第3話

***


「懐かしい顔ぶれが並んでいますね。皆さんが卒業後もしっかりと学んで、こうして母校へと戻って来てくれたことは大変喜ばしいことです。先生方も忙しい業務の合間を縫って皆さんを指導して下さいます。先生方に感謝しながら教育実習生として、しっかり学び……」



 教頭先生が大講義室の教壇に立って、ぎこちないスーツ姿の学生達相手に教育実習とは何たるかをうやうやしく話している。


在学中は学年主任だった先生が出世して教頭になっていた。厳しくて有名な先生だったな、と古い記憶を手繰り寄せる。


 木製の机と椅子は懐かしさより座り心地の悪さのほうが勝っていた。よくこんな椅子で一日中勉強できていたものだ。


 あれから保健室でしばらく休ませてもらったおかげで、なんとか体調が回復して説明会に参加することができた。教育実習生は私の他に二十名ほどいた。


ギリギリまで保健室で休んでいたので、他の実習生と会話などする時間もなく、知り合いがいるかもわからない。どのみち来週から長い間、彼らとは顔を合わせることになる。知り合いがいれば自ずと分かるだろう。



「実習を終えて、将来みなさんがまた学校現場へと戻ってきてくれることを願っています。来週からの教育実習、今お話した注意事項を守って無事に終えられるように頑張ってください。では、科目ごとの詳しい予定は、各担当の先生から説明があるので、五教科の実習生は職員室へ、実技科目の実習生は各科目の準備室に先生方の席がありますから、そちらへ行ってください。この後は、科目ごとに解散とします。忘れ物のないように!」



 実習生たちはぞろぞろと教室を出ると方々に散っていった。ほとんどが五教科、国数英理社の難しいお勉強科目の先生を目指す人々のようで、大多数は職員室へと流れていった。


この学校では、美術などの実技科目の教員は職員室ではなく、美術室など特別教室の隣に付属する準備室にデスクがあるのだ。


 今いる職員室がある事務棟、そして普通教室と特別教室でも棟が別れているため、実技科目の実習生たちは渡り廊下を渡って特別教室棟へと流れていった。美術の実習生は私一人のようだ。美術室は二階にある。隣は書道教室で、一階は家庭室や視聴覚室、小会議室、上は音楽室や情報教室、倉庫などがある。


 美術室の隣に付属する美術準備室の前には片づけ途中の作品が廊下の壁に立てかけて無造作に並んでいる。この光景も高校の時のままだ。そのうち美術部員が怒られてせっせと片づける羽目になるのを私は知っている。


 二回扉を叩くと「どうぞ、どうぞ」と懐かしい声がする。



「失礼します。お久しぶりです、高岡先生」



 扉を開けると画材特有のつんとした臭いと古びた教室の臭い合わさった独特の香りが鼻を掠める。年季の入ったコーヒーカップを片手に体格のいい男性が振り返った。


ロマンスグレーの髪はしっかりとセットされて、絵具で汚れた白いエプロンの下は洒落た色のシャツと皺ひとつないパンツを合わせている。年齢を感じさせない若々しさはこの清潔感とお洒落からきているのだろう。



「久しぶりだね」



 私の顔を見ると先生の顔に笑い皺が刻まれる。



「えーと、はま……じゃない、今は何さんでしたっけ?」


「澤村です」


「ああ、そうそう、澤村さんだった。ごめんね」


「いえ、卒業直前に親が離婚したので仕方ないですよ。私もまだ澤村って慣れてないので」


「そう……大変でしたね。でも、元気そうで良かった。呼び間違えたらいけないから、昔のまま香さんでいいかな。まだ放課後じゃないですが」


「はい、もちろんです。そのルール、懐かしいですね」



 先生は美術部員は本人が嫌がらない限り、基本的に下の名前で呼んでいた。しかし、それは放課後、部活動の時間になってから。他の生徒と区別していると思われたくないと、授業中は名字で呼ぶという先生の独自ルールがあった。


先生は生真面目で放課後のチャイムが鳴るまではしっかりと名字と名前を呼び分けていた。



「しかし、君が教育実習でここへ戻って来るなんて意外というか、感慨深いというか……」



 先生にしみじみと言われ、私は苦笑混じりに先生の言葉を引き継いだ。



「学校行けなくて、先生に迷惑かけながらやっと卒業した生徒ですもんね。私もまさかここに戻って来るなんて思ってなかったです」


「まあ、君の進学した美大は教免とれるし、保険として持っておいて損はないよ」


「油画ゼミの先生にもそう勧められて、流されるまま今ここにいます。教員になるつもりはないのに、すいません」



 大学では実習に来たのは嘘でも教員になりたいからと言えと指導されていたが、恩師の前で嘘をついたところで見透かされているから意味はない。実際、忙しい職務の傍ら、教育実習生の指導は教員側もかなり負担なので、教員になるつもりのない学生の相手はしたくないのが実情らしい。大学の教育関連の授業でそんな話を耳にした。だから、大学側も嘘でも教員になりたいと言えと指導するらしい。


 私が正直に白状すると、高岡先生は「ハッハッハッ」と大口を開けて笑った。



「君は相変わらず不器用で正直ですね。今どき、教育実習に来る子は大方そうですよ。教員不人気、万年教員不足のご時世ですからね。教育学部の子ですら教員にならないんですから。不人気職業のトップとも言われているそうですし。教員になってもやめていく人も多い。私が教員になった頃より随分と息苦しくなりましたからねぇ。ああ、未来ある若者にこんな話をしてすまないね」


「いえ、そんな……」


「芸術科目の先生方は本業をしつつ臨時や非常勤で働いて安定収入得るという人もいますからね、君も教員免許は取れるなら取る方が良い。君が進路を決める時も私が教免を取れる大学を推していたことは覚えているかな?」


「ええ、あの時はまだ子供で先生が薦めてくれる意味もよく分かっていませんでしたが、今は分かります。恥ずかしい話ですが、まだ卒業後の進路を決め切れていないのです。絵を描き続けるか、就職するか……もう一年もないのに」


「おや、そうなんですか?君の昨年の大仕事も拝見しましたが、あれも素晴らしい作品だと思いましたよ」


「あ……去年のあの絵、先生も見てくれたんですか。ありがとうございます」


「君の絵は一目見ればすぐわかりますからね。あの絵を見て、君は当然絵を描き続けるのかと思っていましたがね」


「そうできたらいいんですけど、ちょっと最近うまく描けてなくて……そもそも卒制を書き終えられるかも自信がないようなやばい状態なんです。正直、実習に来ていて大丈夫かと教授から心配されるレベルでして……」


「卒制で悩み過ぎてスランプかい?美大生あるあるだ。卒制が終わらなくて留年する人も美大じゃ珍しくないですからね!ハッハッハッ」



 私には笑い事ではなかったが、先生と一緒になって引きつった愛想笑いを返した。



「教育実習中は卒制のことを一旦忘れて、教育実習に集中してくださいね」


「もちろんです!」


「香さん、教育実習を楽しんでくださいね」



 高岡先生は急に真面目な顔になって、私に向き直った。


「君がこの先、教師になる、ならないにかかわらず、教育実習はきっと良い機会になると思いますよ。君の高校時代は心残りも多いでしょう。あまり力になってあげられなかった私がこんなことを言うのは烏滸がましいですが、せっかくこうして戻ってきたんです。この実習で、高校時代の忘れ物を一つでも多く持って帰ってくれることを期待していますよ」


「先生……」



 私は喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じて、言葉が出てこなかった。卒業すら諦めた時もあったけれど、私のことを諦めずにいてくれたのは目の前の先生だけだった。閉鎖的な学校の中で威圧的で怖い教員、見て見ぬふりする教員たち。教員は大嫌いだった。


でも、高岡先生や保健室の先生、助けてくれた“先生”たちのことは好きだった。



「とはいえ、決して無理はせずにね」



 先生は真面目な顔を引っ込めていつもの先生の穏やかな顔に戻った。



「さて、来週から香さんは“澤村先生”になるんだ。しっかりと計画を練りましょう」



 そう言うと、先生は準備室の隅に重ねてあった椅子を一つ、ひょいと持ち上げて書類や画材の積みあがった机の横に置いた。そして、机上に連なる書類の山々をえいやと端に退けて、少しだけスペースを作った。



「楽しい授業を作りましょう。我々、芸術教科は芸術が心を豊かにしてくれることを生徒に伝えなければ。芸術は五教科のように生活を助けることは少ないけれど、 不意に心を救ってくれる」



 私は小さく、けれど力強く頷いた。私の脳内には、放課後に聞いたあのピアノの音色が蘇っていた。そう、芸術に救われる時が人にはある。


時には命すら救ってくれるだろう。そうでなければ、芸術なんて不確かなものが長い歴史の中で受け継がれるわけがないのだから。



「まずは指導案作りからですね」


「よろしくお願いします、先生」



 深々と一礼した。


 床の木目は絵具で汚れていた。学校が辛かった時、泣きながら何度も見つめた床だと懐かしんだ。

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