第33話 エリウの紋章
「もうそろそろ……かな」
ロディーヌは銅の蒸留器を見る。
容器にはバラ水がたまっていた。
虹色の薔薇を使ったものだ。
通常は化粧水や食品用の香料として使われるバラ水だ。
ただ虹色の薔薇となると、書物に書いてあったように、特別な効果があるかもしれない。
今作っているのは、正確にはバラ油とバラ水が混ざったものだ。
バラ油だけ取り出そうと思うと、大量のバラが必要になる上、丸一日かかる。
容器のバラ水の香りをかいでみる。
得も言われぬ良い香りがした。
普通のバラとも違う気がする。
その時外に、何やら人の声と、慌ただしく行きかう気配を感じる。
そしてすぐにノックの音がして、メアリーが入ってきた。
「ロディーヌ様、公爵様が……公爵様が……」
青ざめた顔に、震える唇。
メアリーらしくもない動揺ぶりだった。
「どうしたの?メアリー」
不吉な予感を感じつつ、ロディーヌは問い返した。
「とにかく公爵様の私室へ、お急ぎ下さい!」
その言葉を聞くなり、ロディーヌは部屋を出て駆け出した。
邸宅の中に入り、階段を駆け上がる。
途中で不安げな表情で話し合っている使用人達とすれ違った。
二階の公爵の部屋の前には、多くの人が集まっている。
「あの、リューウェイン様は?一体何が」
ロディーヌの声に、その場の人間は互いに顔を見合わせる。
「リューウェイン様はお怪我をなさっており、現在医師と魔術師が治療中です」
執事長のエドモンドが、沈鬱な表情で答えた。
「そんな……怪我の具合は?」
「かなりお悪いとうかがっております」
エドモンドはそれだけ言うと、何かをこらえるように下を向く。
「一体なぜ、誰が……こんな」
ロディーヌの言葉は誰か特定の人間に向けたものではなかった。
だが周囲にいたとある騎士が、一歩前に出て礼をした。
「私からご説明させて頂きます、ロディーヌ様」
王国騎士団の一人である、彼の話は以下のようなものだった。
リューウェインはあらかじめ言い残していたらしい。
二時間たって戻ってこなければ、王宮に様子をたずねろと。
だが王国騎士団の幹部は気が短い。
ことに最近、彼らの長であるリューウェインが襲撃されたという事で、気が立っていた。
王宮の中で待つといって、警備の兵と押し問答になった。
元々、王国警備隊や王子の親衛隊と仲は悪かった。
入れろ、いや駄目です、というやりとりの最中。
「その時、それが現れたのです」
いきなり王宮の一角が崩れ、中から人が放り出された。
崩れた隙間から顔をのぞかせたのは――
「その姿はアングル王国の
それを見た貴族や王宮の召使達から悲鳴が上がる。
その怪物は人影に向かって炎を吐くと、姿を消した。
そして大怪我をおった公爵が発見される。
そういう事情であったらしい。
「そう……ですか」
いくら原因を知ろうと、過去は変えられない。
ロディーヌはどうしようもない無力感にとらわれていた。
あの時もっと強く止めるべきだったろうか。
あの時強引にでも、一緒についていくべきだったのだろうか……
頭の中に様々な思いがめぐる。
しばらくすると医師らしき人物が部屋から出てきた。
沈んだ声で言う。
「どうぞ皆さまお入りください」
一同はおそるおそる入室する。
包帯に包まれたリューウェインがベッドに横たわっている。
頬はこけ、肌は黒ずみ、たくましい体も一回り小さくなったかのようだった。
「……まさかもう……亡くなって……」
「いえロディーヌ様。まだかろうじて息はございます」
「何とかならないのですか?」
「傷も火傷も酷いものです。ですが何よりも……」
医師が暗い表情で肩を落とす。
「どういう事でしょう?」
「強力な呪力で体を貫かれ、薬も回復魔術も効果がないのです」
ロディーヌの問いに、魔術師らしき人物が答えた。
部屋の中にいる他の医師や魔術師達も、一様にうなだれていた。
「つまりもう手の施しようがないと?」
ロディーヌは訊ねた。
「申し訳ございません。全能なる神ルゴスの御心のままに……」
「神々の母たるダナ、この国を産みたもうたエリウのお力をもってすればあるいは」
医師と魔術師が交互に答える。
それは不可能と同義語であった。
「わかりました。下がってください」
ロディーヌが命じると医療団は退室していった。
公爵はもう助からない。
もはや彼らにできることは何もなかった。
使用人達の幾人かは、こらえきれぬように下を向き部屋を出ていく。
ロディーヌは
「生きとしいけるものをはぐくむ、神々の母たる女神ダナよ……」
何も起こらなかった。
ロディーヌは
そしてリューウェインの手を両手で握りしめると目を閉じる。
「エリン王国を産みたもうた、大賢者たるエリウよ……」
そのような祈りには、もはや死者の安息を祈る以外の力はない。
周囲のものたちはうなだれ、そっと涙をぬぐうものもいた。
ロディーヌは今までの事を思い返していた。
リューウェインは彼女の恩人だった。
運命に打ちひしがれていた自分を救ってくれた。
ロディーヌの望みを聞き、願いを叶え、そして本当の気持ちを分かってくれた。
冷たく凍りついた心をとかし、暖かな感情で満たしてくれた。
そうだ。
彼はたった一人、自分が愛する人だった。
妖精の女王は言っていた。
自分の力は眠っているだけだと。
その時が来れば、秘められた力は覚醒するだろうと。
ならば……
ロディーヌは一心不乱に祈り続けた。
どれくらいの時がたっただろうか?
それは最初はかすかな光だった。
だが次第に虹色の輝きがロディーヌの体を包む。
公爵の手を包み込む彼女の手から、光の流れが公爵の体へと流れこむ。
それと同時に公爵の体も白銀の光につつまれた。
傷も火傷の痕も消え去り、黒ずんだ肌もこけた頬も、みるみる生気を取り戻していく。
ロディーヌは額に熱い力を感じていた。
暖かな波動が彼女をつつむ。
無限に湧き出る力が、体を満たしていくように感じる。
「ロディーヌ様、それは……」
メアリーがロディーヌの額を指さす。
彼女の額には
「あれは……」
「ロディーヌ様が……まさかあの……」
周囲の人間たちも、口々に驚きと畏怖の声が上がる。
魔術師をあらわす星の紋章
聖女をあらわす月の紋章。
そして神々をあらわす太陽の紋章。
それらが組み合わさり、一つになった紋章。
エリン王国の人間なら見間違えるはずもない。
それはまぎれもなく、大賢者の証であるエリウの紋章であった。
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