第6話

***


 週が明けて月曜日。ついに教育実習の初日を迎えた。緊張した足取りで朝早く出発すると、バスの中には既に生徒の姿がちらほら。バスを降りて学校までの一本道になるとその数はもっと増えた。始業時間まではまだまだ時間がある。きっと部活動の朝練に来た生徒や、自習室で勉強する受験生だろう。

 制服を着ていない、というだけでこうも通学の居心地は悪くなるものだろうか。私は何となく足早に学校へ向かった。事前に教えてもらった教職員用玄関から入ると、多くの名札が出勤側に移動していた。朝からこれだけの人数が時間外労働を当たり前にしている。教員になりたくないなあ、と初日から思わせられるには十分な光景だった。

 実習生は職員室にほど近い大会議室に集合することになっている。私は階段を上ると、すぐ目の前の会議室に扉を開けた。すでに多くの実習生が集まっていた。

「……おはようございます」

 誰に言うでもなく小さい声で挨拶しながら中に入って、空いている机に荷物を下ろした。会議室の前のほうでは見るからにスクールカーストのトップに君臨していただろう、明るく元気で、派手な集団が賑やかに談笑している。その中心には佐々木美希の姿もあったが、なるべく見ないようにした。

 私の他にも知り合いがいないのか大人しく座っている実習生は多かった。高校までは教室で一人だと何となく恥ずかしかったり、気まずい気持ちになったが、不思議と大学に入ってからは何も気にならなくなった。逆にどうしてあそこまで独りを怖がっていたのだろうと思うくらいだ。

 きっと、教室という見えない檻がそう感じさせていたかもしれない。

「おはよー、澤村さん」

 ぼーっと考え込んでいると、急に頭上から影が降ってきた。顔を上げると一ノ瀬律が私の隣に鞄を下ろしていた。彼は大きな欠伸をして、見るからに眠そうに見える。

「おはよう、一ノ瀬くん」

「自堕落な大学生活に慣れると、高校の朝早い時間帯ってきつくない?俺なんか朝弱いから一限目の授業できる限り排除してるし、こんな朝早い生活久々すぎて辛いわ」

「わかる。大学って一限目もそんなに早くないもんね」

「よくこんな朝早い生活を義務教育と高校の十二年もの間やってたなって自分で感心するよ。そう言えば澤村さん、体調は大丈夫?」

「え?体調?」

「この間、校門で倒れそうになってたでしょ?」

「ああ……!いや、あれは、極度の緊張で、アハハ……私、未だに学校に苦手意識あってね。教育実習に来ておいてこんなこと言うのも恥ずかしいんだけど。今日は何とか普通に来れたよ」

「そっか……すごいね、澤村さん」

「今の話にすごい要素なくない?ただのビビりだよ」

「だって倒れそうになるくらい学校苦手なのに、教育実習来たんでしょ?すごいと思う!」

 真っすぐな瞳で力強く言われて、私は何だか気恥ずかしくなってしまった。誤魔化すように「一ノ瀬くんって変わってるね」と言うと、彼はそうかなと不思議そうにしていた。

 この人と在学中に友達になれていたら、私の高校生活はもう少し楽しかったのかな。そんな詮無いことを考えてしまうくらいには、彼の言葉は優しかった。

 暫くすると、予定の時間になり、教頭が会議室に入ってきた。ざわついていた実習生は一斉に静かになった。ぴりっとした緊張感が漂う。

「みなさん、おはようございます」

 教頭は全員揃っていますね、と人数を数えてから手元の書類に視線を落とした。

「今日からいよいよ教育実習が始まります。説明会で伝えた通り、これから職員朝礼で挨拶してもあります。それから、それぞれ割り振られたクラスの担任と一緒に朝のホームルームに出席してもらいます。実習期間中は各クラスの朝と帰りのホームルーム、清掃時間の監督、部活動の補助など皆さんに担当してもらいます。ホームルームでは出席確認と連絡事項を生徒に伝えて、出欠は職員室の黒板に記入してくださいね。他の時間は教科担当の指示に従ってください。あと、部活動OBはなるべく部活にも顔を出してください。それから、この大会議室と実技棟の小会議室は作業場として自由に使ってください。では、そろそろ朝礼です。職員室に向かいましょう」

 教頭に続いて、実習生は列をなして職員室に入った。中は先生方でごった返していた。私たち実習生は前の方にぎゅうぎゅうに詰めて並んだ。この学校には職員室の他に生徒指導室や相談室、各教科の準備室や、三年生担当の先生が集められた受験対策室など、いくつか小規模な職員室のような部屋がある。

 全教員は普段は別の部屋に分散しており、全教員が職員室に集まるとかなりの人数になる。広い職員室ですら手狭になっていた。さらに実習生の集団がいるため、職員室はすし詰め状態だった。

 予鈴が鳴り、教頭が「では、職員朝礼を始めます」と一声かけるとざわついていた職員室はしんと静かになった。教頭や事務員が機械的に連絡事項を話し、その後、校長と副校長から教育実習について手短に話があり、教育実習生一人一人を科目と共に教頭が紹介し、朝礼は十分ほどで終わった。

 そこからは凄まじかった。本鈴まで数分しかないので、各クラスの担任の先生は実習生をとっ掴まえると、挨拶もそこそこに自分の教室へとほぼ小走りで連行した。校舎は広く小走りしても最上階の一年生のクラスは遠いので本鈴と同時の到着だった。

 私が割り振られたのは一年六組だった。

 担任は大きな声でハキハキ話す英語の先生。新婚で来年子供が生まれるらしい。小走りしながら教えてくれたおしゃべり好きな先生だ。

 担任の後ろについて教室に入ると、若くてぴちぴちしたひな鳥のような一年生たちが待ち構えている。私の姿を見ると、わっと嬉しそうな声を上げて迎えてくれた。

「やったー!若い!しかも女の子だー!」

「かわいー!」

「先生、何歳⁉大学どこなん?」

「彼氏いますかー⁉」

 若さゆえの元気で不躾な質問が飛び交う中、生徒たちに負けない声量で担任の先生が強引にホームルームを始めた。出欠を取る間も生徒たちは実習生に興味津々と言った様子で話しかけてきたり、手を振ったりしていた。かなり陽気な生徒が多いクラスのようだ。

「はい、じゃあ、みんなのお待ちかね。教育実習生の澤村先生に挨拶してもらいます」

 連絡事項が終わると、担任の先生は教卓から退いて隅に立っていた私を手招きした。生徒たちはきゃっきゃっと楽しそうな声を上げてはしゃいでいる。私はおずおずと教卓の前に立つ。生徒の時と真逆の視点は、新鮮で不思議な感覚だった。一段高いところから教室全体を見回す。意外と後ろの席まで生徒たちの顔も手元もはっきり見える。中高時代に隠れて落書きしていて怒られたのも、この眺めなら仕方ないと思えた。興味津々で私を見つめる四十人の視線を受け止めながら、私は緊張気味に口を開いた。

「澤村香です。今日から教育実習生として、短い間ですが、このクラスでお世話になります。担当は美術です。今は大学四年生で絵の勉強をしています。よろしくお願いします。美術選択の人は授業でもよろしくお願いします!」

 丁寧に頭を下げると、大きな拍手が帰ってきた。ほっとして顔を上げた。

「今日の帰りから澤村先生がホームルームやるから、お前たちは騒がず!大人しく!真面目にするように!」

「はーい」

「いつも真面目でーす!」

 生徒たちから冗談交じりの返事が返ってくると、担任の先生は「うそこけ!」とわざとらしく怖い顔をして応戦した。生徒たちが笑うと、さらに教室は賑やかになった。自分が在校生だったときは大人しい雰囲気のクラスになることが多かったので、この明るさにはやや圧倒されてしまった。担任と生徒、双方が明るい気質なのだろう。相乗効果で一年生のどのクラスより賑やかだった。

 ホームルームが終わると、担任の先生は二年生の授業があると言い、小走りで去って行った。私は一旦、職員室に戻って出欠を記入してから、会議室に置いていた荷物を持って美術準備室に向かった。実技棟の二階に来ると、高岡先生が忙しそうに授業の準備をしていた。

「高岡先生!遅くなってすみません」

「ああ、香さん……じゃなくて、はま……でもなくて、澤村先生!やだね、歳をとるとぱっと名前が出て来なくて」

 高岡先生はロマンスグレーの髪を掻き上げて唸った。

「生徒の前でうっかり香さんと呼んだらセクハラと言われそうで怖いね」

「元美術部員と言えばすぐに解決しますよ。何か手伝えることはありますか?」

「じゃあ、プロジェクターをセットしてから準備室の教材を運んでくれるかな。二限目は二年生の授業でシルクスクリーンをやっていてね、オリジナルTシャツを作るんだ」

「わあ、懐かしい。私の時は風呂敷でした!」

 私は吊り下げ式のスクリーンを引っ張り出して、プロジェクターを教壇に置くと電源を入れた。先生は黒板に見本のTシャツを磁石で張り付けていた。

「風呂敷は面積が大きくてやりがいあると思ったんだけどねえ、生徒から風呂敷なんて使わないって声が多くて変えたんだよ」

「そうなんですか?私、あの風呂敷はけっこう使ってますよ。形にこだわらずに包めて便利です」

「そうか、包み方まで教えればよかったな。いやあ、盲点だったね。来年の参考にしよう」

「先生、教材はここに並べればいいですか」

「ああ、ありがとう。助かったよ。えーと、ちょっとこっちに来てくれるかな」

 高岡先生は準備室に入ると、ドア横の壁に貼ってある時間割表のようなものを指差した。

「これね、各先生方の曜日ごとの時間割で、どの先生が何曜日の何限目に授業があるっていうのが全部わかる一覧表です。僕のところは蛍光マーカーしてあるので、すぐに分かるね?僕の授業はなるべく見学してください。選択科目なので時間が被っていますが、他の芸術科の先生の授業も見てくださいね。時間に余裕があれば、芸術以外の授業も見て来てください。実習の後半は他の実習生の研究授業も見学するといいですよ」

「はい、色々見学してみます」

「今週は授業を見学しつつ、空いた時間に指導案を作ってください。出来次第、僕がチェックして直します。今週中に指導案を作って、授業準備ができたら実際に授業を行いましょう。授業数は三から四時間くらいで構成してください。授業テーマは決めてきましたか?」

「人物デッサンにしようと思います」

「ふふふ、そうだろうと思いました」

「え?」

「君は人を描くのが好きだから。年間指導計画の流れにも沿ってますから良いと思いますよ。では、それで指導案を考えてきてください」

「わかりました。あの……先生」

「何ですか?」

「私って、人を描くのが好きなんでしょうか?」

「だって君、人を描いている時、夢中になり過ぎて息をするのも忘れる時あるでしょう?」

 私は制作中を思い返してみて「はい」と頷いた。すると、先生はおかしそうに笑って「それって好きだってことだと思いますよ」と言った。

 

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