第8話
***
教育実習が始まって、早数日。
未だに、朝と帰りのホームルームは緊張するけれど、なんとか先生モドキとして過ごしていた。先生と呼ばれても、最初は違和感しかなかったけれど、何度も呼ばれ続けると不思議と馴染んでくるものだった。
実習は想像以上に忙しくて、佐々木美希と接触することもほとんどなく、指導案を作っている時以外はほとんど走り回っていた。
指導案は授業の設計図だ。どんなテーマで、どんなめあてや目標を持って授業を行うのか、評価基準や授業の時間配分などを事細かに計画して、授業を円滑に進めるためのものである。
教育実習生は素人同然なので、まずは指導案を作って教員にチェックしてもらう。指導案がなくては、実習生は授業ができないのだ。
そして、肝心の指導案の作成はなかなかに難航していた。
「うーん、ちょっと導入が弱いかな。最初の五分、だらだら説明するんじゃなくて、導入でいかに生徒の興味を引くかがその後の授業に関わってくる。生徒っていい意味でも悪い意味でも正直だからさ。つまらない授業って本当に聞いてくれないわけだよ。澤村さん」
「はい……」
「中世画家の人物画の比較話なんてね、君みたいな美大生は大好物かもしれないけれど、高校の授業でやったらものの数分で何人かは夢の世界行きだよ。もうちょっと素人でも興味を引く内容で話し始めないとねえ。ましてや、実技科目は舐められがちというか、生徒も休憩気分で来ちゃうから余計にね」
「はい……」
「あと、時間配分だけど準備と片づけに最低でも五分ずつ取ってね。休み時間まで押しちゃうと次の授業の先生に迷惑かけちゃうから。やりたいことや伝えたいことがたくさんあるのは結構だけど、時間配分は余裕を持つべきだ。我々、実技は特に。まあ、授業の内容は悪くないから、もう少し修正してきなさい。以上です」
「はい、ありがとうございました……」
がっくりしながら、赤ペンが幾つも入った指導案を抱えて私は美術準備室を出た。大学の授業で、指導案作りや、模擬授業をしたこともあったが、やはり実際に学校で授業するとなると全く別物だ。高岡先生に指摘されることはその通りのことばかりで、もしこの指導案のとおりに授業をしていたら大惨事になっただろうな、と真っ赤になった指導案を見ながら思った。
指導案を抱えて小会議室に戻ると、一ノ瀬と黒川も同じように指導案で頭を悩ませていた。
「二人ともお疲れ様」
二人は疲れた顔で「お疲れ様」と言いながら顔を上げた。
「高校生の頃とか、授業の一時間、ていうか正確には五十分だったけど、すごく長く感じたのに、指導案作ってると時間足りねー⁉ってなんない?」
「なる!」
「なりますね!」
私と黒川は首が取れそうなくらい大いに頷いた。
「何気なく授業受けてたけど、五十分でしっかり内容を収めて教えてくれていた先生たちに、俺は今猛烈に感謝してる。先生たち、すごいわ。あー、疲れた!」
一ノ瀬はぐっと背中を反らして、伸びをした。私は空いている椅子に座って、真っ赤になった指導案を机に置いた。
「そう言えば、二人はどんなテーマで授業するの?」
「私は中国の古い書体の古典臨書を……えーと、美術で言うところのデッサンみたいなことをします」
黒川の広げていた教科書の字を見て私は思わず「難しそう」と呟いた。
「書いてみると楽しいものですよ。一ノ瀬くんは授業で何を?」
「俺は作曲の授業をする予定だよ。俺、音大って言っても作曲科なんだよね」
「一ノ瀬くん、曲とか作るの?すごい!」
「理論を学べば、誰でもできるよ。良し悪しは別としてだけど。澤村さんは授業で何するの?」
「私は人物画……っていうか、自画像を描かせる予定なの。なかなか指導案、うまく書けないけど」
「それは俺も同じ」
「私もです」
三人とも添削で赤だらけになった指導案を見せ合って笑った。
「黒川さんと澤村さんは放課後、部活も出てるんでしょ?大変だね」
「書道部はもともとゆったりした部なのでそうでもないですよ」
「私も美術部は先生が忙しい時に少しアドバイスするくらいしかやってないよ。一ノ瀬くんは部活やってなかったの?」
「俺、放課後は受験対策でピアノ教室に通ってたから、部活やってなかったんだ。でも昨日の放課後、教頭が暇でしょって言って俺とか部活やってなかった奴らを集めて、倉庫片づけたりちょっとした雑用の手伝いしたよ」
「それはそれで大変そうですね」
「今後もたまに呼ぶからさっさと指導案を終わらせろって言われたんだけど、全然終わりそうにない。音楽の静先生って相変わらず厳しい。高校の時も普通に怖かったけど、実習生の立場だと倍怖い。いや……百倍?」
「ハキハキした感じのかっこいい女性の先生だよね?」
「歩いている姿もきりっとしてて格好いいですよね、あの先生」
「そう!すごいかっこいいし、指示的確だし、超いい先生なんだよ!でも怖い」
「一ノ瀬くんみたいなちゃらついた感じの男子に容赦なさそうだもんね」
「だからそれ誤解だって!」
「じゃあ、実習前の髪色は?」
「うっ、ちょっと奇抜な色のインナーカラーとか入れてた時はありました……」
「普通にチャラチャラしてますね」
「黒川さんまで!でも、静先生にも初見でお前チャラチャラしてるなって言われた。実習に向けてちゃんと黒髪にしたのに」
「普通に見抜かれてるじゃん」
一ノ瀬がぐうの音も出なくなったところで、校内放送が鳴った。手隙の実習生は全校集会の準備のため、講堂に集まるようにとの指示だった。
三人揃って講堂に向かうと、実技棟が一番近いためか、他の実習生はまだのようだった。しばらくすると、学年主任の年配の先生が来て指示を出した。
「お、早いね。じゃあ、椅子出して、床の目印見ながら先生方の椅子並べてって。あと、舞台袖から演台出してね。って、卒業生だから言わんでも分かるか、ハハハ」
学年主任は笑いながら、できたら声かけてね、と後ろの方の椅子に座った。しばらくすると、力のあり余っていそうな体育の実習生や、男性ばかりの理数系の実習生が来たおかげで、準備はあっという間に終わった。
「あれー、もう準備終わっちゃったんですかあ?」
ちょうど全てが終わった頃に、耳障りな声が講堂に響いた。佐々木美希を筆頭に五教科の中でも目立っていた英語科と国語科の実習生が入ってきた。佐々木は教育実習でも高校の延長のように取り巻きを作って幅を利かせているようだ。
「せっかくわざわざ講堂まで来たのにねー」
「本棟から講堂遠かったのに」
遅れてやってきた彼女らは作業を手伝ってもいないのに、なぜか文句を言っていて私は口があんぐり開きそうな思いだった。黒川も驚きながらも冷めた目で見ていたので、私と思いは同じだったようだ。他の男性陣は「今、終わったところだよ!」と明るく声をかけていたので、人間ができているなと感心してしまった。
「てか一ノ瀬、なんか久々に見たわ!初日以外全然見かけないけど、どこにいんの?」
ノリの良さそうな数学の実習生に一ノ瀬が絡まれていた。
「いや、普通に実技棟にいるけど」
「そういやお前、担当音楽だっけ?楽器とかできんの?そこのピアノで何か弾いてくれよ!」
「講堂のピアノ勝手に触ったら音楽の先生にしばかれるから無理だって。それに俺は作曲専攻だから」
「音大なのにピアノ弾けねーの⁉」
「いや、普通に弾けるけど、専攻が違うんだって」
「ねー、一ノ瀬くん、たまにはこっちの会議室にも来てよー。こいつらうるさ過ぎなの!一ノ瀬くんの爽やか笑顔で癒されたーい」
「あたしもー」
「スマイルくださーい」
「ちょっと、面倒な絡み方しないでよ。俺、まだ指導案が……」
一ノ瀬の周りにわらわらと男子が集まり、そして女子もその輪に入り始めた。その中には佐々木もいた。いつの間にか、一ノ瀬の周りに派手でやたら声が大きい人種が集まって賑やかに話し始めたので、私は逃げるようにそそくさと講堂を出た。
「待って、澤村さん」
講堂前の廊下を歩いていると、後ろから黒川が追いかけてきた。彼女もさっさとあの場から退散したらしい。
「小会議室に戻るんでしょう?私も戻るから一緒に行きましょう」
黒川は講堂を振り返って苦笑しながら言った。
「出てくるとき、一ノ瀬くんの視線を感じたような気がするけど、置いてきちゃいました」
「懸命な判断だと思う」
「あの面子は私には荷が重すぎますから。一ノ瀬くんって相変わらず人気者ですね」
「高校の時から知ってるの?」
「同じクラスになったことはないですけど、隣のクラスだったので。体育祭とか文化祭とかいつも目立ってましたよ」
「へー、そんな感じする。彼、話しやすいもんね。私みたいな絵しか興味ない根暗とも気さくに話してくれるし」
「それを言うなら私も書道ばかりしている根暗ですよ」
似た者同士だね、と黒川と顔を見合わせて笑い合った。
「私ね、澤村さんと二人になったら、聞きたかったことあったんですよ」
「え、何だろう?」
「澤村さんってSNSやってます?絵のアカウントとか」
「ああ、一つあるよ。ほぼ自分用に進捗とか作業工程を写真撮って載せてるだけの味気ないアカウントだけど」
「やっぱり!このアカウント、澤村さんですよね⁉」
いつも物静かな黒川が興奮気味に携帯電話の画面を見せてきた。そこには私のアカウントの画面があった。
「ああ、これ、そうそう、私。あ、フォローしてくれてるんだ、ありがとう。でも何で?」
「何でって去年の澤村さんの絵を見てファンになってフォローしたに決まってるじゃないですか!あの時、フォロワー一気に増えたんじゃないですか?」
「去年……ああ、あれか。そうなんだ、ありがとう。いや、私、SNSあんまり慣れてなくてよく分かってなくて」
「最初は同姓同名かなって思ってたんですけど、もしかしてって思って。すごいですね、澤村さん!あの絵も最高でした!」
「いや、凄いのは私じゃなくて、依頼主の……」
「澤村さーん、黒川さーん!」
黒川と話している途中で、声がして私たちは会話を止めて声の方を見ると、飯森が廊下の反対側から歩きながら手を振っていた。
「飯森さん、授業見学だったの?なんかいい匂いするね」
飯森のスーツから甘い香りが漂っていた。
「そうそう、さっきまで調理実習でね。補助もしてたの。ほら、お土産のカップケーキ!」
「え、いいの?やったー!」
「嬉しいです」
「講堂で全校集会の準備してたんでしょ?二人ともお疲れ様。あれ、一ノ瀬は?あいつの分も持ってきたのに」
「講堂で元スクールカースト上位の方々と戯れてたよ」
「じゃ、これはあたしが食べるか」
そこからは三人で話しながら小会議室に戻った。
「もうさー、カップケーキ焼くだけなのになぜかカップケーキがオーブンの中で燃えかけてて、大変だったんだよ。そしたら家庭の先生が、毎年一人は燃やすのよねって呟いてて笑いそうだったけど、教師の立場だと笑えないわって真顔になったわ」
「確かに生徒側だと笑えるけど、先生側じゃ笑えないよね」
「調理実習って準備とか片付けも大変そうですね」
飯森の調理実習の話を聞いていたらすぐに小会議室に着いた。中に入って、指導案の続きに取りかかろうとして、私は異変に気付いた。
「あれ……ない」
私が作業していたはずの机の上が真っ新になっていたのだ。放送で呼び出されて、筆記具すら仕舞わずに出て行ったのに、書きかけの指導案もペンケースすらなかった。高校の時の記憶が蘇って、目の前の光景と重なった。嫌な予感がする。飯森と黒川に気づかれないように、部屋の隅にあるゴミ箱に近づいて中を覗いたら案の定だった。
ああ、何度も見たことがある光景だ。懐かしさすら感じる。
破かれて、ぐちゃぐちゃになった指導案。壊された筆記具やペンケース。既視感があるのは、高校生の時に数えきれないくらい同じ光景を目にしたからだ。怒りよりも諦めに近いようなあの懐かしい感覚がして、私はゴミ箱の前で立ち尽くした。
思い出したくない過去が、あの苦しい日々が、脳内に鮮明に蘇える。
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