第2話

***


 私は着慣れないリクルートスーツに身を包み、母校の前で立ち尽くしていた。


 卒業以来、四年ぶりに見上げた高校の校舎は何一つ変わらず、白くて重苦しいコンクリートの塊が聳え立っている。


 校門まで来たというのに、どうしたものか。足が全く動こうとしないのだ。身体が校舎に近づくことを拒否している。


 もっと言うなら、ここに来るまでの道中、バス停が高校の最寄り五つ前に来た時から足は震えはじめていた。さらに言うなら、北陸新幹線に乗って、長野を過ぎて北陸に入って来た時のどんよりした曇り空を見た時から気持ちは既に重かった。



「……帰りたい」



 春とは言え、風はまだ少し冷たい。北陸特有の湿った空気が気持ちをさらに重くさせた。


 まだ時間はある。こうなることを予想して一時間も早いバスで来たのだ。ここまで来て逃げたって余計に辛いだけだ。


 頭では分かっているのに、身体はどんどん重く、苦しくなる。


 そう言えば、高校に行けなくなったのも今くらいの時期だった。今みたいにある朝突然、校門の前で動けなくなって、予鈴が鳴り、本鈴が鳴り、駆け足で校舎へ入っていく生徒たちの背中を見つめながら、私は結局そのまま家に帰った。次の日から学校に行けなくなった。


 あんなに行きたくなかったこの場所に、今更何で来てしまったんだろう。でも行かなきゃ。相反する思いが頭の中でぶつかっている。


 ぐるぐる考えているうちに呼吸は浅くなり、お腹がきりきりと痛くなって、私はしゃがみ込んだ。


 どうしよう、どうしよう。私はまだ高校生のままなのか。あの頃と変わらず、弱いままのか。四年経っても、私は何も変われなかったのか。



「あの、大丈夫ですか?」



 低い声が上から降ってきた。心配そうに、窺うような声。周囲には誰もいなかったはずなのに、私はそんなに長くしゃがみ込んでいたのだろうか。恥ずかしさと苦しさで顔を上げられないまま、私は消え入りそうな声で答えた。



「大丈夫です……しばらく休めば何とかなるので……」



 視界の端に真新しい革靴とスーツの裾が見えて、声をかけてくれた男の人が自分の隣にしゃがんだのだと分かった。



「違ったらすみませんが……もしかして教育実習生ですか?」



 私が驚きながらも微かに頷くと、彼はホッとしたような声で言った。



「良かった、俺も実習生だよ」



 顔をあげると、安心させるように彼は微笑んだ。その人は自分と同じくらいスーツが似合っていなかった。背は高いのに童顔で、髪は癖毛なのか子犬みたいにふわふわしている。


 きっと彼は同級生なのだろうけれど、知らない人だった。私たちの母校は生徒数が多く、友人の少ない私には同級生でも知らない人のほうが圧倒的に多かった。


 この学校にいい思い出はほとんどない。教育実習でなければ、母校になど近寄りたくもなかった。


 教育実習は来週からだが、今日は実習前の説明会が行われる日だった。彼も説明会に参加するためここにいるのだろう。



「実習の説明会までまだ時間あるし、保健室で少し休ませてもらったらどうかな?顔色、かなり酷いよ。ほら、掴まって」



 彼は私を支えながら、立たせる。それを断るだけの余力もない私は言われるがまま、私は名も知らぬ彼に連れられて校内に入った。


保健室を訪れると、養護教諭が衝立の後ろから顔を出す。保健室の先生は在校時のままだった。ふっくらして優しそうな年配の女性だ。



「あら?もしかしてあなた卒業生の香ちゃん⁉」



 保健室にお世話になりっぱなしだった私のことを先生は覚えてくれていたようで、私にすぐに気づいてくれた。そして、ここまで連れて来てくれた親切な彼は、先生に手短に事情を説明するとすぐに退室していった。



「実習担当の先生にも伝えておくから、安心して休んでね」



 彼の優しい声と共に扉が閉まった。



「きっと緊張していたのね。説明会までまだ一時間近くあるわ。少し休んでから生きなさい」



 先生は空いているベッドを貸してくれた。四年ぶりに保健室の真っ白なベッドに横たわる。しばらくしてチャイムが鳴ると、休み時間に入ったようで廊下は俄かに騒がしくなった。けれど十分もすると嘘みたいに静かになって、それがひどく懐かしく感じた。


 あの頃も、私は休み時間の喧騒が居心地悪く聞こえて、保健室のベッドで丸まっていた。時間よ、早く過ぎろと身を固くして怯えていた。


 こうしていると高校生の時に戻ったような気持ちになるけれど、着心地の悪いスーツが私に現実を教えてくれる。もう私は高校生ではない。大人になったのだ、と。


 あの苦しかった高校時代は、とっくの昔に終わっていたのだ。



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