第5話
***
学校とバス停の間に小さな公園がある。申し訳程度の砂場と小さな滑り台、後はベンチしかない寂れた公園だ。年季の入ったベンチは、腰かけるとギシギシと不穏な音がした。
「本当に大丈夫?」
彼は、公園の前にある自販機で買ってきたばかりのお茶を私に差し出した。彼の顔には心配だと大きく書いてあるようだった。
「ありがとう」
私は礼を言いながらお茶を受け取った。夕陽はすっかり沈んで、辺りは薄暗くなって、公園の古びた電灯は時折点滅しながら暗い公園を照らしている。
私を助けてくれた親切な彼は、
背の高い彼が隣に座るとベンチは余計に小さく見えた。背の高さのわりに威圧感がないのは、くりっとした二重の大きな目が特徴の優しい顔立ちのせいだろうか。
在学中は理系クラスだったらしく、文系クラスの私とは一切面識がなかった。世話焼きな性格のようだ。佐々木が去った後、成り行きで彼と帰ることになり、今に至る。
「一ノ瀬くん、説明会の前にも校門でも助けてくれたよね。お礼が言えてよかった、色々とありがとう」
「あれは保健室連れて行っただけだし、助けたなんて言うほどのことはしてないよ。それに、さっきだって……」
一ノ瀬は言い淀んでから、いきなり「ごめん!」と頭を下げて謝った。
「俺、本当は助けに入るよりもっと前から見てたんだ。助けに入るべきか、とかいつ行こうとかタイミング考えてたら出て行くの遅くなって……本当にごめん」
「一ノ瀬くんが謝ることなんかないけど……そうだったの?いつから見てたの?」
「澤村さんがいい加減にしてよって言ってたところ辺りから……」
「わお、想像より結構序盤だった」
「ごめんなさい……」
一ノ瀬君は大きな背を小さく丸めた。
「いやいや、謝ることないってば。てことは、全部聞かれちゃったのか」
「俺、三階の階段のところで夕陽きれいだなーって呑気に写真撮ってて、そしたら下から声が聞こえて。ただの喧嘩かなって最初は様子見てたんだけど、殴る蹴るみたいなの始まったから慌てて止めに入ったんだよ。もっと早く止めに入ればよかった。ごめんね」
「だから、一ノ瀬くんは悪くないって。もう謝らないで。それより、今日見たことはどうか他言無用でお願いします」
「先生たちに相談したほうが良いんじゃないの?」
「いいの。私たちこれから教育実習で仮にも先生をするのに、教える側の私達がいじめだなんだって騒いでたらおかしいでしょ」
「おかしくないよ。年齢関係なく、いじめは許されないことだと俺は思う。それにさっきのは普通に暴力事件だよ。高校の時からああだったの?」
「あのくらいなら高校の時より全然マシだよ。いいの、佐々木さんにも昔のことは掘り返さないって言ったし。それにもし、私が今日のことを先生たちに言ったとしても佐々木さんは上手く言い逃れして誤魔化すと思う。確たる証拠でもない限り彼女は認めないはず」
「俺が証言するよ!」
「佐々木さんなら証言は嘘だって言うだろうし、一ノ瀬くんもあることないこと言われるよ」
「別にいいよ、暴力振るうような人間に何言われても。俺、ああいう……いじめとかくだらないことする人間大嫌いなんだ」
彼は冷たい表情で吐き捨てるように言った。彼の言葉には嫌悪感が満ちていた。正義感だけではないような、憎しみすら感じる言い方だった。私はしばらく黙って考えながら、お茶を一口飲んだ。
「あのね、本当にもういいの。出来れば忘れたいの。だから、掘り返したくない。こうやって私の味方してくれる人が一人いるだけで十分だよ。教育実習さえ終われば、佐々木さんともう関わることもないだろうし」
「でも……」
「高校生の頃のままの私だったら、たぶん佐々木さんに会った時点で逃げて帰って、教育実習もやめてたと思う。でも、私は今日逃げなかった。だから、このまま何事も無く無事に教育実習を終えて、逃げなかったっていう自信を取り返したいんだ」
私はぎゅっと、手に持っていたお茶のペットボトルを握りしめた。
高校生の時、いじめに耐えかねて少しだけ不登校になった。その後はほとんど教室に行けずに、保健室と美術室で過ごして、授業は課題をすることで何とか単位をもらって卒業した。逃げたことがずっと心に残って、枷のようにずっと心に引っかかっていた。逃げたことが悪いことだとは思ってない。逃げないと壊れてしまいそうだったから。
教育実習だって、逃げようと思えば逃げられた。卒業後も母校には近寄るだけで吐き気がして、ずっと避けてきた。それでも、今なら立ち向かえるんじゃないかと、逃げなかった記憶に塗り替えられるのではないかと、多分私はそう思ってここに来たのかもしれない。
「だから、今日のこと秘密にしてください。お願いします、一ノ瀬くん」
私が真っすぐに彼を見ると、かれは眉間に皺を寄せて困ったような顔をした。それでも私が見続けると、終に彼は折れて「ああ、もう……わかったよ」と小さく答えた。
「ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃないよ。澤村さんの意志を尊重はするけど、もし、実習中にさっきみたいなことがあったら俺は迷わず止めるし、学校に報告するからね」
「佐々木さんも無事に教育実習終わらせたくて私に絡んできたんだからその心配はいらないよ」
「分からないよ、ああいう人は何しでかすか……とにかく気をつけて。困ったことがあったら俺のこと頼ってよ」
ね、と念推すように彼は私に迫った。
「今日初めて会ったのにどうしてそこまで良くしてくれるの?」
「何回も言うけど、俺、本当にいじめとか大嫌いなんだよ。だから、目の前にそういう人がいたら絶対助けるって決めてるだけ。それに一緒に帰って、こうして話してるんだし、もう友達でよくない?友達なら普通に助けるでしょ」
私は思わず、ふっと笑いを漏らした。
「その発想はなかった。友達って……!私たちもう二十歳も過ぎてるのに」
「何で笑うの?大人になっても友達は友達でしょ!」
きょとんとした顔をしてから、一ノ瀬は不服そうに言った。
「そうだね、たしかにそうだ。一ノ瀬くんって友達多そう。それに人から好かれそう。私と真逆の人間って感じ。友達になったら面白そうだ」
私はなんとか笑いを収めて、すっと手を差し出した。
「じゃあ、オトモダチってことで来週からよろしく」
よろしく、と一ノ瀬は力強く握り返した。
その後、お茶を飲み切るまで少しの間、雑談をした。バスが来る時間になって、私たちはバス停へ移動した。普段なら部活終わりの生徒でごった返しているバス停の待合室も、部活動が休みの水曜日なので閑散としていた。辺りはもう夜になって真っ暗だった。
「はい、荷物」
一ノ瀬は私が高岡先生から渡された重い紙袋を持ってくれていた。私は礼を言って受け取る。一ノ瀬はいちいち振る舞いが紳士だった。気障というよりは、慣れて自然にやっているという感じだ。きっと女子にモテるのだろうな、と思った。
「澤村さんって、金沢駅まで行くの?」
「うん、駅からバス乗り換えるの」
「そっか。じゃあ、次のバスだね。すぐ来るみたい、良かった」
「一ノ瀬くんは?」
「ああ、俺は家が近くて歩きなんだよね」
「えっ!じゃあ、一緒に待っててくれたの?いいよ、先に帰って!」
「もう遅いし、人気もないし、バスが来るまで一緒にいるよ」
「でも、悪いよ」
「澤村さん、女の子なんだから危ないって」
「はあ、お手数おかけします……」
一連のやり取りに何だか照れてしまって、私はそれきり静かになった。今まで周りに女の子扱いしてくるような紳士な男子はいなかった。特に大学の男子は制作に夢中な変わり者ばかりだったので、こういうやりとりは新鮮で余計に照れてしまう。
暫くすると、駅に向かうバスが来て、ゆっくりとバス停の前に止まった。バスのドアが開いた。
「じゃあ、またね。今日は本当にありがとう」
「うん、また来週ね」
バスのステップを上って整理券を取った時に、私はそう言えば、と後ろを振り向いた。
「一ノ瀬くんって何の科目の実習生なの?」
「音楽だよ」
バスの扉が音を立ててぱたんと閉まる。一ノ瀬はガラスの向こうでにこやかに手を振っていた。私は反射的に手をひらひらと振り返す。バスが発車して彼の姿はすぐに小さくなって、見えなくなった。
音楽、と聞いて私は放課後に聞いたピアノの音色を思い出していた。
「……まさかね」
家に着くと、母親が張り切って夕食を用意していた。昨日、東京から帰ってきたときもそうだったが、母親はなぜ子供が帰って来ると張り切って大量のご飯を作るのだろう。
小さな丸いちゃぶ台には大皿が幾つも並び、乗り切らない程だった。事実、乗り切らなかったサラダ類は畳の上にいるのだから。料理の量がおかしいのは目に見えて明らかだった。
到底、大学生の女と五十代の母親、八十代の祖母の三人で食べきれる量ではない。我が家には食べ盛りの野球部の男子高校生でもいただろうか、と錯覚しそうになる物量だった。
「ほら、香!豚の角煮好きでしょう?たんと食べなさい!」
「好きだけど、こんなたくさん食べられないってば。このやりとり、昨日の唐揚げでもやったよ……」
「まだ若いんだから食べなさい!どうせ、向こうじゃ絵ばっかり描いてろくに食べてないんでしょう?」
「食べるよ。自炊してるし、たまに外食だってするし!」
「本当かしらねえ。香ったら滅多に帰って来ないし、来てもすぐに帰るし、気付いたらこんなガリガリになってるし!お母さんがどれだけ心配しているか分かってるの⁉折角、長期間いるんだからふくふくに太って帰りなさいよ」
「だから食べてるって言ってんでしょ。話聞いてよ」
「香や。お前さん、角煮もっと食べんかいね」
「……ありがとう、おばあちゃん。もう嫌になるくらいたくさん食べてるよ」
母も祖母も何のバグか分からないが、送信機能のみで受信機能が欠如しているようだ。二人とも全くこちらの話を聞かない。
うっぷ、と半分くらいえづきながら、まるで仏壇に供える御仏様のように盛られたご飯を何とか口に放り込んだ。こんな漫画みたい山盛りのご飯なんて食べきれるわけがないのに。
ひっきりなしに私への文句を言いながらも、母が少し嬉しそうなことには気づいていた。祖母も口数は少ないけれど、いつもより賑やかな食卓に笑みを零している。ここは母の実家、もともとは祖母が一人で住んでいた金沢の古い町家だった。犀川がよく見える川辺に立つ一軒家だ。
高校を卒業するまでは金沢駅近くのマンションで両親と三人で暮らしていた。高三の時に親が離婚して、母は実家に出戻り、私は東京で一人暮らしするため、自然と一家離散した。父は今もあのマンションで暮らしているらしい。家を出る時、マンションの鍵は渡されなかったので、私は必然的に母のいる祖母宅に帰省している。
離婚の原因はよく知らない。
「それで、香、あんたどうするの?卒業した後は。金沢に帰って来るの?東京にいるの?」
「いやあ……まだなんとも」
「まだって、あんたねえ!もう四年生よ⁉あんたの小学校の同級生のリカちゃんなんて地元の銀行に内定貰ったらしいし、中学のユキちゃんだって大阪の会社に内定したって言ってたわよ⁉」
「うーん……」
「ハッキリしないわねえ!教育実習しに来たってことは美術の先生になるんじゃないの?」
「いや、教免あったら安心かなあってぐらいでそこまで考えてなかったていうか……教採の勉強もしてないし、受ける気ないし、アハハ」
「はー⁉先生になるんじゃないの⁉何のために来たのよ、じゃあ!よく知らないけど、美大って就職難しいんでしょ?ニートかフリーターにでもなるつもり?言っときますけど、うちにはそんなお金ないからね!」
「わかってるよ……もうちょっと考えさせて」
「もうちょっとって言ってる間に卒業しちゃうわよ!」
母親にがみがみと説教をされながら、憂鬱な夕食は終わった。
この家に自室はもちろんないので、仏間に布団を敷いて寝転がる。食べ過ぎて横にならないと苦しいぐらいだった。この調子でここにいたら実習が終わる頃には倍の体重になっていそうで怖い。重い体を動かしてごろりと寝返りを打つ。
古い畳の匂いがした。怖い木目のある天井も、カーテンじゃなくて障子しかない窓も、色あせた襖も、祖父の遺影も、何もかもが私の家ではないと言われているようだった。
水色の壁紙、好きな画家の画集が詰まった本棚、キャラクターシールがペタペタ張られた学習机、お気に入りのぬいぐるみ。子供のころから過ごしたあの部屋はもうないのだと改めて実感する。
東京へ引っ越すとき、荷物になるものはすべて捨てた。あの時、私は私という存在を刻んできた思い出も捨ててしまったのかもしれない。仕方ないことだったと分かってはいるけれど、少しだけ切なくて、寂しい。
隣の部屋から祖母のいびきが聞こえてくる。元気ないびきに笑みがこぼれた。何故だか祖母のいびきを聞いていると安心した。
私はいつの間にか眠っていた。
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