第31話 女神の力

 薄闇の中で、イリーナは瞼を開ける。そこは、まるで霧の中のようだった。イリーナは暗い空中を漂っている。


(霧……?)


 目の前に手を伸ばしかけて──イリーナは己の目が見えることに気付いて驚く。


「あっ、あれ? 私、目が見える……?」


 困惑していると、揺らめく黒いモヤの中に、ぼんやりと山のように大きな影が見えた。


「あなたは……」


 その影はイリーナに語りかける。


『余はデミウル』


(これが……邪神デミウル……?)


 その存在感に圧倒される。

 じっと目を凝らすと、影の輪郭がはっきりとしてきた。それは巨大な黒い竜だった。先程見たような黒いモヤではなく実体だ。禍々しい気配に、自然と鳥肌が立つ。


『余は女神の生命力をすすり、かつての力を取り戻すのだ。余の生贄となるが良い』


「……私は女神じゃない」


『いいや、女神だ。余には分かる。お前は女神の生まれ変わりだ。だからお前が欲しいのだ、イリーナ。──クックック……思えば、あのマティアスとかいう男も愚かなことをしたな。余が女神の魂以外を望むはずがないのに』


(私が……女神の生まれ変わり……?)


 デミウルが言っていることが信じられない。それなら、女神のあらゆる力はイリーナのものということになるが──。


「私が女神だというなら、どうして私はこんな体になってしまったの……?」


 女神には治癒力もあるはず。目が見えず余命一年と宣告された虚弱なイリーナとは程遠い。

 デミウルは唸るように言う。


『赤子の頃に、お前は余の魂と接した。それで女神の血が覚醒したのだ。心読みは元々のお前の持つ力だ。──お前の一族は生贄を捧げる代償として心読みの異能を得ると勘違いしているようだったがな。だが、その勘違いは余には都合が良い。だから話を合わせてやっていただけだ』


「そんな……」


 イリーナは驚愕する。

 デミウルはイリーナの先祖の勘違いを利用して、憎き女神の末裔の生命力を吸っていたのだ。


(なんてことを……)


 イリーナは口元を手で覆う。

 そうと知らず犠牲になってきた先祖達を思うと、胸が痛んだ。


『女神の末裔の生命力を削いでジワジワと殺すのは余の何よりの楽しみだった。特にイリーナ、お前は最高だ。これまでの生贄とは違い、本物の女神だ。お前が生きることに絶望し、家族と仲違いして壊れていく姿を、マティアスの中から見るのは本当に愉快だった! ……しかし、それももう終わりだ。お前の命ももうじき散る。余は完全復活し、世界を死の色に染め上げる。かつて女神に阻まれできなかったことを成すのだ。女神が命をかけて護ったこの世界を蹂躙するのは、さぞ楽しかろうなァ。まずは余の長い尾で地上を揺らし、人間どもを踏みつけてやろう』


 デミウルがそう笑った瞬間、イリーナは息苦しさを覚えた。まるで水の中にいるように呼吸ができなくなる。


(苦しい……!)


『あと半刻もすればお前は死ぬ。余の力となるのだ』


(そんな……!)


 イリーナは愕然とした。デミウルは愉快そうに高笑いした。

 ──だがその刹那、黒い竜が苦しげに、のたうち回る。


『なっ……! 何をっ、やめろ! 石像を傷付けるな!!』


 デミウルがその場で暴れまわったせいで黒い霧が晴れ、イリーナの足元に洞窟の中が見えた。巨大な空間に移動したのかと思っていたが、どうやらイリーナは洞窟にあるモヤの中で幻影を見ていたらしい。壁にあった大きな御神体にはヒビが入っていた。


(陛下!?)


 実際に己の目で見るのは初めてだったが、先頭で剣を掲げている銀髪の青年がヴィルヘルムだと、イリーナにはすぐに分かった。その類まれな美貌と聞き覚えのある声は間違いない。彼だ。


「イリーナ! 今助けるッ!!」


 そう叫んだヴィルヘルムが御神体に向かって剣を振り下ろす。


『ギャァァァ!!』


 つんざくようなデミウルの悲鳴が聞こえた。


「イリーナ!」


 地上からイリーナに向かって手をヴィルヘルムは手を伸ばす。イリーナは彼の手をしっかりと握りしめた。そして黒いモヤから引っ張り出され、ヴィルヘルムに抱きしめられる。


「イリーナ! 怪我はないか……ッ!?」


「陛下……!」


(会いたかった……)


 彼の体温を感じて、安堵すると同時に涙が出そうになる。しかし感傷に浸る間もなく、黒い竜が怒りに燃えた声で叫んだ。


『許さん! 許さんぞ!! 余の体を切り裂いたその罪万死に値する!!』


 巨大な黒竜が黒いモヤから飛び出し、鋭い爪のついた前足を振り上げて突進してきた。

 ヴィルヘルムはイリーナを優しく引き離し、「離れていろ」と言って背中にかばう。

 激しい音がして、ヴィルヘルムはデミウルの爪を剣で受け止めた。そのまま弾き返す。そして体勢を崩したデミウルに向かって駆け出した。


「陛下、危ない!」


 イリーナは叫ぶ。

 デミウルが大きく尾を振り、ヴィルヘルムの胴体にぶつけたのだ。その衝撃で、ヴィルヘルムは壁面に弾き飛ばされる。だがヴィルヘルムは直前に地面に剣を刺して勢いを殺した。彼は再び剣を構えるとデミウルに向かって猛進していく。


「うおおぉぉ!!」


 ヴィルヘルムが雄叫びを上げた。その王者の気迫に押されたのか、黒い竜の動きが鈍る。その隙をついてヴィルヘルムの剣がデミウルの体を切り裂いた。デミウルの体が崩れ落ち、大きく地面が揺れた。

 その瞬間、最後の力を振り絞ったかのように壁の御神体から黒いモヤが噴き出す。


「何っ……!?」


 ヴィルヘルムが動揺の声を上げた時には、もう遅かった。


「うっ、うあああああああッ! 来るなぁぁ!!」


 生き残っていた数人の白いローブの男達がざわめき出す。黒いモヤは信者達を残らず取り込み、その生命力を吸収して勢いを増しながらイリーナへと飛んできた。

 まるで黒い槍のように、うねりながら恐ろしい速度で向かってくる。


『イリーナァァァ! お前は余のものだ!!』


 デミウルが、そう叫んだ。


「いやぁぁッ!!」


 イリーナは悲鳴を上げる。

 黒いモヤが襲いかかろうとした寸前に、イリーナの前にヴィルヘルムの体が現れる。


「クッ……」


 ヴィルヘルムの剣が黒いモヤを引き裂いたが、わずかに取りこぼした蛇の頭が最後の足掻きとばかりにヴィルヘルムの胸部に食らいついて消滅した。


「陛下ッ!」


 イリーナは慌てて彼の体を支える。しかし貧弱なイリーナには受け止めきれなくて、その場に一緒に崩れ落ちてしまった。


「陛下! しっかりしてくださいっ!」


 イリーナは膝の上に横たわるヴィルヘルムに必死に呼びかけた。

 だが彼はひどく苦しげに息をしていた。脂汗もかいている。

 イリーナは近くの兵士に協力してもらい、ヴィルヘルムの鎧を脱がせた。するとシャツの隙間から、どす黒いアザが広がりつつあるのが見えた。

 胸から侵入した邪神が彼の体を蝕んでいるのだ。

 それは恐ろしい速度で侵食し、ヴィルヘルムの首から頬にかけて刺青のような黒い模様ができている。


「陛下……!」


 イリーナの瞳からポロポロと涙がこぼれた。

 このままでは彼は死んでしまう、と分かった。


(やっと……やっと逢えたのに……!)


 だが、ヴィルヘルムはその状況にそぐわない穏やかな笑みを浮かべている。


「イリーナ……お前が、無事で良かった。お前さえ生きていてくれたら……俺は良いんだ。他に何もいらない。これからは……俺の分まで後悔なく、生きてくれ」


 その別れの言葉に、イリーナは耐えきれず声を上げて泣き叫んだ。


「嫌です! 陛下、私を置いていかないで……ッ!」


(こんな終わりなんて嫌……!)


 イリーナはヴィルヘルムの胸に縋り付く。


「もしも、本当に私が女神の生まれ変わりだというなら、どうかお願い。陛下を助けて──」


 イリーナはそう強く願いながら、ヴィルヘルムの胸に両手を押し当てた。

 ──その時、手のひらから、まばゆい光が溢れてきた。それはどんどん光り輝き、イリーナとヴィルヘルムの体を包み込む。


(な、何……? 内側から力が湧いてくる……)


「イリーナ……?」


 ヴィルヘルムが目を見開いて驚愕している。

 イリーナは必死にその力を制御しようとした。その光をヴィルヘルムの胸に集中させるイメージを作り上げる。


「お願い……ッ!」


 浄化の力でデミウルの残滓を消滅させ、ヴィルヘルムの傷付いた体を己の治癒力で癒やしていく。自分にならそれができると、なぜか分かってしまった。不思議な感覚だ。──まるで、かつて何度もした行為であるかのように体が覚えている。


「……大丈夫。必ず、陛下を助けます」


 そうイリーナが励ますように微笑みかけると、ヴィルヘルムは目を剥いた。そして彼女に心を奪われているかのように、ただイリーナをじっと見つめている。


(──もう大丈夫)


 ヴィルヘルムの体に邪神の気配は残っていない。傷口も全て塞いだ。

 安堵した瞬間、イリーナの視界がグニャリと歪んだ。その体をヴィルヘルムに支えられる。

 初めて使った女神の力の反動だろう。全力疾走した時のように肩で息をしていた。心地よい疲労感が襲う。


「イリーナ! 大丈夫か!?」


「わ、私は大丈夫です。陛下は大丈夫ですか? ご体調は……?」


 そう尋ねるイリーナに、ヴィルヘルムは当惑気味に答える。


「あ、ああ……全く問題ない。むしろ普段よりも調子が良いくらいだ。力が内側からみなぎってくる」


「そうですか。良かった……」


 イリーナは、そう安堵の息を漏らした。

 そして、ようやく周囲を眺める余裕ができる。イリーナとヴィルヘルムを囲むように兵士達が大騒ぎしていた。


「聖女様だ!」


「今の光を見たか? イリーナ様は伝説の聖女様だったんだ……! 陛下を救われた!」


「陛下と聖女様が邪神を倒したぞォォォ‼ やったァァァ!!」


 ヴィルヘルムは兵士達の様子に苦笑を浮かべる。


「聖女か。……お前がそう呼ばれるのも悪くない」

 

 そしてヴィルヘルムは立ち上がり、イリーナの手を握りしめる。


「イリーナ、お前のおかげで助かった。ありがとう。これで命を救われるのは三度目だな」


 ヴィルヘルムは優しく微笑んでいる。その笑みを見て、イリーナは慌てて首を振った。


「……私こそ、陛下に救われました。デミウルを倒すことができたのも、私が生きていられるのも陛下のおかげです」


 伯爵家にいたままだったらマティアスの真意を知ることもなく、邪神に生命力を奪われて死んでいただろう。邪神が復活したら国民にも大きな被害が出ていたはずだ。

 イリーナは、はにかみ笑いを浮かべる。


「陛下。私、目が見えるようになりました。もう体も自由に動かせます。デミウルから奪われていた生命力を取り戻したので、もう余命のことに煩わせられることはないと思います……だから、これからは陛下と色んなことをしたいです」


 イリーナはそう言って、ヴィルヘルムの手を握りしめる。

 今まで何をするにも人手を借りなければならなかったが、もうそんな心配はいらない。

 四肢の痛みは完全に失せている。あまり運動できていなかったら体力が落ちているが、少しずつ筋力も回復していくだろう。

 イリーナの言葉に、ヴィルヘルムは瞠目してから破顔した。


「……そうか。良かった。それなら──」


 ヴィルヘルムはその場にイリーナをおろして、地面に片膝をつく。

 そして、イリーナに片手を差し出した。


「イリーナ、俺と結婚して欲しい。もし俺のことを好きでいてくれるなら、今度は一年の契約ではなく、ずっとそばにいてくれ」


 彼の求婚に、イリーナは驚いた。

 そして瞳に涙をにじませて頷く。


「はい……っ!」


 その瞬間、周囲から祝福の声が上がった。拍手が洞窟の中に響き渡る。


「おめでとうございます!!」


「お二人のご婚約を心から祝福いたします!」


 大勢が祝福してくれた。

 ヴィルヘルムが感極まったようにイリーナを抱きしめる。


「もう離さないぞ、イリーナ」


「はい……! 私も……!」


 そう言って、イリーナも彼を抱きしめ返した。



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