第4話

 それから小一時間ほど、高岡先生と今後について話した。途中、終礼の鐘が鳴って、下校時間になり、一時だけ賑やかになった校内も私が帰る頃には静けさを取り戻していた。

 実習中に行う授業のテーマを決めるという宿題をもらって、私は美術準備室を後にした。先生からは参考に、と過去の指導案や教材の見本などがぎっしりつまった紙袋を渡された。私は重い紙袋によろけながら廊下をのろのろ歩く。

 夕陽が差し込む薄暗い廊下は懐かしかった。しん、と静まり返って、校舎には自分しかいないような、そんな錯覚をしそうになる。

 放課後の学校と言えば、吹奏楽部の演奏や野球部の練習する声で放課後は音が溢れているイメージだったの変だな。そう思ってふと思い返すと、今日は水曜日だった。この学校では基本的に水曜日は部活動が休みと決まっているのだ。

 他の実習生はもう帰っただろうか。

 校門で助けてくれた彼に改めてお礼を言いたかったけれど、如何せん名前が分からない。

 私は歩きながら今日もらった書類の中から、実習生の名簿を引っ張り出した。配られたときは時間が無くてよく見ていなかったが、知っている名前があるかもしれない。

 上から順に見ながら、ある人の名前を見つけて私は足を止めた。その名前をもう一度確認して、紙を持つ手が震え始めた。

「うそ……なんで」

 見間違いだと思いたいのに、何度見てもその名前はそこにあった。言い様の無い感情が腹の底から湧いてくる。

 ――――なんでこんな人間が、教育実習に来るの。

「香ちゃん」

 見計らったように背後から声がして、ぞっとした。鳥肌が立つのを感じて、身体が硬直する。この声を私は知っていた。もう二度と聞きたくない声だった。ヒールの音が近づいてくる。私は恐怖で顔を上げられなかった。

「香ちゃん、久しぶりだね」

 彼女は私の隣に来て、私の顔を覗き込むように言った。彼女は相変わらず、綺麗なメイクやヘアアレンジで女性らしさを際立たせ、万人受けするように愛らしく整った顔面で残酷に笑う。

「……佐々木さん」

 彼女の名前を口にするだけで、吐きそうだった。そんな私の様子など見えていないかのように彼女は久しぶりだね、と普通に話し始める。

「名字違ったからすぐ分かんなかったよー。そういえば高三の終わりに名字変わったんだっけ?卒業式の日に急に名前変わってたから普通にびっくりしたの思い出したわ!卒業式の後、クラスのみんなで打ち上げした時も話題になってたよ?香ちゃんは呼んであげなかったけど!みんなでご飯食べてて、いや、澤村香って誰だよ⁉って。あれ、ほんと今思い出してもウケるよー。クラスの男子とかも超笑っててさー、卒業前に親離婚したのかな?かわいそすぎるー!って。てか、聞いてる?返事くらいしてよ、あたし一人で喋ってて何か痛いじゃん」

 矢継ぎ早に話し続けていた彼女だが、勢いに圧倒されて無反応だった私に気づいたらしい。やっと彼女の言葉の暴力は止んだ。

「あれ、私のこと忘れちゃった?」

 彼女は私の返答を待たずに楽しそうに言葉を続ける。

「私だよ、佐々木美希ささきみきだよ。一緒のクラスだったのに、まさか私のこと忘れてないよね?仲良かったよねえ、私たち」

 喉の奥が苦しい。私を嘲笑しながら話すこの女の話し方が私は大嫌いだった。

 仲が良かった?何を馬鹿なことを。

 いつの間にか握りしめていた拳は、怒りで震えていた。怒りが身体の硬直をやっと解いてくれた。

「……よく私に話しかけられるね」

「え、だって友達でしょ?」

「私とあなたが友達だったことなんて一度もない」

 私が言い返すと佐々木美希の嘘くさい笑顔が崩れた。

「えー、何それ。昔は何してもだんまりだったのに。歯向かうようになってる!だるいわ!どうしちゃったの?」

「そっちこそ、何なの。もういい大人なんだから、絡んでこないで。高校生の時と違って、もう子供じゃない。あなたなんか怖くないよ」

 嘘だった。普通に怖かった。この女にいじめられた記憶が恐怖となって、未だに身体に残っている。それを悟られまいと私は無表情を顔に張り付け、必死に平静を装った。

「まだ高校生の時のこと怒ってる感じ?冗談でしょ。ほら、なんて言うの……そう!若気の至り!みたいな?まあまあ、昔のことは水に流して仲良くやろうよ!」

「いい加減にしてよ!」

 静かな廊下に私の怒声が響き渡った。佐々木美希はさして驚いた顔もせず、冷めた目で私を見ていた。まるで騒ぎ立てる私が異常者かのように。

「そうやって、慣れ慣れしく話しかけてくる神経が理解できない。意味が解らない。あなたが私にやったことを忘れたの?ただ同じクラスになって、接点なんかほとんどなかった私に執拗に嫌がらせしてきたくせに、今更何事も無かったみたいに話しかけてこないでよ!」

 怒りと恐怖が混在して私の手はずっと震えていた。きっと、大学で過ごした日々がなかったら、四年の月日が流れていなかったら、この恐ろしい相手に私は今も屈していただろう。

「私は覚えてる!あなたやあなたの取り巻きにされたこと全部。誹謗中傷も、滅茶苦茶にされた教科書やノートも、殴られた痛みも……あなたに壊された私の絵も、すべて!私は絶対に水に流すことなんかしない。私の絵を汚したことを許さない」

 真剣に怒る私の顔を見てもまだ、佐々木美希はふざけたようなにやけ顔だった。

「だーかーらー、冗談だったって言ってるじゃん。教科書破いたりとか、ちょっと激しめなコミュニケーション?とかは、まあやったけどさ。高校生のノリじゃん?もう四年も前なんだし、ガミガミ言わないでってば。同じ教育実習生なんだから仲良くしようよ、香ちゃん」

「仲良くできるはずないでしょう……?どうしてあなたみたいな人間が教育実習になんかに来るの?あなたみたいな、いじめる側の人間がどうして……!」

「だって私、教育学部だもん。しかも、教免取らないと卒業できない学科なんだよねー。だから、教育実習で色々面倒なことあると困るんだよ。つまりね、あんたに昔のことガタガタ言われると困るの!だから、昔のことは忘れて仲よくしようって歩み寄ってあげたのに、なんでここまで言わないと分からないかなあ?香ちゃんがいじめられるのって、そういう空気読めなさすぎな所だと思うよー?見た目も性格も暗いし、ずっと絵描いてて不気味だし!いじめられるべくしていじめられたんだから、私に責任転嫁しないでよねぇ」

 なんでこんなことを言われないといけないんだろう。

 言葉が通じているのに、通じていないような奇妙な感覚を覚えた。目の前の人間がエイリアンのようだと思った。同じ国の、同じ地域の、同じ学校に通っている類似点の多い人物なのに、どうしてここまで話が通じないのだろう。絶望感しかなかった。俯いていると廊下に伸びる影は色を濃くして、どんどん長くなった。呼吸がしにくい。胸が苦しい。お腹が痛い。

 ああ、この感覚。本当に身も心も高校生に戻ってしまいそう。

 意志に逆らって、涙が滲んでくる。もうこの場から逃げてしまいたい。

「あー、本当に話通じない人と喋るのだるいわ。とにかく、昔のこととか、余計なこと話さないでよね。もし、あたしの邪魔したら高校の時より酷い目に遭わせてあげるから、ね!」

 佐々木は突然手を伸ばして私の髪を掴むと、俯く私の顔を無理矢理引き上げた。髪が強く引っ張られてぶちぶちと千切れる音がする。

「わかったら、ちゃんとわかりましたって言おうか、香ちゃん?」

 彼女は声音を低くして、虫を殺す子供みたいに残虐に嗤っていた。彼女は私をいじめる時いつも楽しそうに嗤う。それが私はずっと怖かった。人を傷つけることを楽しんでいることが理解できなくて、怖かった。

 でも私はもう高校生じゃないから、大人だから。

 怖くても逃げない。

「離して」

 私は髪を掴む彼女の手を振り払った。

「……佐々木さんって、教師になりたいの?」

「は?」

 私が震える声で絞り出した言葉に、彼女は不快そうな顔をした。

「教育学部なんでしょう?佐々木さんって教師になりたかったの?とてもそんな風には見えないけど」

「別に。色々受験して受かった中で一番偏差値良かったのがここだっただけだし。普通に就活して、もっと良い会社の内定もらえたら教師になんかならないよ。教免も教採もただの保険だし」

「そう。それ聞いて安心した。あなたみたいな人が教師になるなんて生徒が可哀想だから」

「なんかさあ、香ちゃんが反抗的になってて本当残念だわー。何なの、本当に。一回、高校の頃のこと思い出し方がいいんじゃない?」

 彼女はそう言うと、私を突然突き飛ばした。私は身構えることすらできず、床に倒れた。手に持っていた鞄や紙袋が吹っ飛んで、床に荷物が散らばる。彼女は、倒れた私を躊躇なく踏み潰すように数回蹴った。

「あー、ほんと苛々するわ。やっぱりあたし、あんたのこと大嫌いだわ」

「こっちの台詞だよ!」

 私は言い返しながら、腕を振り回して彼女の足を払い除けた。そして、身体を起こして彼女きっと睨み上げた。

「殴るでも蹴るでもすればいい。私は高校の時と違う。貴女に屈したりしないし、逃げない」

「……何それ、気持ち悪い。白けるわー……私が悪者みたいじゃん、やめてよね」

 佐々木は冷めた目で私を見下ろして言った。そして、しゃがみ込むと私の襟首をがっとつかんだ。

「いじめられるあんたが悪いんだから、正義の味方みたいな顔やめなよ。目を覚ましたら?」

 彼女はすっと手を振り上げる。あ、叩かれる。そう思った瞬間、ぐっと体が強張った。その時だった。大きな手が私たちの間に割って入ってきて、私の視界は広い背中で遮られた。私は驚いて目を丸くし、その人を見上げた。

 割り込んできたのは、見覚えある男だった。佐々木は慌てて手を引っ込める。彼は走ってきたのか息を切らしていた。

「大丈夫⁉」

 その人は焦った様子で私を振り返ると、心配そうに私を見つめる。そんな彼の顔を見て、はっと気づいた。校門で助けてくれた人だ。私は小さく頷いた。

「え、何、そんな必死で?なんか誤解してるー?転んでたから助けてあげようとしただけだよ?」

 佐々木はいじめっ子の顔を引っ込めて取り繕ったように笑う。普通なら無理があるが、彼女は手慣れていた。それまでの不穏な雰囲気など一掃して、何事もなかったかのように普段通り振る舞う。あまりの自然さに教師を含めいつも周りは誤魔化されていた。

「でも、今……」

「ね、香ちゃん。大丈夫?足くじいてない?」

 佐々木は心底心配しているような顔をして、私に手を差し伸べた。私は彼女を無言で睨み、その手を取らずに自分で立ち上がった。すると、彼は私をかばうように私の前に立った。

「あらら……えーと、何くんだっけ?まあ、いいや。何か誤解してるみたいだけど、私と香ちゃんって友達だから心配しないでね」

「ちょっと待ってよ。廊下から大きな声が聞こえてここまで走ってきたら、争ってるように見えたんだけど。何かトラブルがあったんじゃないの?」

「えー?大きな声?美希たちは知らないなあ。外の音じゃない?」

「そんなはずは……」

 私は追求しようとする彼のスーツの裾をつんと引っ張って「大丈夫です」と小さな声で言った。親切な彼は私をちら、と顧みると、少し悩んだ顔をしてから「そう、勘違いならいいんだ……」と呟いた。

「分かってくれてよかった!てかもう、こんな時間!一緒に帰ろっか、香ちゃん。話の続きしたいし」

 佐々木は男の後ろにいた私に向かって、まるで本当の友達かのように言った。私は「帰らない」と首を横に振った。笑顔を張り付けたまま、彼女の眉だけがぴくりと動く。私は彼女をまっすぐに見据えてきっぱりと言い放った。

「佐々木さん、今更昔のことを掘り返すつもりはないよ。その代わり、私にもう関わらないで」

 佐々木はほんの短い時間、見定めるようにじっと私の顔を見た。

「そう、まあいいや。またね!」

 佐々木は明るく、からっとした笑顔で言った。そして、彼女は背を向けてさっさとその場から去っていく。遠ざかっていく彼女の背中を見ながら、私ははっとして彼女を大声で呼び止めた。

「佐々木さん、待って!ひとつ言い忘れた」

 いくらか離れたところにいた彼女は振り返って「何?」と答える。私は彼女を睨むように見つめ、怒りを込めて言葉を放った。

「あなたは絶対、教師にならないでね」

 夕闇で翳った廊下では、離れた場所にいる彼女の表情はよく見えない。一体どんな顔をして聞いていたのだろう。

 彼女は何も答えずに去った。


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