で、長くても数日で何事もなかったように無くなる程度のものだった。

 だから、ここまで明確に悪意を持って、目に見えて危害を加えられたのは初めての経験だった。

 どうして。誰がやったの。

 私が何かしたの。

 わからない、わからない……。

 疑問ばかり浮かんだけれど、恐怖で言葉にはならなかった。突然向けられた悪意は足が震えるほど恐ろしかった。

 呆けていると「ねえねえ、香ちゃん」と後ろから愉快そうな声がした。恐怖に包まれながら振り返ると、そこには佐々木美希がいた。

 佐々木美希はクラスで一番可愛らしく、お洒落で、目立つ生徒だった。これまで同じクラスになったことはなかったけれど、パッと見てスクールカーストの上位の人だろうと思った。私が知らないだけで学年では有名な人のようだった。ほとんど面識のない彼女がフレンドリーに下の名前で呼んで来ることも、この状況で話しかけてくる意味もすべて理解できなかった。

「机、汚れてるよ?先生来ちゃうから、早く片付けてね」

 彼女はにっこり笑ってそう言った。すると、彼女を取り巻くクラスの上位グループの男女が大声で笑った。その時、私は状況を急激に理解した。

 これから私、いじめられるんだ。

 そう思った。

 その日以降、佐々木美希によって私を標的にしたいじめが始まった。無視は当然で、グループワーク、ペアワークは誰も私と組まない。毎日ノートや筆記具、鞄や靴など私物に何がしかの悪戯、汚損をされる。教員がいない時は佐々木美希を中心に暴力、暴言が浴びせられた。教員がいる時や、周囲の目がある時は、これ見よがしに携帯でメッセージをやりとりしてくすくす笑う。いじめは学校だけで終わらずに、SNS上でも続き、新学期の初日に作られたクラスのグループチャットでは悪口は当たり前で、盗撮した私の写真や動画を加工してクラスメイト達は楽しんでいた。最初は既読無視していたが、嫌になって私は数日でグループチャットから抜けた。

 高校三年生というタイミングも悪かった。もともと進学校で勉強は大変だったが、受験を意識してテストや課題は以前よりも目に見えて増えた。そのストレスの捌け口にするように、佐々木が先導するいじめを他のクラスメイトも楽しむようになっていった。日に日にいじめは酷くなっていった。二週間もすると、いじめはすっかりクラスの日常になっていた。

「どうして、私なの。どうして、こんなことするの」

 佐々木美希に酷いことをされる度に問うた。彼女は決まって愉しそうに嘲って「あんたが大嫌いだからだよ」と言った。

 最初から疑問しかなかった。佐々木美希とは高校三年生で初めて同じクラスになった。彼女のことはそれまで名前すら知らず、勿論話したこともなかった。新学期の初日に「はじめまして、よろしく」と軽く挨拶したような気がする。ただ、それだけ。他になんの接触もなかった。

 どれだけ考えても、彼女が執拗に私をいじめ、私を嫌う理由は分からなかった。

 毎日、いじめられるために学校へ行っているようだった。佐々木美希は狡猾で絶対に学校にばれないようにいじめをした。担任に相談しても、証拠もなく、信じてもらえなかった。佐々木美希も言いがかりだと反論した。担任は人気者の佐々木美希を信じた。その上、告げ口したことでいじめはさらに悪化した。

 教室にいると息が詰まって、度々保健室に逃げ込んだ。放課後、美術室で絵を描いている時間だけ、学校で息が出来た。苦しみながらも学校に通ったのは、高校最後の美術展に出品する絵を仕上げたかったからだ。けれど、ある日突然、ぷつりと糸が切れた。

 いじめが始まって一カ月くらい経った頃、耐えきれずに学校を休んだ。

「足が……動かない」

 今日は何をされるだろう、そう思うと足が竦んで校門から先に進めずに逃げ帰った。親に本当のことは言えなかった。体調不良を理由にしばらく学校を休んだ。自室に籠って、私は隠れながら絵を描いた。

 ずっと、ずっと、ひたすらに絵を描いていた。

 けれど、家にいるからと言って心が安らぐわけではなかった。両親は、その頃は不仲のピークで毎夜毎夜、喧嘩する声が漏れ聞こえていた。私の不登校も不仲に拍車をかけていたのだろう。大きな音と怒鳴り声がする夜は眠れず、やはり絵を描いた。

 絵を描いている間は他のことを考えなくて済む。何も考えたくなくて、ひたすらに絵を描き続けた。

 そうして絵を一枚描き上げる頃には、何もかもどうでもよくなっていた。

「今日も学校を休むの?学校で何かあったわけじゃないんでしょう?ただのずる休みでいつまで休むつもりなの!」

 毎朝、母親は怒ったように言って仕事に出かけた。もともと口煩い人だったが、心配と不安が綯い交ぜになってそんな言い方をしていることは子供の私にも分かっていた。それでも、辛かった。学校に行ってほしい、うちの子がいじめられるわけがない、普通でいてほしい。そんな願いの滲んだ母の言葉を聞くのも辛かった。家はずっと居られる逃げ場所ではなかった。

 梅雨が始まる頃、私は結局、どこにも逃げ切れずにまた学校に通った。

 いじめは当たり前のように続いた。それでも、私には絵があった。絵だけが心の支えだった。授業が終わった後は、部活へ、その後は美大受験対策のために画塾へ通った。学校以外の時間は絵を描くために使った。学校でどんな辛いことがあっても、絵を描き続けた。

 いつの間にか、私の描く絵は暗く哀しいものになっていった。

「澤村さん、おめでとう。美術展の最優秀賞に選ばれましたよ!」

 長い梅雨も終わりそうな頃、美術部顧問だった高岡先生が嬉しそうに報告してくれた。有名な美術展で一番の賞を受賞した。その絵は、不登校になった後も、家でもがき苦しみながら仕上げた絵だった。

 素直に嬉しくて、涙が滲んだ。

 暫くすると、その絵は学校で最も目立つ場所、生徒玄関前の壁に飾られた。学校長など学校の偉い人たちも大喜びするくらいには素晴らしい賞だったらしい。わざわざ美術展で受賞したことを記載したキャプションまで添えられていた。その絵は私が卒業するまでずっとその場所に飾られた。


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