天使と乞食
あおきひび
天使と乞食
天界のラッパが鳴り響き、雲の庭園には天使たちが集まってきました。笑い合いながら、さざめき合いながら。背に白い翼を生やした子供達が、思い思いの調子で、わいわいがやがやと過ごしています。
光の筋が空から降って、神さまが下りてきました。
「さあ、みんな。今日も仕事をしよう」
すきとおるような神さまの声に、少年少女はわぁっと歓声を上げました。ポシェットに星のかけらを詰め込んだり、月桂冠を被ったり、笛や鈴を腰に差したり。思い思いに準備を済ませると、天使たちはいっせいに下界へと飛び立っていきます。
ひとり、出遅れた天使がいました。白い翼の少年は、水鏡に身だしなみを確かめて、緊張の面持ちで数度うなずきました。金色の巻き毛はくしでしっかり整えました。ポシェットも冠もそろっています。
その日は彼の初めての仕事だったので、緊張するのも仕方ないことでした。この日のために、少年は一生懸命に天界学校で勉強してきたのですから。
「ほら、君もいっておいで」
神さまの白い手が優しく背中を押します。少年はためらいながらも、ついに意を決して前を向きました。雲海へと体全体で飛び込んで、背の翼を羽ばたかせて宙を舞います。
伸びやかに滑空していくと、次第に雲が晴れて地上がよく見えてきました。降り立つ場所を探しながら、少年は決意を固めていました。
恵まれない子供達を祝福して、しあわせにする。それが天使たちの役目です。
「ぼくが、やるんだ。だから、まっててね」
地上に光る星をしるべに、天使は真っ逆さまに降下していきました。そこに、彼が救うべき子が待っているはずです。
天使が地上に着くと、そこは雨降る路地裏でした。冷たい夜風が彼の頬を刺します。思わず顔をしかめつつも、路地の奥へと足を進めます。
羽が濡れて重たくなった背をひきずりながら、彼はついにその子を見つけました。
長い髪は荒れてぼさぼさ。手足は棒切れのように細く、粗末な服はあちこちが破れています。路地の行き止まりでうずくまって、その体は雨に濡れそぼっていました。
動かないその子を心配して、少年は急いでそばへと駆け寄りました。しゃがみ込んで手を差し伸べます。
「だいじょうぶ? ケガしてない?」
子供は気だるそうに顔を上げました。剣呑な目つきで睨みつけてきます。天使の少年はどぎまぎして、その子を見つめ返しました。
「ぼ、ぼく、君を救いにきたんだ。天使なの。神さまのお使いで」
神さま、という言葉に、その子はひどく顔をゆがめました。
「あっち行けよ。おれは神さまなんて信じちゃいないんだ」
「えっと、でも、きみは」
「いいから! あっち行けってば」
五月蝿そうに手を振る彼ですが、その動きは弱々しく、今にも倒れてしまいそうでした。
「いいや、ほっとけないよ。だいじょうぶ? 立てるかい」
天使はそっと彼に触れました。その体はひどく熱を持って、震えていました。はっとしたのも束の間、その子は水たまりにべしゃりと倒れ込んでしまいます。
「たいへん! どこか、休めるところは……」
天使は必死に辺りを見回します。目についた廃屋へと子どもを運び込みました。
雨が壊れかけの屋根を叩き、天使は不安に羽を震わせました。二人の少年は身を寄せ合って寒さをしのぎました。そして長い夜が更けていきました。
朝の日差しが割れた屋根から差し込んでいます。天使の子が目を覚ますと、隣にいたはずの少年がいません。
急いで表通りに出ていくと、橋のたもとに例の少年がいました。石造りの柱のそばで、地べたに座って、目の前の往来を眺めています。傍らには古びた空き缶が置いてありました。
「ここにいたんだ。何をしているの」
「何だよ、ついてきたのか」
少年は熱で少し息が上がっていましたが、助けを求める素振りすら見せません。彼は天使の子を一瞥すると、ぶっきらぼうに吐き捨てました。
「ここで乞食してんだよ。そうしないと、今夜の飯がない」
「なんで? きみのお父さんやお母さんは、どうしているの」
少年は訝し気な視線を天使へと向けます。
「それに、教会の人が助けてくれるはずだよ」
少年はため息をついて、そっぽを向いてしまいました。
昼間の街は往来も多く、しかしどの人も彼らに目もくれず通り過ぎて行きます。少年のお腹がぐぅと鳴りました。天使はとまどいながら右往左往していましたが、やがて空き缶に濁った川の水を汲んできて少年に渡しました。
「こんなの、汚くて飲めやしないよ」
「でも、元気なさそうだから」
「余計なお世話。邪魔だからあっち行ってろ」
天使はどうしていいかわかりませんでした。日暮れが近くなった頃、とぼとぼと去っていきました。
夜中になった頃、長い髪の少年は、昨晩のボロ家に戻ってきました。すると、先ほどの妙な少年が床に膝をついて、熱心にお祈りをしています。両手を胸の前に組んで、目は閉じたまま、彼の帰ってきたのにも気付かないほどでした。
「何をそんなに祈ったりするんだ」
痺れを切らして、少年は問いかけます。天使の子はやっと彼に気がついて、ぱっと顔を輝かせました。
「帰ってきたんだね、今、神さまにお願いごとをしてたんだよ」
天使はにっこりと笑いかけます。
「神さまはすごいんだ。何でも出来るんだよ」
少年はその純真さに少し苛ついて、こんな意地悪な質問をしました。
「そんなら、パンとぶどう酒を出してってお願いしろよ。そしたら明日から食い物に困らないだろ」
天使は悲しそうに目を細めました。
「それは、できないんだ。あまり善いことじゃないから」
「何だ、神さまって、たいしたことないな」
「そんなことはないよ、きみは知らないだけなんだ」
少年はこめかみに血が上るのを感じました。つかつかと天使に近づくと、腕を掴んで迫りました。
「おれが、何を知らないって?」
天使は内心怯えていましたが、それを見せぬよう毅然と胸を張りました。
「きっと、神さまが助けてくれるよ」
彼らはしばらく互いを見据えていました。冷たい夜風が廃屋の中を吹き抜けて、ひゅうひゅう音を立てていました。
すると天使の子が「あっ」と声を上げました。壊れた屋根の隙間から、星空が顔を覗かせています。そこに一瞬ですが、光る流星が見えたのです。
少年がつられて夜空を見上げると、続けて二つ三つとほうき星が瞬きました。
「きっと神さまからのお返事だよ。願いが叶うって」
「いいや、そんなはずない」
少年はそう返しながらも、何だか不思議な運命を感じていました。天使を名乗る子どもとの出会い、そしてこの幻想的な景色。
少年は心のどこかで期待していました。変わり映えのない、どん詰まりの日常が変わる瞬間を。それをもたらしてくれる何かを、待ち望んでいました。
二人の少年は目を輝かせて、流星を見上げていました。夜は静かに更けていきます。
少年が廃屋の隅で眠りにつく時、天使の子は当たり前のように隣に座りました。
「ぼくは、きみをしあわせにするために来たんだ。これからよろしくね」
少年は少し思案して、ふと呟きました。
「レイ」
「……いま、何て?」
「だから、レイ。おれの名前」
天使はその言葉の意味を、少し間をあけてやっと理解しました。背中の羽をぱたぱたさせて、嬉しそうにレイの手をとりました。
「レイ! すてきな名前だね。ぼくはニコルだよ。あぁ、うれしいなぁ」
これから、もっときみのことを教えてね。天使の子は曇りなき眼でそう言いました。少年はきまり悪そうに目をそらすと、ボロ布を引っかけて壁際に寝ころびました。ニコルもその隣で安心したように眠りにつきました。
レイは毎日のように表通りに立って、物乞いを続けました。雇ってくれるところなどなかったし、頼れる大人もいない。それでも、何もしないで野垂れ死ぬよりはマシだ、彼はそう思っていました。ニコルは空中にふわふわと浮きながら、レイの後をついて回ります。
たいていは一緒に橋のそばに立って往来を眺め、疲れた時には川辺や野原へ向かいました。ドブ川に流れていくガラクタたちを拾ったり、草地に寝そべって空に舞う鳥を数えたり。
ゆったりと時間は過ぎていきます。それでも、レイは日に日に元気がなくなっていきました。ニコルの目にも分かるほど身体は痩せて、爪も白くひび割れています。きっと何日も食べていないせいだ、ニコルは心配げにレイを見ました。彼はそれに気づくと意地を張って、ぐいとしかめっ面をして見せるのでした。
ある日、ふたりは教会に行きました。レイはニコルの説得に押し負けて、街の教会の門をくぐりました。教会は白い大理石で出来ていて、美しい緑と泉水に彩られています。讃美歌が遠くに聞こえていました。レイはおそるおそる足を進めます。
そこに修道服を着た大人たちが通りかかりました。彼らはレイを見ると血相を変えてわめき出します。
「誰だ! 神聖な庭に乞食を入れたのは」
「穢れが移る。早くつまみ出せ!」
騒ぎは大きくなって、大勢の修道士たちが集まってきます。ニコルは戸惑いながらも、彼らを宥めようと声を張り上げました。
「みなさん、落ち着いて。神の慈悲は誰にでも平等。そうでしょう?」
天使の声は届きません。修道士たちはレイを掴み出そうと迫ってきます。
それを止めるために、ニコルは必死で手を伸ばします。しかしその腕は彼らの身体をすり抜けました。彼ははっとして、悲痛な表情を浮かべます。
その時、どこからか石つぶてが飛んできて、レイの頭に当たりました。
「レイ!」
ニコルはレイの元へ駆け寄ります。こめかみから血が流れていました。彼はこうなることが分かっていたかのように、細く長くため息をつきます。そして、諦念のにじんだ微笑を見せました。
「帰ろう、ニコル」
レイは傷口を押さえながら、よろよろと庭の外へ逃げていきます。ニコルもその後を追いかけました。教会の人々の罵声を背中に浴びながら、一度も振り向かずに走り去ります。
ボロ小屋に帰りつくと、彼らは悄然と床に座り込みました。
ニコルは手を組んで祈りの形を作ろうとしました。しかし指先が震えて上手くいきません。
「ごめんなさい、レイ。ぼくが教会に行こうなんていわなけりゃ、こんなことには」
「いいんだ、ニコル。こうなるのは分かってた」
レイはぽつぽつと、自分の出自について語り始めました。
「おれ、物心ついたときから孤児院にいたんだ、教会の裏の。でも追い出されてさ。それからずっと一人だった」
こめかみの傷に手をやりながら、伏し目がちに呟きます。
「いいや、孤児院に居た時からそうだったのかも。仲間もいない、大人たちにも嫌われてた。何でだろうな。おれが「悪い子」だったからかな」
「そんなわけない。だって、きみは……」
ニコルは二の句を継げずに、黙ってレイの元へと近寄りました。傷に手を当て、一心に祈りを捧げます。神さま、どうか、彼が苦しみませんように。
レイはその間、静かに上を向いて、屋根ごしの夜空を見ていました。
ニコルは必死に祈りの言葉を唱え続けます。額には汗がにじんでいました。それをレイは手でぬぐってやりながら、優しく声をかけます。
「もう、大丈夫。痛みも大分引いたよ」
「本当に?」
レイは何も言わずに、にいっと口角を上げて見せました。ニコルはやっと安堵して、控え目な笑みを返しました。
その夜も、彼らは互いに身を寄せ合って眠りにつきました。厳しい冬が近づいています。
翌朝、レイが目を覚ますと、何やらカリカリと音が聞こえてきます。身を起こすと、ニコルが朝の光を浴びながら、手元で作業をしていました。見てみるとそれは小さな木彫りの像でした。
「天使の像を作ってるんだ。見て、上手でしょ」
廃材の木片と割れた瓶のかけらを使って、器用に形どっていきます。レイも思わずまじまじと見つめるほど、手際の良い仕上がりでした。
「これ売って食べ物を買おう」
ニコルの手は汚れて、少し血がにじんでいました。それが妙に切なくて、レイは力いっぱい頷きました。
「そうだな。ありがとう」
ニコルはにっこりと笑いました。その背中では、翼の端がちりちりと焦げ、少しずつ黒ずんでいました。
あくる日の夜、ニコルは日課の祈りを捧げようと、部屋の隅に膝をつきました。レイは前よりずいぶん顔色が良くなりました。今は少し離れたところで眠っています。
屋根から差し込む月明かりを見上げて、ニコルは祈りのことばを静かに唱えます。しかし紡ぐ言の葉はとぎれとぎれになって、やがて途絶えてしまいました。
ひっそりとした部屋の中で、ニコルは思い詰めたような様子でいます。やがて組んだ両手に力を込めると、こんなことを呟きました。
「でもね、神さま。どうしてレイを助けてくれないの」
彼は俯いて唇を噛みます。
「ぼく何度も祈ったけれど、レイはお腹が空いたままだった。傷も治らないままだった。ぼくらは人をしあわせにするのが仕事なんでしょ。ならどうして、神さまはぼくの祈りに答えてくれないの」
背中の翼はじりじりと焼けて、破れた羽根が床に散っていきます。それでもニコルはまっすぐ前を見据えました。
「ねえ神さま、もういいよ。神さまが助けてくれないなら、ぼく一人でやってみせる」
その瞬間、背中に鋭い痛みが走って、天使の羽はばらばらに燃え落ちていきます。ニコルはかえって清々しい表情で、床に膝をついたまま佇んでいました。月光はしんしんと降り注ぎ、天使だった彼の横顔を照らしました。
「レイ! ぼく、人間になったよ」
ニコルは大きく腕を広げて、レイに向かってそう宣言しました。それはあまりに突然のことで、レイはあっけにとられて彼の友人を凝視しました。
ニコルの背からは翼がなくなっていました。両足が地面を踏みしめて、足元からは影が長く伸びています。
「これでずうっと、一緒に居られるね」
屈託のない笑顔でそんなことを言われて、レイは前髪をいじりながら照れていました。
「バカじゃねぇの。天使がわざわざ人間になるなんて」
彼がそう吐き捨てると、ニコルはいっそうきらきらと笑うのでした。
そうしてふたりの少年は手に手を取って、この残酷な世界を生きてゆくのでした。冬の柔らかな陽の光が、彼らの道行きを祝福していました。
天使と乞食 あおきひび @nobelu_hibikito
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