吾輩は君だけのすいすいである。〜あひるのおもちゃの俺が君の騎士になろうと決めた日〜

緒川ゆい

第1話

 吾輩はすいすいである。

 名前はまだない。

……いや待った。名前がすいすいだった。

 いいだろ。俺だってたまには吾輩とか言ってみたいんだよ。

 作家先生の家で飼われていたどこぞの猫はそう名乗ってたよな。

「吾輩は猫である」って。ああいうの俺も書いてもらいたいなあ。


 で、お前はなんなんだって?

 言ってなかったっけ。

 俺は大空を翔る鳥。鋭い爪とくちばしを持ち、猛獣とも渡り合える最強の鳥類。そう! 大鷲さ!

……ごめん。見栄を張った。本当はあれです。その、お風呂に浮かべるおもちゃの黄色い鳥です。飛べません。猛獣とも渡り合えません。すみません。


 ふうう、気を取り直して語ろう。

 いろいろ言ったが、実際の俺はある家のお風呂に生息している。

 この家の主は……。


 がらり、とお風呂の扉が開く。


「ふううう。疲れた。頭がもうぱんぱん」


 ぶつぶつ言いながら湯船に体を沈める彼女。これが俺の彼女、中川佐和子だ。

 俺は彼女が大好きだ。可愛くて優しくて。最高の彼女だ。もっとも俺が佐和子を彼女認定していることを佐和子は知らないが。

 いいんだよ。勝手に想ってるだけなんだから。俺は佐和子を見守ることができればそれで満足さ!

 ついまた興奮してしまった。話を続けよう。

 佐和子は大学に通っている。何学部かって? うーん。多分、文系の学部だと思う。佐和子笑っちゃうくらい計算できねえもん。だから理系はないだろ。知らんけど。

 俺と佐和子が出会ったのは今から三年くらい前。

 そのころ、俺はとある駄菓子屋にいた。


🐣🐣🐣


「お前は本当に売れないねえ」


 駄菓子屋の片隅、俺の埃を払いながらそう言ったのは、この駄菓子屋のばあちゃんだ。

 ばあちゃんって名前じゃないことは知ってるけど、ばあちゃんがなんて名前なのか俺は知らない。そもそもだけど俺にも名前はない。

 ばあちゃんはばあちゃんで、ばあちゃんも俺のことを「お前」としか呼ばないんだから、名前なんてなくても別に構わない。

 俺とばあちゃん。二人いればそれで充分だからな。

 ちなみにばあちゃんと俺がいるこの駄菓子屋は経営が成り立っているのが不思議なくらい客が来ない。

 昔はもう少し子どもも来てたんだけどな。

 なんてことを考えながら俺は、埃がうっすら積もって曇ってしまった窓ガラスから外を眺める。

 今日も良い天気だ。ランドセルを背負った子どもたちがきゃっきゃはしゃぎながら通りを歩いていくのが見える。

 俺がここに来たのは今から何年前だったろう。覚えてはいない。

 いないけど、そのころは俺以外にも何羽か俺と同じような奴がこの店にもいた。

 駄菓子屋っていいながらちょっとしたおもちゃも売ってるこの店に、俺たちは大量に入荷され、店の入り口すぐの台の上に整列させられていたんだ。

 黄色い羽にオレンジ色のくちばしの俺たちが大量にいるのって結構壮観だったみたいで、入荷当初、店に来る子どもたちは喜び勇んでこのお風呂のあひるを買っていった。

 まあ、売れてばあちゃんの懐が潤うのは嬉しかった。

 とはいえ、正直さ、寂しい気持ちもあったんだ。

 だって同じように工場で箱詰めされて。ぎゅうぎゅうにくっついて。トラックに揺られてきて。ここに並べられて。

 それってさ、もう兄弟みたいなものじゃん。

 だから本当ならみんなでずっと一緒にいたかった。

 ずっとどうでもいい話をしていたかった。


 風呂のあひるのくせに風呂を知らない俺たちはさ、風呂についていつも語ってたんだ。


「風呂ってどんななんだろうな」

「富士山が描いてあるって聞いた」

「ふじさんってなに」

「ふじさんは……あれだよ。おじさんの名前」

「藤、さん?」

「それそれ。ミスター藤」


 ……絶対違うだろ、と今の俺ならわかる。


 俺もここに来たばかりのころは無知で知らないことも多かった。けれどばあちゃんとの生活が長くなるうちにいろんなことを覚えていった。

 富士山が藤っておじさんの名前じゃなくて、この日本って国で一番高い山の名前だってこと。

 ちっこい箱に住んでばあちゃんを無視して勝手に話続けたり、なんかさめざめ泣いたり、笑ったり、歌ったりしている人間は、あの中に住んでいるんじゃなくて、テレビっていうあの箱に映し出された映像でしかないってこと。

 日本には暦ってのがあって、俺が生まれたのは昭和って時代だけど、今は昭和ではなくて平成である、ってこと。

 ばあちゃんは俺がここに来たときから今に至るまでまったく変わっていないように見えるけれど、人間ってのは確実に歳を取り、体が動かなくなっていくらしいってこと。

 俺がここに来たときばあちゃんがいくつだったのかは知らない。けれど俺の兄弟が一羽減り、二羽減り、ついには俺だけになってしまった現在、ばあちゃんは杖がなければ立つことも、歩くこともできなくなっていた。

 立ち上がる仕草にも「いてていてて」という声がセットで聞こえてくるようになった。前は店の中もまめに掃除していたのに、最近はめっきりしなくなり、清掃道具たちも店の片隅でしょんぼりうなだれているようになった。

 ただ、ばあちゃんにとって俺は特別だったのか、俺の頭に埃が積もるとそれだけはひょいひょい、と服の袖で拭ってくれた。


「本当にあんたは売れないし。まったくしょうもないねえ」


 そんなふうに俺を詰るくせに、俺の頭を撫でるばあちゃんの手はほんわかと温かかった。

 だから俺は思ってたんだ。


 売れなくていいじゃん。

 ずっと一緒にいればいいじゃん。

 俺とばあちゃん、二人で充分楽しいじゃん、って。


 そんなときだった。

 ばあちゃんの孫っていう彼女が店にやってきたのは。


「また朝子に内緒で来たのかい」


 ばあちゃんが嗄れ声で言うと、彼女はちょっと笑って軽く首を傾げてみせた。


「内緒っていうか聞かれてないから言ってないだけ。別に良くない? 学校の帰りにお菓子買いに来るくらい」

「朝子は嫌がってるだろうが。あの子は私を許してないだろうから」

「そりゃあまあ。でも仕方ないよね。おばあちゃんがお母さんを捨てたんだから」


 さらっとすごいことを言う。

 ぎょっとしている俺をよそに、ばあちゃんは深いため息をついた。


「佐和子、あんたも朝子に似てなんでもずけずけ言う子だねえ」

「それはおばあちゃんもだし。いいじゃない。なんでも言い合えるのって家族っぽいじゃない」


 家族っぽいってなんだ?

 孫なんだろ? 孫なら家族じゃん。


 だがそう疑問を持ったのは俺だけのようで、ばあちゃんは、そうかもしれないね、なんて言うだけで佐和子の「家族っぽい」発言にはそれっきり触れなかった。

 俺には人間のことはよくわからない。ばあちゃんが佐和子の母親を捨てたらしいことはわかったけれど、そのばあちゃんのことを佐和子の母親がどう思っているのかも、佐和子がばあちゃんに会いにくる理由も。

 ただ、ばあちゃんは佐和子が来ると憎まれ口を叩きながらも、いそいそとお菓子を用意していた。

 鈴カステラとかぱちぱちガムとか。

 佐和子は多分、高校生ってやつだから、その佐和子からしたらばあちゃんからもらうお菓子なんて魅力的ではなかったのではないか、と俺は思っている。

 でも佐和子は出されたお菓子をいつも大事そうに食べていた。ばあちゃんの淹れるお茶に関しては「渋っ」と顔をしかめていたけれど、それ以外はうまそうになんでも頬張っていた。

 佐和子がばあちゃんのことをどう思っているのか、佐和子は語らなかったし、ばあちゃんも訊いたりはしなかったけれど、二人は通じあってるってやつなんだろうなって俺は思っていた。

 なにも言わなくても思いが通じる家族っぽいやつ。


 いいな、と思った。

 俺にはいない。

 しいて言うならばあちゃんがそれに近いのかもしれないが、俺とばあちゃんは家族じゃない。家族っぽいものであるかも怪しい。

 だって俺にはばあちゃんに言葉を伝えることができない。

 ばあちゃんも俺の声を聴くことはできない。


 寂しい。


 佐和子がやってきて俺は、寂しいを色濃く感じるようになってしまった。

 だから少し……佐和子が疎ましいと感じていた。

 来なきゃいいのに、とも思っていた。


 そんな俺の気持ちなんて当然知らない佐和子は、ばあちゃんのところにせっせとやって来る。


「おばあちゃん、この子ってずっとここにいるよね」


 学校帰り、ばあちゃんの駄菓子屋にやってきた佐和子はそう言って、俺を覗き込んだ。


「駄菓子屋ってこういうのも売るんだ」

「そいつはただの売れ残りだよ」


 ばあちゃん……その言い方はあんまりだよ。


 無情なばあちゃんの言葉に俺は人知れず涙を流す。いや、リアルには流せないのだけれども。

 佐和子は、ふうん、と呟いてからなにを思ったのかばあちゃんを振り向いた。


「この子、名前は?」

「ないよ。言っただろ、ただの売れ残りだって」


 ぐさっぐさっとばあちゃんの言葉が俺の鳥胸を抉る。ばあちゃん勘弁してくれ、と唸る俺の耳に軽やかな佐和子の声が飛び込んできた。


「じゃあさあ、この子、私にちょうだい」


 はあ?!!


「はあ?」


 俺とばあちゃんの声がハモる。もっとも俺の声は空気を震わせたりはしなかっただろうが。


 冗談じゃねえ! 誰がお前のとこになんか行くか!

 な、ばあちゃん!


 と俺はばあちゃんに同意を求めたが、ばあちゃんは、いいよ、と言うだろうなと内心諦めてもいた。

 確かにばあちゃんと俺は二人で楽しくやって来てはいたけれど、ばあちゃんと俺じゃあ意志の疎通はできない。俺はしょせんただのあひるで、ばあちゃんにとって売れ残りの汚い商品でしかないことくらい、俺にだってわかっていたからだ。

 だからばあちゃんが、


「それは無理だね」


 と言ったとき、本当にたまげてレジの横から転がり落ちそうになった。


 今、なんて言った?!


 仰天し、目を白黒させる俺の頭を、しわしわのばあちゃんの指がつと撫でた。


「こいつはさ、ここでずうっと私とこの店を見守ってきてくれたんだ。だからあんたにはあげられないね。ただまあ……」


 俺の頭に触れる指の力が少し強くなる。ばあちゃんはけしけしと俺の頭を撫で続けながら朗らかに佐和子に告げた。


「私がいなくなったらあんたにこの子をあげるよ」


 佐和子はその言葉になにも返さなかった。ただその瞬間、俺ははっきりと見た。

 いつも笑った顔しか見せない佐和子の顔が歪むのを。

 その顔を見て、俺は思ったんだ。

 ああ、この子も同じなんだなと。

 この子もばあちゃんが好きで好きで仕方ないんだな、と。

 だから、冗談でも言ってほしくなかったんだ。私がいなくなったら、なんて。

 もしも俺のくちばしがおもちゃじゃなくて生きて動くものだったら、俺はばあちゃんの指に噛みついていただろう。

 ばあちゃんを怪我させてしまうかもしれないけれど、それくらい俺は傷ついたし、佐和子も傷ついたんだ。

 いなくなったらなんて。

 絶対、言っちゃだめな言葉なんだ。

 でも……多分、ばあちゃんは俺たちよりもその言葉の重みを知っていたんだと思う。

 だからあのときそう言ったのかもしれないって今は思う。


 ある冬の朝。俺は気づいた。

 いつも夜明けとともにごそごそと朝のお茶を淹れるばあちゃんが、全然起きだしてこないことに。

 小学生たちが店の前を通り過ぎて学校へ行った後も、昼過ぎ、定刻に郵便屋さんのバイクが店の前を通ったときも、夕方近く、部活帰りの高校生たちが自転車で爆走していく時間になっても、ばあちゃんは起きてこなかった。

 ばあちゃんが顔を見せないことに俺は慌て、何度も何度も叫んだ。


 ばあちゃん、どうしたの、どうしたの。

 どうして起きてこないの。

 ばあちゃん、なにがあったの。

 ばあちゃん! ばあちゃん!


 でもその俺の声にばあちゃんは応えてくれなかった。

 応えないんじゃなくて応えられなかったんだって俺が知ったのはその翌日。

 いつも通りふらっと駄菓子屋にやってきた佐和子が、施錠されたままの駄菓子屋に異変を感じて警察に電話したことでわかった。

 ばあちゃんは、布団の中で冷たくなっていた。

 俺は……ばあちゃんの顔を見ることができなかった。

 本当は、本当なら、俺だってばあちゃんの顔を見たかった。

 でも俺はあひるだから。

 おもちゃのあひるでしかないから。

 だから……俺はただ、いつものレジ横でただうずくまることしかできなかった。


 人間はとんでもないことが起きると涙なんか出なくて呆然としてしまう、なんて話をテレビで見た覚えがある。

 それは間違いじゃないな、と俺はレジ横で丸まりながら思う。

 涙なんて出ない。

 声も出ない。


 なにもない。


 なにも、ない。


 俺はただの黄色い塊となっていた。掃除が苦手なばあちゃんのせいで薄汚れてしまったこの店の商品や備品やその他もろもろと同じ色に沈んでただ朽ちていく。

 俺なんて存在がいたことすら全部嘘みたいに、全部全部が消えていく。


 そうして呆然としている間にも時は過ぎ、ばあちゃんの葬式は終わった。

 ばあちゃんの店は、ばあちゃんの娘の朝子の手で処分されることがその後、すぐに決まった。


🐣🐣🐣



 店に訪れるばあちゃんとは違う大人の人間の会話から状況は把握していたけれど、俺にはもうどうでもよかった。

 だってそうだろう?

 ばあちゃんはもう、いないのだから。

 もう、あのしわしわの指で俺の頭を撫でてはくれないのだから。

 お前は本当に売れないねえ、って詰ってもくれないのだから。


 本当におかしなものだ。

 俺はただのあひるで、おもちゃで。なにも感じるわけなんてないのに。

 ばあちゃんがいたときだってそれは変わらなくて。

 だから……もうなにも感じなくて、どうでもいいって思う気持ちは物としては正しいことなんだ。

 そうなんだ。


 でも今の俺は物以上に物で。

 ただの黄色い塊でしかない。


 レジ横に座り続ける俺にそのとき、誰かの指が触れた。

 その指はためらいがちに俺の頭を撫でた。

 優しく優しくそうっと何度も撫でた。


 俺はぼんやりと指の持ち主を見上げる。


 そこには彼女がいた。

 ばあちゃんの孫である佐和子がいた。


 佐和子は……真っ暗な目をしていた。

 いつもきらきらしている瞳には光などかけらもなく、ただ闇を映す鏡のようにどんよりと曇っていた。

 さながらこの駄菓子屋の汚れたガラス戸みたいな目だった。

 その彼女が無心に俺を撫でる。

 そうすることでなにかが変わると思っているかのように、彼女の指が俺の頭を撫で続ける。

 ばあちゃんとは違う、滑らかな指でひたすらひたすらに。

 その撫で方はやはりばあちゃんとは全然違って、違い過ぎて。

 その違いが俺の胸を押しつぶした。


 なんでなんだろう。


 なんで人は死ぬのだろう。


 なんで俺は一人なのだろう。


 なんで俺は……また一人なのだろう。


 ばあちゃん。俺は。俺は一緒が良かったよ。


 売れ残りだねって詰られてもなんでも。それでも俺はばあちゃんが。


 好きだった。


 虚無にまみれていた俺の胸にぽつん、と浮かんだ言葉を自覚したとたんだった。佐和子の指が震えた。ふうっと見上げた先、俺は見た。

 佐和子が泣き出していた。

 ブラックホールの底の底みたいな色をしていた目から雫が盛り上がり、はらはらと頬を滑っていく。

 透明なそれは頬を通り、顎の先へと伝い、そうして……俺の背中に落ちた。

 温かいそれが俺の体にじわり、と染みた。


 佐和子はなにも言わなかった。

 けれど俺には彼女の声が聴こえた気がした。


 どうして。

 どうして、いないの。

 どうして、いなくなるの。

 どうして。

 おばあちゃん。


 会いたいよ。


 俺の胸の中でなにかが動いたのはこのときかもしれない。


 俺には……家族なんていない。

 兄弟のように思っていたあいつらは、今はどこか遠くの風呂場に浮かんでいる。

 そして俺にとって一番身近だと思っていたばあちゃんは冷たい骨となって俺の手の届かないところへ行ってしまった。


 でもこのとき、俺は確かに感じたんだ。


 俺と同じものをこの子が持っていることを。

 俺と同じ痛みをこの子が感じていることを。

 嫌いだと思っていたんだ。

 俺とばあちゃんの間に入って来る邪魔者だって思ってたんだ。

 でも違うんだ。この子にとってもばあちゃんが特別だっただけなんだ。


 俺と同じように。


 そう思ったらこの子が愛おしくてたまらなくなった。

 見上げた俺の目と佐和子の目が合う。


 佐和子は真っ黒な目にこれでもかというくらい涙をためて、こう言った。


「もう、いいよね。連れて行って……いいよね。おばあちゃん、もう、いないもんね」


 その言葉に俺は頷いた。

 もちろん佐和子には頷いてなんて見えなかっただろう。ただの黄色いあひるがそこにいる、それだけだったはずだ。

 けれどそれでも俺の覚悟は佐和子に伝わった、と俺は思った。


「おばあちゃん、病気だったみたいなんだ。ずっと苦しかったはずなんだ。でも……私はさ、なんにもしてあげられなかった。おばあちゃん、意地っ張りで……頼ってもこない人だし。でも本当はなにか、なにかできたはずなのに」


 佐和子の指がまた俺の背中を撫でる。その撫で方はばあちゃんとはやっぱり違う。違うけれど。


「本当に……私は馬鹿だ」


 この子はとても優しく、ばあちゃんにすごく、似ている。


 だから俺は決めたんだ。この子を守ると。

 ばあちゃんを大切に思ってくれたこの子を絶対に。


🐣🐣🐣


 一緒に暮らすようになって俺は知る。

 佐和子が少し……いや、かなり変わっていることを。

 その理由の一つは佐和子が作家なるものになるという野望を持っていたことが大きい。

 作家っていうのが物語を作ることを生業にする人であることくらいは俺だって知っている。だが、ばあちゃんは老眼が進んで本を読むタイプでもなかったし、物語を作るってのがどうやるものなのか、皆目見当もつかない。

 ただ佐和子が寝食を忘れてのめり込んでいる姿を見るに、相当楽しく、病みつきになる類のものであることは確かだろう。


「よし! バイトを変えよう!」


 ある朝、佐和子がそう叫んだとき、俺は居間のテレビ台の上でうつらうつらしていて、そのあまりの大声に驚いて転がり落ちそうになった。


 おいー! あんまり朝から騒ぐとまた隣の部屋の人に壁叩かれるぞ! ついこの間じゃなかったっけ? お経を唱える感じがどうにもつかめないからって般若心経の動画をエンドレスに流しすぎて、隣のええと、なんて名前だっけ、六道さん! そう、六道さんに怒鳴りこまれたの。

 まったく、静かに騒げよ、佐和子!

 え? で、なんでバイト変えるの?


「どう頑張ってもわからないのよ。葬儀屋さんの気持ち。と思って調べたら見て! 葬儀屋のアルバイト載ってたの! しかもうちの近所! ついている!」


 佐和子はすでに大学生だ。学業に影響がない範囲ならアルバイトだっていいと思う。けれどだ! 小説のためだけにアルバイトを変えると言い出したのはこれで何回目だ?!

 大丈夫なのか、佐和子!


 俺は不安いっぱいだが、佐和子はるんるんしながら電話をかけ始めている。こうなったらもう止まらない。佐和子はイノシシと化す。そういえば干支もイノシシって言ってた気がする。

 やれやれ、葬儀屋か。幽霊でも連れてこなければいいけど、とため息を吐く俺を電話をかけ終わった佐和子が振り向いた。


「ほんと、あなたが来てから全部すいすい物事運ぶのよね。……そうだ!」


 佐和子はそこで手をぽんと打ち、俺をひょいと持ち上げた。


「あなたの名前、すいすいにしよう! すいすい物語が書けるように! うん! ナイス!」


……ナイスじゃねえよ!

 なんつう安直な……。

 けどまあ、けどまあ。


 すいすいも悪くない、かな?


 俺がにんまりしているのを知ってか知らずか、佐和子はにこにこしながら続けた。


「葬儀屋で幽霊の一人とでもお近づきになれるよう祈っててね、すいすい」


 冗談じゃねえや!


 俺はくちばしをつんと上げる。

 まさかその言葉通り、幽霊を佐和子が連れ帰ってしまうなんて、このときの俺はまだ知る由もないのだが……それはまた、別の機会に話せたら、と思う。

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