第30話 邪神との戦い
イリーナは、マティアスに引きずられるように馬車から降ろされた。
彼が彼女の手を引いて歩いて行こうとしたが、イリーナは抵抗して動かない。
「無駄な抵抗を……それとも、優しく抱っこして連れて行ってあげましょうか?」
普段からヴィルヘルムにされていることを揶揄されているようで、怒りと羞恥心でイリーナは顔が赤くなった。
(こんな男に抱き上げられたくない……)
けれど、口調は優しくてもマティアスは譲ろうとはしなかった。
「ほら、あんなふうに無理やり引きずられて行くのは嫌でしょう。それなら、自分の足で歩いてください」
目が見えないイリーナには、マティアスが何を言っているのか分からなかったが──。
「おら! さっさと歩け!」
野太い男の声の後に、鞭打つような音が響いた。
「ひいっ! 痛いッ! 止めてくれよ、歩くからさぁ……ッ」
伯爵の声だった。続いて伯爵夫人が叫ぶ。
「私達をどこへ連れて行くつもりなの!?」
「もう嫌! 縄をほどいてよぅ……! 解放してよ!」
ビアンカが悲痛そうに叫んだ。
伯爵達は縄で後ろ手に縛られた上に、逃げ出せないようにそれぞれの胴体を太い縄で一列になるように繋がれている。
マティアスがクスリと笑う。
「ああは、なりたくないものですね」
彼の声が届いたのか、伯爵がマティアスに向かって怒鳴り散らした。
「マティアス! お前、話が違うじゃないか! 脱出を手伝ってくれるって言ったのに……!」
「地下牢から脱出できたじゃないですか。私が嘘を吐きましたか?」
マティアスの挑発に、伯爵は怒りで真っ赤に染める。
しかし分が悪いと思ったのか、それ以上は何も言わなかった。
「さぁ、モタモタしていられません。もうじきに日がくれてしまいます。夜になる前に祠にたどり着かなければ」
そうマティアスに急かされ、男二人に前後を見張られながら伯爵達は渋々といった様子で森の道を歩き出した。
イリーナはマティアスにガッチリと腕を掴まれていて逃げられない。仕方なく、ゆっくりと進んで行く。
森の生き物達も今は息を潜ませているようで、辺りは奇妙な沈黙に包まれていた。
どれほど歩いただろうか。日が沈み、イリーナの足が痛みを訴え始めた頃、ようやく森を抜けた。
イリーナの前には切り立った石崖があり、そこに裂け目のような洞窟ができている。
(ここに祠があるの……?)
おそらく邪神の儀式のために幼い時に来たことがあるはずだが、イリーナは目が見えない上に、幼い頃の記憶なので覚えていない。
不気味な冷気が洞窟の中から流れてきており、本能的に近付きたくないと思うほどに忌避感情が湧き起こる。
「さぁ、こちらへ」
マティアスに促されてイリーナ達は恐る恐る洞窟の中へと足を踏み入れた。
「何だ、お前達は……」
伯爵は当惑気味に、そう言った。
そこに並んで立っていたのは、白い頭巾のついたローブをまとった男達だった。手にある燭台には火が灯されており、空気でゆらゆらと奇妙に揺れている。
「お待ちしておりました。マティアス様」
白いローブの男達はマティアスに深々と頭を下げた。邪神教徒達だろう。
「ああ、皆。今宵は満月だ。デミウル神の復活に相応しい良き日だ。お祝いしようじゃないか」
マティアスがそう言うと、白いローブの男達は声を揃えて「おお!」と叫んだ。
「デミウル神の復活を!」
マティアスがそう言うと、白いローブの男達は恭しく燭台を掲げた。
その光に照らされるようにして、洞窟の奥の壁に大きな石像があるのが見えた。それは御神体である邪神像だ。禍々しい形相でイリーナ達を見下ろしている。
(何……? 見えないけど、とても禍々しいものがあるのが分かる……)
イリーナの本能が危険を告げていた。逃げたいが、マティアスに拘束されて振りほどくことができない。
「デミウル神よ、今ここに蘇りたまえ」
マティアスがそう唱えると、洞窟の中に奇妙な光が満ちた。イリーナは何か邪悪なものが近付いているのだと直感的に悟った。
(何か来る……)
肌の上をゾワゾワと毛虫が這い回るような悪寒が走る。
イリーナは渇いた喉に唾を飲み込んだ。
ビアンカは恐怖にガタガタと震えていた。伯爵夫妻も呆然としている。
そんな中で、信者達の蝋燭の火が高く火柱のように噴いた。
白いローブの男の一人が燭台を高く掲げて叫ぶ。
「我らの神デミウル様よ! お目覚めください!」
その声と共に、洞窟の中に満ちていた光がさらに強くなる。イリーナの額に脂汗が滲む。
(これが邪神……)
そう思った瞬間、マティアスが歓喜に満ちた声を上げた。
「ああ! ああ……! デミウル様……!」
彼は恍惚とした表情で天を仰ぐ。そして──。
「我が神よ! お姿をお見せください!」
マティアスがそう叫んだ直後、彼の体と壁にある御神体から黒いモヤのようなものが噴き出した。それはまるで蛇のように宙を踊り、黒い渦が巨大な竜を形作る。
『女神を……イリーナを寄こせ』
地を這うようなくぐもった唸り声だ。
マティアスはその場に膝をつく。手首を掴まれていたイリーナもつられて崩れ落ちた。
「神よ──。五十年に一人という生贄の禁を破る無礼をお赦しください。どうか、余命わずかのイリーナなどやめて、女神の末裔であるこの男と娘のビアンカを新たな生贄にしてください。そうすれば、もっと御身は力を蓄えられるはずです」
しかし邪神はブルリと大きく身を震わせる。
『余は女神が欲しい。憎き女神の輝く生命力をすすり飲んでやりたいのだ。すぐには殺さず、じわじわと生命力を舐め取り、生き地獄を味あわせてやりたい』
「はい。ですから……」
マティアスが視線を投げると、白ずくめの信者の男が心得たというふうにビアンカの腕を引っ張って無理矢理立たせる。そして信者の男は叫んだ。
「デミウル様! この娘をあなた様に捧げます!」
そして白ずくめの男はビアンカの腕を掴み、その手のひらにナイフの刃を走らせた。
「きゃあぁぁぁ……ッ!」
血が噴き出した己の手のひらを見て、ビアンカが叫んだ。信者の男は鮮血で濡れたビアンカの手を黒い竜のモヤに差し出す。
「ビアンカ、あなたデミウル神に捧げられます。しかし心配いりません。神の魂に触れたら聖女としての血が覚醒するはずです。──かつてのイリーナ様のように」
そう言ってマティアスがなだめたが、ビアンカは泣き叫びながら左右に首を振る。
「いやぁ! やめてぇぇ!!」
「そこまでだ!!」
─その時、洞窟に飛び込んできたのはヴィルヘルムと兵士達だった。伯爵と夫人は「ひぃっ」と情けなく叫んで身を縮める。
ヴィルヘルムは抜き放った剣を手に、マティアスに向かって駆ける。
「イリーナを返せ!」
「くッ」
突進してきたヴィルヘルムに、マティアスはイリーナを盾にした。
「卑怯だぞ……!」
その場に踏みとどまり、ヴィルヘルムはジリジリと間合いを詰めようとする。
しかしマティアスは馬鹿にするように鼻で笑った。
「──あなたはイリーナ様を傷つけることはできない。かつての陛下ならば躊躇うことはなかったでしょうに。……ああ、愛は身を滅ぼしますね」
「黙れ! イリーナ、待っていろ。必ず助け出す!」
ヴィルヘルムが怒鳴ったその瞬間、黒い竜の形をしたモヤが黒いガスでできた竜の口がビアンカの手のひらをパクリと咥えた。そしてそのまま──。
「え……? 消えた?」
マティアスが動揺したようにつぶやく。
黒い竜のモヤに吸い込まれるようにしてビアンカの姿が消えたのだ。まるで最初からそこにいなかったかのように、跡形もなく消えてしまったのである。
『……まずい。まずいなぁ。これは聖女の器ではない。こんなものを食わせおって……』
そうデミウルが苦々しく言う。
伯爵夫人が甲高い叫び声を上げた。
「ビアンカ──ッ!! いやぁ! ビアンカを返してぇ!!」
「ハァ……うるさい女だ。デミウル様、この女も生贄に捧げます」
マティアスがそう言うと、屈強な信者の男が心得たという風に頷き、伯爵夫人を羽交い締めにして黒い竜の前に突き飛ばした。そして彼女の首にナイフを当てる。
(やめて……ッ)
イリーナが止める間もなく、信者の男の凶刃は伯爵夫人の首を切り裂いた。
「いやぁぁぁぁぁッ!!」
伯爵夫人の首の傷口から鮮血が噴き出し、彼女は白目を剥いて倒れた。その体が黒いガスでできた竜の口に吸い込まれていく。
『これも器ではない。女神の血筋ですらない。ただ、まずいだけだ』
デミウルは落胆したようにつぶやいた。
「あ……ああ……」
伯爵は夫人と娘のビアンカが消えたことで、呆然として膝をついている。
マティアスに手首を拘束されているイリーナは、何とか隙を見て逃げられないかと藻掻いていたが、マティアスは決してイリーナを離さなかった。
(すぐそばに、陛下がいるのに……!)
近付けないのが、もどかしかった。彼が怪我をしたらどうしよう、と不安が募る。
そんなイリーナの耳にマティアスが背後からささやく。
「伯爵も彼らの後を追わせてあげましょうね」
その言葉にゾクリとした。
「もうやめて!」
「いいえ。ビアンカをもってしても、デミウル神を鎮めることはできませんでした。伯爵を捧げても同じでしょう。……仕方ありません。イリーナ様、一緒に死にましょう」
マティアスがそう愛の言葉のように言う。
「ああ……陛下……!」
イリーナは必死にヴィルヘルムの方に手を伸ばす。
「イリーナッ!」
ヴィルヘルムは怒りに燃えた目でマティアスを睨みつけた。そして剣を構えて突進する。しかし、それを白ずくめの信者達が阻んだ。彼らは皆、ローブの中に剣を隠し持っていたのだ。ヴィルヘルムは次々と切り掛かってくる信者達を斬り伏せていく。
「陛下……ッ」
イリーナが悲鳴を上げるのとほぼ同時に、マティアスが叫んだ。
「デミウル神よ! どうか我々に慈悲を! この世界に救いを!」
そしてマティアスは自らの体を黒い竜の口の前に進み出る。イリーナをガッチリと拘束したまま。
「やめて……!」
しかし、イリーナの願いは届かない。
黒いガスでできた竜はマティアスの体を溶かした後に、イリーナにその大きな牙を向ける。
「やめろ───ッ!」
ヴィルヘルムは絶叫した。
しかし、その声は洞窟に反響して消えていくだけだった。
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