第10話

 絵が飾られてから数日後、その日は高校生活で最低な一日だった。

「お父さんとお母さんね、離婚することになったから」

 家を出ようと靴を履いている時に、母は言った。なんでもないことみたいに、普通のことのように言った。振り返ったけれど、父は興味なさげにダイニングで新聞を読んでいた。

「……え、本当に?」

 毎夜聞いていた両親の言い争う声。薄々そんな予感はしていた。それでも、動揺しているまだ子供な自分がいた。

「来年は香も進学で家を出るだろうし、良いタイミングだと思ってね。離婚することにしたのよ」

「……そう」

「あなたの卒業前に離婚するわ。三学期ならほとんど自由登校だし、離婚して名前が変わってもそんなに目立たないでしょう?手続きは来年の初めにするからそう思っておいて頂戴ね」

 無言で頷いて家を出た。相談でもなく、決定事項。頷く以外、私にできることはなかった。

 憂鬱な朝だった。降りしきる雨の中、重い足取りで登校すると、玄関ホールに飾られた自分の絵が視界に飛び込んできた。絵に描かれた女の子と目が合う。

 絵の中では、小さな女の子が嬉しそうにクレヨンを持って、画用紙に絵を描いている。母親の膝の上に座って、白い歯を覗かせて幸せでたまらないといった表情だ。鑑賞者を描こうとでも言うように、その瞳はこちらを向いていて、クレヨンを持つては小さな椛のよう。

 その少女は、幼い頃の私自身だった。

 母に抱っこされ、嬉しそうに目の前に座る父を描いている。お絵描きが大好きで、父母もまだ仲睦まじく、私の最も幸福だった頃の記憶。まるで、アルバムから思い出の一枚を取り出したような絵だった。屈託なく笑う絵の中の幼い自分が羨ましく見えた。こんなに幸福そうな絵なのに、どこか切なく見えるのは親が喧嘩する声を聞きながら描いたせいなのだろうか。

 ぼんやりと絵を見つめていると、視線を感じてふと横を向いた。少し離れた所から、佐々木美希が私を睨んでいた。それはもう、凄まじい怒りの形相だった。ぞっとした。心当たりはないが、何か怒らせたのだろうか。きっと今日も手酷くいじめられる。諦めた気持ちで、私は佐々木を見ないふりをして下を向いて教室に向かった。

 予想通り、その日は普段よりも酷いいじめに遭った。

 佐々木美希は機嫌が悪く、何かというと私を後ろから蹴った。いじめやすいようにか、休んでいる間に私の座席は佐々木の前になっていた。クラスメートが集めて提出した課題は、私のプリントだけ捨てられていて未提出になっていた。体育では教員の目を盗んで、バスケットボールはただ私にボールを当てるだけのゲームに変わっていた。そんな小さな嫌がらせが積み重なっていく。私はただ静かに時間が過ぎるのを待った。

 放課後、押し付けられた教室の清掃当番を一人で終えて、やっと一息ついた。

 水曜日は、基本的にすべての部活動が休みなので、放課後の学校も静かだった。画塾まで少し時間があったので、私は美術室に向かった。三年生は受験勉強のため、六月で退部する決まりなので、私はもう美術部員ではない。けれど、高岡先生は私が何かに悩んでいることは察していて、好きな時に美術室を使ってよいと言ってくれていた。その好意に甘え、画塾が休みの日は美術室を使っていた。

 美術室に入ると案の定、誰もいなかった。

 画塾では受験対策でデッサンや試験用の油絵ばかりやっているので、学校では息抜きにちまちまと好きな絵を描いていた。完成したら、毎年、文化祭で行っている美術部の作品展で今描いている絵も展示してくれるという。画塾は夕方からなので、画塾までの短い時間だが、少しずつ絵を進めていた。

 静かな美術室で、黙々と作業をしていると高岡先生が準備室からひょっこり顔を出す。

「香さん、今日も来ていたんですか。精が出ますね」

 先生は私に飴玉を一つくれた。私はお礼を言って受け取った。

「顔色、少し悪いですよ。この後、画塾もあるのでしょう?無理しないように」

 不登校を経て、高岡先生は今まで以上に私を気にかけてくれるようになった。私が保健室にしょっちゅう休みに来ていることを保健室の先生からも聞いているようだった。

「何か悩みがあれば、僕でも周りの大人に頼りなさい」

「……大丈夫です」

 不器用に笑って頷いた。いじめられていると親にすら言えないのに、先生にはもっと言えなかった。恥ずかしかった。いじめられていると誰にも知られたくなかった。

 高岡先生は何か言いたげな顔をして「大丈夫ならいいんだ」とだけ言った。

「それじゃあ、僕はこれから職員会議なので。ほどほどにね」

 先生が去った後、休憩がてらお茶を飲もうとして水筒を教室に忘れたことに気が付いた。絵筆を置き、水筒を取りに一旦、美術室を出た。教室へ行くと、受験勉強をしている人たちがちらほらいた。佐々木美希がいないことにほっとしながら水筒を取ってまた美術室に戻る。人気のない廊下をとぼとぼと歩いていると向こうから歩いてくる人影をぼんやり視界の端に映していた。かなり近づいてから、はっとして立ち止まる。こちらに歩いてきたのは、あの佐々木美希だった。

「あれぇ?香ちゃん、まだ学校いたんだねー」

 佐々木の馬鹿にしたような甘ったるい声を無視して、私は目を伏せた。そして、そのまま彼女の横を急いで通り過ぎようとした。

「お絵描きは楽しい?」

 佐々木は立ち止まって意味ありげに美術室を振り返った。私はどきっとして、足を止める。

「なに……」

「あたしたちが受験勉強してる時に、香ちゃんはお絵描きして遊んでるんだよね。気楽でいいなあ」

 いいな、なんて微塵も思っていない顔で彼女は言う。

「でもさー、必死に勉強してるのに、横でお絵描きして遊んでる奴いるとさ、目障りだよね、普通に。きっとあたしだけじゃなくて、みーんな、香ちゃんにイライラしてるよ」

「……何が言いたいの」

「受験勉強で疲れている人が、香ちゃんの絵を見たら何すると思う?」

 佐々木は可愛らしい顔で悪魔のように嗤って言った。

「きっとイライラして壊しちゃうよね」

 私は走った。きっと慌てて走り出した私の姿を佐々木美希は嗤って見ているに違いない。それでも、走って、走って、美術室に飛び込んだ。

 肩で息をしながら、目の前の光景を見てその場にへたり込んだ。

「私の絵が……」

 どうして、こんなに酷いことができるの。

 廊下にいるだろう佐々木美希に聞かれたくなくて、滲む涙を必死で堪えた。嗚咽が漏れないように口を押えて声を殺した。イーゼルに立ててあった絵は床に落ちていた。少しずつ描き進めていた絵。それは見るも無残にカッターで切り裂かれ、ボロボロになっていた。ノートや教科書を壊されるのとはわけが違った。一筆、一筆、時間をかけて色を重ねてきた作品を壊される、それは私にとって身を捥がれるような痛みと哀しみがあった。

 理由もなくいじめられる。親は離婚する。心の拠り所だった絵は壊される。

 家にも学校にも、どこにも逃げ場はないと思った。世界は広いと言われても、現状、高校生の私には家と学校が世界の全てだった。ただでさえ、狭い世界は袋小路のように行き止まりばかり。

 絵を描きたい。その一心で耐えてきた。けれど、その絵すらも壊されたなら、もう終わりだ。

「もういい、疲れた」

 セーラー服の袖で滲んだ涙を拭って、窓に向かって歩き始める。窓を開けると、はらはらと小雨が降っていた。窓の下には雨に濡れた中庭の銅像が見えた。中庭には木々や花壇があって、真下は舗装された地面だった。二階からだから、確実に死ねるかは分からない。舗装されたコンクリートの地面なら頭から落ちれば死ねるだろうか。たとえ、死ねなくても意識さえ戻らなければそれでいい。

 いけないことだと理解している。何の解決にもならない。ただの逃げだ。親に迷惑をかけるだけで、加害者たちを喜ばせるだけの愚行。頭の中に次々と警告めいた言葉が浮かんでくる。けれど、その警告を受け入れて、明日からも頑張るだけの力がない。正しいことを考えるだけの、ほんの少しの力も、私にはもう無かった。

 死ぬのは怖い。けれど、明日も学校に行くのはもっと怖かった。

 死ぬより、これからも生きなければいけないことのほうが余程辛いと思った。

「ちゃんと死ねますように」

 独り言のように呟いて願った。窓から身を乗り出すと、しとしとと降る小雨が顔を濡らす。柵を掴んでいるこの手を離せば落ちる。落ちて楽になればいい、と自分に言い聞かせるように目を閉じた。力を抜いて、そっと手を離そうとしたその時だった。

 頭上から、優しい音色が降ってきた。

 それは真上にある音楽室から漏れ聞こえるピアノの音色だった。初めて聞くその旋律は、泣きたくなるくらい優しかった。ゆっくりと目を開けて、ため息を吐く。そして落ちないように気を付けながら、教室の床に足を下ろした。

 床に足が着くと、力が抜けてその場に座り込んだ。開けたままの窓から吹き込む雨に濡れながら、その美しいピアノに耳を傾けていた。気が付けば、最後までその曲を聴いていた。

 演奏が終わると、ぽろぽろと涙が止めどなく溢れ出た。ずっと泣くのを我慢していた。一度泣いたら止まらなくなると思った。それなのに、あまりに優しいピアノの音色に、うっかり泣いてしまった。そして、やっと自覚する。

 多分、私はずっと、泣きたかったのだ。

「……死にたくない」

 泣きながら、本心が口からこぼれ出た。死にたいわけがない。

 ひとりぼっちの美術室。雨に打たれながら、たくさん、たくさん泣いた。怖い、辛い、苦しい、痛い、哀しい。この数カ月ため込んだ負の感情が涙となって止めどなく流れた。震える自分の身体をぎゅっと両腕で抱きしめて、ひたすら生きたいと願った。自分自身に言い聞かせるように「こんなことで死んじゃだめだ」と何度も呟いた。

 長い時間大泣きして、気持ちが落ち着くと自然と冷静になれた。本当は死にたくなんかない。普通に毎日を過ごして、絵を描きたい。もっと絵が上手くなりたい。

 私はただ、死ぬまで絵を描き続けたいだけ。

 自分の本当に望むことは、はっきりしていた。いじめが始まった春から、初めてやっと前向きな気持ちになれた。

「……また、あのピアノが聞きたいな」

 座ったまま、窓の外を見上げる。

 不思議だった。絵を描くことばかりしてきた。音楽に触れない暮らしだった。それでも今日の私を救ってくれたのは、音楽だった。音楽も美術も、芸術は暮らしに役立つことはそうないけれど、きっとこうして思いがけず誰かを救うことがあるから、今まで絶えずに続いて来たのかもしれない。そう思うと、芸術の道を志す者の末端として胸が熱くなった。

 あのピアノがなかったら、きっと私は飛び降りていた。間違いなく、あのピアノが奏でる音楽が私を救った。私の絵も、いつか誰かを救うことはあるだろうか。

 そんな作品を私も創りたい、と強く思った。

 見上げた空は暗い雲で覆われたままだったけれど、いつの間にか雨は止んでいた。

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